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鑑賞090「メダル」 [百題百日2008]

今日の鑑賞は「メダル」。90番目の題です。
このイベント開催中に北京オリンピックがあったために、オリンピックのメダルを題材にしたと思われる歌が多く集まっていたようです。
金メダルを齧る選手の歌もけっこうありました。最近では定番のポーズになっているようですが、このポーズを始めてとったのは誰か? 
少し前にちょっと気になって調べたことがあります。 →→ 
また、勝者たちに与えられる金銀銅メダルですが、子供の競技の場合、みんなに金メダル、なんてことはもう、珍しくもない話になっていますね。
その他のメダルとしては、記念メダルやゲーム用のメダル、なんてものもあります。案外、いろんなメダルがあるものです。
いろいろ見ているうちにメダルの定義がよく分からなくなってきたので、ウィキペディアを調べてみました。案外幅広く使われているものです。

ほとんど雑談の前置きでしたが、話を歌に戻して、1首ごとの鑑賞の方へと。
最初は勝者に与えられるメダルの歌から。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
ええそりやあサボつたこともあつたけどあたしだつて金メダル欲しい
一人の生徒の声、なのだろう。
桑原さんの学校を舞台にした歌の中で、ちょっと異質な変化球って感じがした。
少し散文的に流れるリズムの中、他の歌とはちょっと違う心の声、という感じで聞こえてくる。

岩井聡 (あと100年の道草)
「俗物」と彫ったメダルの鈍色に覚める夜明けがあるんだなこれが
「あるんだなこれが」がいい。
「俗物」を自分の属性としてとらえているんだろうけれど、それをどうこう言うのではなく、ただある、としているところが面白い。
それにしても「俗物」と彫られているメダル、欲しいなあ。
ラテン語などで書かれていたら、すぐには分からないわけで、案外、世間で流通している、なんて想像してみるのも面白い。

史之春風 (はちぶんめblog)
わたくしを娶った勇気を表彰し万博記念のメダルを君へ
こちらは、記念メダルの歌。
わたしにも、メダルを渡すべき人がいます…。そういえば、どこかに万博記念のメダルならあったかも。
この歌、初句二句も面白いのだけれど、「表彰し」があることで、より、メダルの授与式のようなイメージがしっかりと浮かぶ。

こすぎ (たんかんぽんかんみかん)
手に入るメダルはいつもチョコレート新河岸川をくだってのぼって
メダルチョコの歌。
駄菓子屋の定番で、子供が簡単に入手できるお菓子だった。
あまり目立つ子供ではなかった作中人物だろう。下句がリリカル。
ところで、とまた蛇足ですが、ノーベル賞の形のメダルチョコ、なんてのもあるんですね。
益川教授、素敵!

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
抽斗のメダルやコインを磨き上げ満ち足りていたあの夏の日は
ゆったりした気分の時でないと味わえない喜びがある。
光を失ったものに、輝きを取り戻させる作業というのは、精神衛生上にもよさそうな仕事だ。
夏の夕暮れの、戸外が光を失いつつある時間に、無心にメダルを磨く女性の姿が浮かぶ。
だが、作中の人物にとっては過去のことなのだ。

小早川忠義 (ただよし)
新宿の明るさ過ぎたる道の端踏まれ続けるメダル一枚
この歌のメダルはパチスロのメダルか。
場末の風景だ。都市の盛り場は突然途切れて薄暗い路地へと続く。

砺波湊 (トナミミナト2008)
今朝もまたフランチェスコと鳥は居り胸に下がったメダルのなかに
このメダルは、あまりなじみのないメダルじゃないだろうか。宗教的な意味合いのあるメダルのようだ。
図柄は有名な、アッシジの聖フランチェスコが小鳥たちに説教をしている場面だろう。
小鳥とともに永遠にメダルの中に閉じ込められているフランチェスコは、なんだかとても、フランチェスコらしい感じだ。





鑑賞089「減」 [百題百日2008]

今日は鑑賞89日目。「減」の題の歌です。
短歌は、失われていくものを惜しむ心と、相性がいいようなので、いい歌がたくさんあるかな、と思ったのですが、ピックアップした歌は多くはありませんでした。
減るという言葉自体が、直接的で情緒的な部分を刺激しない言葉なんでしょうかね。
体重や塩分に関する歌がたくさんありました。健康に関心の高い、いまの時代らしい特徴のような気がします。

それでは、1首ごとの鑑賞です。

晴家渡 (晴家渡の二酸化短歌)
靴底がいびつに減って思い知る僕たちちゃんと生きてることを
偏った減り方をする靴の歌はいくつも見かけた。そういう人が案外といらっしゃるのだろう。
その減りに何を見るかが、歌として大事なところだと思うのだが、この作中の人物は「ちゃんと生きてること」の証として見ている。
それに気づく、ということは、普段はそうは思っていない、ということ。言いかえれば生きている実感に乏しい、ということだろうと思う。
しかし、一日ではほとんど変化のない靴底も、しばらく履き続けているうちに、自分の癖に従って形を変える。それを見てようやく、空気のような、頼りない存在だとしか思っていた、自分自身が確かに存在しているのだ、と感じるのだ。
ただ、3句の「思い知る」にちょっと違和感を覚える。うまく言えないのだが、作者としては「思い知」ったとしか言えないような出来事なのだろうが、その言葉の重さによって、逆に読者にその思いを伝えるのを邪魔しているような、そんな気がした。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
わが靴の右の踵のそとがはを減らす左脳のまよひ愛(かな)しき
この歌では、左右で違う靴の減りの原因を、巷で言われる、右脳左脳の説と絡めて想像している。
それによると、左脳は論理的な働きをする、ということになっていて、多くの人は直感的な働きをするとされる右脳により、あこがれているような風潮がある。
作中の人物は理屈や常識にとらわれている《左脳型人間》の自分を、気に入らないけれど、やっぱりそれは私で、と「愛し」いと感じているのだろう。

拓哉人形 (銀鱗歌)
婚姻はいわば決算 年ごとに減価償却されゆくふたり
なるほど。
この歌で大事なのは「いわば」の部分。これがあることで、金銭面にすべてを置き換えようとする読みから逃れられるのだと思う。
(金銭面でいうならば、私は押入れにしまい込まれた家電製品のように、ただ、古びるだけで元の取れない物体なんで、なるほど、とは思えない…。)
結婚して年月がたつと、いろんなものが古びて、何がなのかはよく分からないけれど、ゼロにどんどん近付いていく感じがある。

ジテンふみお (雲のない日は)
よく話す幼なじみは引っ越して町から減った電話ボックス
上句と下句の間には因果関係はないけれど、遠くのところでつながっているような感じ。
同じところに住み続けていても、周りは少しずつ変わって行く。人も物も。

近藤かすみ (気まぐれ徒然かすみ草)
岸本屋が百円ショップになつてから出町の馴染みの店減りゆきぬ
これも身近な場所の変化の歌。
京都の出町柳の出町だろう。
岸本屋という名が、古くからの個人商店を思わせるのだが、その店が消えて、できたのが全国どこにでもある、100円ショップ。象徴的な出来事だ。
それを皮切りに、古き良き町並みは急速に失われていっているのだろう。
作中の人物が大事に思っているその思いだけではなく、歴史のある街だけに、失われていくものの大きさは計り知れない。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
冴えてゆく白磁の月よ辛口の酒が減つたとおもふこの頃
甘口派としては、最近、辛口が増えた感じがして仕方がないのですけど、これは立場によって違って感じられることなのかも。
さて、甘口派の私ではあるが、冷え冷えと冴えた光を返す月には辛口の方が合う、ということには異論はない。
世の中全体が甘口に、ぬるま湯化していることへの心理的抵抗が詠ませた歌だろう。

 


鑑賞088「錯」 [百題百日2008]

本日、88日目の題は「錯」です。
よく使われる文字ですが、概念を表す言葉として使われる場合がほとんどなので、具体的な物を詠み込むよりは難しかったでしょうか。
それでは、1首ごとの鑑賞です。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
ひといきに食ふか否かはさて錯いて滴る桃のこの紅よ
おいしそう、と感じる桃の色は大きく言って東西で違うらしい。
赤い桃をおいしそうと思う人たちと、全体がクリーム色でほんのり赤く色づいた桃をおいしいと思う人たちが存在する。
わたしはクリーム色の桃の文化圏で育ったので、赤い桃を見ても食指は動かない。ただし、実際に食べたら、赤い桃も美味しい(というか、色の差は光をさえぎっているかいないかの差の部分が大きく、外れはむしろ赤い方が少ない気がする)のだけど、無意識の選択が働くのか、赤い桃を買うことはない。
しかし、この歌の桃はほんとに美味しそう、と思ったのね。たった31音ほどしかない短歌だが、作中の人物に同化しているのだろう。小説や映画などではよく起こる事だが、(ヤクザ映画を見終えた人が肩を怒らせて映画館を出てくる、という話はよく例にひかれますね)こんな短い歌にしても、やはり同じことが起こっているのだなあ、と思った。

梅田啓子 (今日のうた)
情報の錯綜する春 植木鉢を庭に出だせば蟻の這ひでる
最近では携帯電話の普及により、情報の錯綜度は以前に比べ、より高くなっているように思う。
そんな何かの情報に右往左往している作中人物だが、冬じゅう室内に置いていた植木鉢を戸外に出せは、蟻が這い出してきた。
そこに作中人物はふっと自らの姿を重ねている。時期が来れば自然にはっきりとする事柄もあるのだから、そんなにあれこれ杞憂しても仕方がないじゃないか、といったようなことを思っているのだろうか。

斉藤そよ (photover)
恋しさが錯綜してる秋の野のエゾノコンギク なにを話そう
エゾノコンギクは北海道に自生している花で、初秋に咲くのだそうだ。草原に群れをなすことが多いのだとか。
写真を幾つか見たが、一本がいくつにも枝分かれして、花をつけるのね。それが隣の花と重なり合って、群れている様子は、錯綜って感じがありそう。
そこから導き出された錯綜。だが、それを見ている作中の人物が見たのは「恋しさ」の「錯綜」。やさしい花姿からそんな風に思ったのだろう。
「何を話そう」がいいなあ。話したら、錯綜は解けていくのだろうな。

天井桃 (天然通信)
錯覚や勘違いでも恋は恋 幸せならばそれでいいのよ
恋が錯覚だった、という歌は多かったが、世間ではよく使われいている言い回しですからねえ。そこから、いかに自分らしさを出すかが大事なのだと思う。
この歌は下句の自分にも他人にも静かに言い聞かせているような口調がいい。
ま、そうでしょう。恋なんて、恋じゃなさそうな物を除いて行ったら何も残らないタマネギみたいなもんですから。

お気楽堂 (楽歌三昧)
錯覚じゃなくて売り手の思うつぼサブリミナルってそういうことね
んー。錯覚じゃないから、そういうことだわな。簡単に言えば。
「売り手の思うつぼ」という常套句が効果的。

我妻俊樹 (vaccine sale)
女の子だけの海賊、というほんの一瞬の錯覚よりもうつくしい庭
海賊の衣装を付けた女の子の姿がぱっと浮かぶ。わっ、かわいい! なんて素敵な錯覚なんだ。
それよりも美しい庭だなんて、もう、どうしていいか、分からない。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
放課後に生徒呼び出しのんびりと時代錯誤の指導を入れる
指導の有効性をちっとも信じてない先生がルーティーンの仕事としてこなしている仕事。
何とも疲れ切った教師が浮かぶ。
出口のない迷路の中にいるような教師だ。

鑑賞087「天使」 [百題百日2008]

今日、87番目の題は「天使」です。
難しいと感じることの多かった2008年の題ですが、わたしにとっては、見たとたんに、まず途方にくれた題でした。
素直に読めばとんでもなく甘ったるい歌になりそうだし、角度を変えて詠もうとしても、既存のイメージから抜け出るのが難しそうだと感じられたのでした。
でも、ピックアップした歌は少なくはありませんでした。皆さんはあまり、苦労されなかったのかしら。
しかしながら、意味の分からない歌もかなり多くありましたが。

では、1首ごとの感想に行きます。
まずは、一般的な天使のイメージに依って詠まれた歌だと思うものから。

勺 禰子 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
省エネの深夜自販機にひそと灯る光はたとえば天使のささやき
真夜中を煌々と照らす明かりも、それはそれでさびしさと安らぎを感じるのだが、それに馴れたのちの、乏しく光る自販機は別種のもの哀しさと温かさがある。
「天使のささやき」がさもありなんと、自然に感じられる場所だ。

蓮池尚秋 (ハスタンカ☆ブログ)
靴紐を結び直している人の背には必ず天使が座る
いたずらっ子の天使のイメージをうまく登場させている。上句の場面がなるほど、そんな時ならば、と思える。

続いて、マイナスのイメージを纏う天使の歌から。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
みだらなる天使がひそむ蔵書票、票主美貌のをのこなるべし
天使や観音は性を超越した存在、ということになっている。そのことが免罪符のように働いて、創作者にとって、また観賞者はより自由に性的なイメージを籠めることができるのだ。ボーイズ・ラブと同じ構図だと思う。
この「をのこ」は品行方正、また、何一つ弛んだところを感じさせない美貌の持ち主こそがふさわしい。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
ヴェンダースの天使おもほゆ図書館に団塊世代の人ら居ませば 
「ベルリン・天使の詩」。映画の内容は確か、何もできない無力な天使の話だった、ぐらいで、他はまったくもって覚えていないが、くたびれた中年男性の天使の姿だけは印象に残っている。
ちょうど、団塊世代の男性のイメージに重なるのね。
積極的に関われば世の中は変わるのだと、かつては思ったであろうこの世代の無力感は、最初から無力感を持って世の中に立たされていた、それ以降の世代の無力感とは、決定的に違うのかもしれない。

お気楽堂 (楽歌三昧)
天使にも位があって見てくれが赤ん坊ならせいぜいパシリ
何処にでも階級はある。
天使という、この世の栄達とは無縁そうな存在にも「位」という俗世間の基準に通う制度があることを持ちだし、天使なるものを地上に引き下ろし、しかも「パシリ」という、俗世間の中でもどちらかといえば裏社会的な位を当てはめて、ますます聖性を奪っているのだが、そこに持って来られているのが《天使のような》と評される赤ん坊の天使なのだ。

次は、「天使」から派生した言葉ではあるものの、別のものを指す言葉を詠み込んだ歌から。

拓哉人形 (銀鱗歌)
天パーの吉田の悲願。真っ白なマジックで塗る天使の輪 キュキュ
ストレートな髪の持ち主は《天使のような》天然パーマにあこがれるが、天パーの人はストレートヘアーにあこがれる。ないものねだりの憧れか。
この心情は分かるのだが、この歌の吉田君(さん?)たら、白マジックで天使の輪を書きこんでしまいましたよ。ギャグ漫画のような展開が面白い。
ただ、歌の末尾の「キュキュ」がオノマトペとしても効果的じゃないし、とってつけたみたいに思える。もう少し推敲できるのでは?

久野はすみ (ぺんぺん100%)
背徳の天使の喇叭、うすやみに頭(こうべ)を垂れて甘く香れり
天使の喇叭=エンジェル(ス)・トランペットは和名では木立朝鮮朝顔。天使と名にあるにもかかわらず強い毒性を持つ植物である。華岡青州の手術で有名な朝鮮朝顔と近縁種で、広義の朝鮮朝顔という時にはこれも含まれるようだ。こちらの和名「曼荼羅華」は間違って食べちゃうと仏様になっちゃうってところから来ているのだとか。
善悪の相反するイメージを持つ植物ではあるのだが、どちらかといえばマイナスのイメージをより膨らまされて詠まれた歌だ。

最後は「天」と「使」の間に意味の句切れを持つ歌。

岡本雅哉 (なまじっか…)
デザートはミルク寒天使用済み下着を売ったシブヤのカフェで
使用済み下着の売買は 数年前にテレビで取り上げられているのを見たのだが、いまでもあるんでしょうね。需要がなくなるとは思えないし。
大金をせしめて豪遊するのではなく、ミルク寒天を食べるといううらぶれた暮らし。
以前は、よりぜいたくをするためだった行為が、いつしか、日々を送る手立てとなっているのかもしれない、などと最近の雇用事情を鑑み、想像してみた。




鑑賞086「恵」 [百題百日2008]

こんにちは。
題詠blog2009も、今日からスタートです。 →会場はこちら。
ぱっと見たところ、去年に比べ、詠みやすそうな題、と思っているのですが、どうなんでしょう。詠んでみて、案外、ということもありますからねえ。
私も、今年もまた、参加する予定です。ご一緒に参加される方、どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。

さて、きょうは86日目。「恵」の歌です。
動詞の「恵む・恵まれる」にしても、いろんな可能性がありますし、この字を含む単語も多いので、困らないか、といえば。
どういう訳か、最初に神の恩恵的なことを思いついてしまって、そこからなかなか抜け出せなくなるっていうことはありませんでしたか?
ここまで鑑賞してきて、漢字一字の題の場合、歌にするのに難しい発想に陥ってしまい、そこから抜け出せない、という題があるのではないか、ということに思い当りました。歌の発想のバネとなるより、むしろ、障害となりやすい題、といいますか。
とはいうものの、この題の場合、まだ、軌道修正はしやすい題でしたが。

では、鑑賞。
動詞の形で詠み込まれた歌から。

酒井景二郎 (F.S.D.)
惠まれた孤獨と言つてくれていい 土砂降りの中飮む罐珈琲
作中の人物はあたかも、何かのヒーローであるかのように、自分の世界に浸っているのだが、それをはたから見たおかしさ、がいいんでしょうね。正字使用が効果的。

椎名時慈 (タンカデカンタ)
突然の豪雨みたいな幸運に恵まれたくてまたロトを買う
災難のような幸運。ロトにはそういう幸運がふさわしいのかも。
ストレートな幸福を願うなんて、ちょっとひねくれた大人になっちゃうと、なかなか難しい。

こはく (プラシーボ)
恵まれた日がいつ来てもいいように徒長しすぎたわたしを間引く
この「わたし」も病んでいるなあ。
ただ、待っていればいいのに、自分自身を間引かなければ、やって来られても、困ってしまう「恵まれた日」なのだ。

村上きわみ (北緯43度)
ひとしきり雨を恵んでいく雲の形なんだかいたたまれない
雨を恵んでくれる雲なのに、暗くて不安な気持ちにさせられる雲。
望んでいるものを快く受け入れられない、ということは、いたたまれないことだ。
いたたまれない理由は、それだけじゃないんだけど…。

続いて、名詞の一部に「恵」の字が使われている歌から。

はらっぱちひろ (テクテク)
裏付けのある意志よりも使い捨て可能の知恵でこの街を行け
今までの価値観だけでは、そこに居ることはできても、歩くことが出来なくなった街。
悲しい気はするけれど、いくつもの知恵を使って捨てて、また新しいのを使って、という風に生きているのが私たちだの現状だ。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
別にもうがんばらなくてもいいかなとサークルKで買う恵方巻
サークルKで買う神頼み。
サークルKはコンビニの中では一番あか抜けていない、というか、下町的な印象があるように思うが、違う?

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
すぐに泣くゆゑおもしろく妹の手からうばひし銀の知恵の輪
姉妹は意地悪をしながら大人へと育っていく。
だって、ライバルだもの。
ねっとりとした血縁を感じる歌だ。

冬鳥 (ことのはうた)
やはらかく飼い馴らされて私たち恵比寿ビールのほほゑみを呑む
あの、福々しい笑顔のついたビールが一般のビールに比べて苦いって、ちょっと皮肉。
初句二句はさいきん、少し常套句的になって来た表現のような気がするのだが、どうだろうか?

今泉洋子 (sironeko)
「あかあか」と明恵の歌を口遊み月の綺麗な熊野古道ゆく
有名な「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」の歌。これを口ずさみたくなる月に遭遇することは、稀にある。だけど、都会じゃ駄目なのね。周りが、うんと暗くないと。
行ったことはないが、熊野古道ならば、さもありなんと思える。
「綺麗な」なんて普通は説明的な表現で、避けるべきだろうと思うのだが、思い出しているのが明恵の豪快な歌だけに、これぐらいのストレートさが必要なのかもしれない。

(題詠100首blog-あいっちのうたあそび。)
ひらがなの「いやなんです」とはじまれる詩集はおそらく『智恵子』なり
「いやなんです」の強さに、何事か、と読み進むと『智恵子抄』。
緩やかな謎が解けた後にもなお、「いやなんです」の強い響きが頭に残る歌。



鑑賞085「うがい」 [百題百日2008]

感想も今日で85日目です。
本日の題は「うがい」。
口先で終わる嗽はうがいじゃないとかいう話もありますが、たいがいの人は日に一度はする行為だと思います。
でも、歌にしようとすると、なかなか使いづらい言葉のように思いました。
この題でなければ「口を漱ぐ」などとする場合がほとんどじゃないかしら。なんで、この言葉を避けようとする力が働くんでしょうね。
そのせいか、嗽の意味を避けて、「○○方がいい」などの形で意味の切れ目をずらして詠み込まれた歌が多く見受けられました。

それでは、歌ごとの鑑賞に行きます。
まずは、普段の生活の中の嗽の歌から。

南 葦太 (「謙虚」という字を書けぬほど)
うがいなど無用 君からうつされる風邪ならむしろ養殖したい
一般的に忌み嫌われるものでも、好きな人経由でやってきたものは愛おしい。
この歌でとりわけ、面白くって、いいな、と思ったのは「養殖」という言葉が使われているところだ。
ふつうは「培養」などとするところではないかと思うが、この言葉が選ばれている。
「培養」だと菌としての側面から逃れられず、マイナスに傾く要素もあるけれど、「養殖」となるとプラス一辺倒の価値観に変わるのね。何かが、白い腹を持つ魚のようにぎゅうぎゅうと押し寄せてくるようなユーモラスな感じもする。

近藤かすみ     (気まぐれ徒然かすみ草)
うがひする水に濁りのあらぬこと幸ひとして朝は始まる
日本では、まず、水道から出てくる水が濁っていることはなく、その幸には気づきにくいものだが、たしかにそのことに気づけば、幸を感じられる場面である。
そして、それに気づいたところから、始まる一日は、何とも素敵だ。
この作中の人物は、蛇口からの水を手や口に直接受けるのではなく、コップに入れてから使うのだろう。だからこそ、水が透明であると気づくのだ。性格の一端もうかがい知ることができる。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
医師は宇治茶のボトルゆびさしてうがいはこれでええねんと言う
医者にかかればたかが風邪といえ、たっぷりの薬を出してくれる。
ふつう、うがい薬はその薬の中に必ず含まれているものだと思うが、この老医師はそれを処方しない。
主張はすごくまっとうで、風邪の菌ぐらいなら、お茶に含まれる緑茶成分ぐらいで充分ということなのだろう。
人柄が表れるエピソード大阪弁の口調とともに伝える。
こういう主治医を持っている作中人物の幸せをも思う。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
言わされてしまいしのちに水垢離(みずごり) の如きうがいを繰りかえせども
何かを言ったあと、あるいは言わなかったあとにうがいをする歌は多く見られた。
この歌では「水垢離(みずごり) の如き」と詠まれているが、穢れを除く行為として、多くの人が自然に行っていることのようである。
この歌では「言わされてしまいし」に無念な感じが非常に強く感じられ、共感を誘う。

続いて、比喩としての「うがい」の歌。

砺波湊 (トナミミナト2008)
「そことそこ、うがいしてる」と五歳児は川面のあぶくに指を伸ばしぬ
もう、子供にはかないませんね。とは言っても、彼らの知っている言葉が少ないために起きる現象で、数年もたてば普通の表現しかできなくなりますけど。
こどもの言葉の面白さに頼った歌には多少、ずるいって感じがあるのだが、この歌の場合、初句の「そことそこ」を拾っているところに作者の力量を感じる。

続いて「嗽」とは違う意味で詠み込まれた歌。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
それはもう、ひどく忌々しからうがいさかひの後に何が残らう
  「後」=「のち」
何ら、具体的なところはわからないのだが、濁音と歴史的仮名遣いの表記の重々しさが、また、二句三句の句跨りと四句の字余りが、苦々しい作中人物の内面を伝えるようだ。



鑑賞084「球」 [百題百日2008]

鑑賞84日目。本日の題は「球」です。
球技関係の歌と地球の歌が多かったかな。
ピックアップした歌が少なかったのは、球技に親しんでいる人が少ないからなのかしら、なんてことを思いました。

まずは、球技関係の歌から。
球技の中では野球の歌が多かった。中でも高校野球の歌と思われる歌が。
でも、テレビ観戦が多いのかな? 実感を伴わない歌が多いように思った。
テレビを通して見た歌を詠む時は、テレビの人のピックアップしたものを見ている、ということを忘れないでいる必要があるんじゃないかしら。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
白球を受けたる腕の青き痣 黒く沈めば秋も深まる
痣の色の変化に季節の変化を重ねた歌。
四季の中でも秋はとりわけ、静かに進む。

続いて月球儀。

砺波湊 (トナミミナト2008)
出窓にはひそやかに立つ月球儀夜のおわりの風うけとめて
地球を吹く風が月球儀が置かれていることにより、月面を吹く風のように感じられる。
下句がいい。

次は地球に関する歌。
歌に地球を詠み込もうとすると、大げさになりやすい傾向があるように思う。表現を抑える、ということも大事だろう。

村上きわみ (北緯43度)
霜柱みつけては踏むしたしさで北半球をあなたとあるく
北半球を詠んだ有名な歌といえば、
・みどりごは泣きつつ目ざむひえびえと北半球にあさがほひらき  高野公彦
が思い浮かぶ。
それ以上に、北半球を歌に詠み込めばこの歌と比較されてしまうことを覚悟しないといけないだろう。
高野氏の歌が幻影として歌われているのに対し、こちらの歌は今、自分が踏みしめているところを北半球と認識したうえで実感している。
自分が今歩いているところを北半球と大きくとらえるにはそれなりの説得力が必要で、それが感じられなければ大袈裟な物言いばかりが目立ってしまう。が、この歌の場合、「霜柱」を踏む感触とその立てる音が、そこを北半球と呼ぶのにふさわしい情景を描き出していると思う。

みち。 (暴走シンドローム。)
笑うとき少しかたむく君を見てここが球体なんだと気付く
球体と言っても地球はとても大きく、現実的な因果関係で考えるならば、上句と下句は繋がらないはず。
しかし、非常に主観的なとらえかたをしたら、そのように思う、ということはあることだと思う。
そして、それが詠まれた歌を読むと、あたかも、地球を玉乗りの玉のような大きさんものとしてイメージすることができる。
とても不安定で、すぐに落ちてしまいそうな球。
それこそが、作中の人物の心理的な真実としての地球なのだろう。



鑑賞083「名古屋」 [百題百日2008]

今日の題は「名古屋」です。
地名なので、この地に親しみを持っている人といない人では詠みやすさに差がありそう。
でも、ギャグの種にもされることの多い、独特の地域性があって、地名の中では詠みやすいのではないかと思います。
また、地名から離れて流通している「名古屋帯」なんてものもありますし。
私事ですが、わたしが住んでいるところは名古屋の通勤圏内なんだけれど、もともとは文化圏が違う土地であるうえに、わたしが他から移り住んだ人間なので、何が名古屋的なのか、には日ごろから興味を持って見ています。そんな点でコメントをつけたい歌はたくさんあったのですが、歌として面白いと思ったものだけに限りました。

では、1首ごとの鑑賞に。
まずは、名古屋名物!

佐藤紀子 (encantada)
味噌汁は赤味噌仕立てと決めをりき名古屋育ちの父の場合は
名古屋圏はみそ汁といえば赤味噌以外は考えられないようだ。もちろん給食のみそ汁も。
でも、不思議に思うのは地理的に川で区切られている程度の三重県はどうやら米味噌らしいんですね。個人的にとても興味のあるところです。
さて、この歌は過去の回想。お父さんはみそ汁といえば赤味噌なのだが、作中の人物はどうやら違うらしい。父親がいる時には赤味噌、不在の時には母親のふるさとの味噌だった、なんて想像ができる。でも、家長が絶対だった時代なんですよね。「決めをりき」で通っているのだから。そして、お父様がいらっしゃらなくなった今、赤味噌のみそ汁を見れば、必ず思い出すのがお父様のことなのだ。

みち。 (暴走シンドローム。)
名古屋からきた喫茶店があたたかくその町うまれのひとに恋した
コメダ、かな? 名古屋の喫茶店文化といえば、モーニングの豪華さがよく知られているがそれ以上に特徴的なのは、家族そろって行く場所であるという点だろう。
平日でも、朝は喫茶店でモーニングをとり、それぞれ会社や学校へ行くなんてこともあるようだが、そうでなくても、休日の午前中はだいたいどこの喫茶店も家族連れでいっぱい。当然、店の作りもそういう顧客に合わせて作られているのだと思う。ちょっと流行遅れ気味なインテリアの、あまり素敵すぎない店が多いのではないか。
そういう温かさにほのぼのとする作中人物が名古屋生まれの人にその温かさを重ねる、というのも分かるような気がする。

次は名古屋弁の歌。名古屋弁を詠み込んだ歌も多かったが、自然で効果的に使われているものはあまり多くはなかった。

月子 (月の寝言)
覚悟しやぁ名古屋の夏は暑いでね 涼しい顔してばあちゃんは笑う
大阪人としてはよく分からないのが、この「名古屋の夏は暑い」という話。しょっちゅう聞くのだが、そんなに暑くはない。東京や北の地方に比べたら、ということなんでしょうかね。
上句の方言が、優しくって魅力的。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
名古屋弁と三河弁交ざりあう場所で他人(ひと)のいさかいただ聞いて居つ
言葉の違いは文化の違い。その境界が、より、明確になっている場所に立つ、作中の人物だ。
尾張と三河は、外部の者にとっては似たようなもん、だと思うが、その地に住む者にとっては、明確に違う文化圏であるらしく、混同されるのを嫌うようだ。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
「行こまい」のやさしいひびきにうながされ歩きだしたり名古屋の人と
名古屋弁って、みゃあやら、にゃあ、やら、変なところばかり強調されて全国に知れ渡っているが、魅力的な言葉も多い。
この「行こまい」もいい言葉だ。何でもない一瞬に相手の人間性を感じるような気がするのが方言のいいところで、そういう一瞬が生き生きと描かれている。

続いて名古屋の街を歩けば…。

西原まこと (羽根があること)
あなたとのねじれ構図をみるように名古屋の街に建つスパイラルビル
名古屋の町は高層ビルがあまりない。最近になって、ずいぶん新しいビルが建ったが、それでも、周りはまだまだ低いビルで、変わった形のビルはかなり目立つ。というか、異物として感じてしまう。その異物感に「あなたとのねじれ構図」を見ている作中の人。実物を知っていると、一層面白く感じられる比喩だと思う。
スパイラルビルは正しくはスパイラルタワーでは?

夏椿 (夏椿)
菓子問屋街へみちびく春の風ふるき名古屋の形に折れつつ
菓子と言っても、駄菓子。西区明道町の菓子問屋街だろう。http://blog.sai-chan.net/625.html
戦後の香りを残す町だ。「ふるき名古屋の形に折れつつ」が分かる感じがする。


ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
並ぶよりすこし遅れて長かった雨の終わりの名古屋を歩く
「な」の音と「お」の音の配置が心地よい歌。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
名古屋が尾張でありしころ今よりも赤あかかりけむ黒くろかりけむ
尾張には豪華絢爛なイメージがある。今でも派手というイメージの付きまとう名古屋だが、考えてみれば過去の残骸にすぎないのかも、

そして、旅の途中の名古屋の歌。

野州 (易熱易冷~ねっしやすくさめやすく、短歌編)
草枕旅に倦みたるときの間を名古屋名も無き噺家にあふ
音の流れの気持ちい歌。
名古屋は東京と大阪の間にあって、個性の見えにくい町だ。落語にしても上方と江戸は2大勢力なのだけれど。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
名古屋で買い京都で飲みし酒なれば広島までも酔い保つべし
東の方から西へと向かう道中の歌。新幹線でしょうね。それぞれの地名が旅の雰囲気を伝える。

夏実麦太朗 (麦太朗の題詠短歌)
空っぽな重い心を乗せている名古屋止まりのひかり最終
名古屋止まりというのはどうも、中途半端なところといった印象があって、心理的表現となっている。
ただ、上句はもう少し具体的に詠んでもよかったのではないか、という気もするが。

最後は、帯。

村上きわみ (北緯43度)
母と子と繰り言ゆるくかさねあう午後をおさめて解く名古屋帯
着物や帯のことはよく知らないのだが、名古屋帯は外出着に締める帯らしい。となると、それを着ていく場所は、観劇だとか、食事会などの、ちょっとゴージャスな場が想像できる。そして母と娘となればどこか、谷崎の小説などを思い出す華やかさがある。
外出先の余韻ののこる午後の風景だ。



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えっと。
あまり関係ないかな、と思うのですが、So-netのお知らせページに

>2009年1月下旬より、携帯電話各社(docomo、au、SoftBank)にて、18歳未満を対象としたフィルタリング(アクセス制限)が導入されます。

なんていうのがありました。
このブログはキッズgooで検索をすると表示されないので、18歳未満の方が携帯から見ることは出来なくなる可能性が高そうです。冗談みたいだけど…。
もし、対象になる方がいらしたら、対策をお願いします。

鑑賞082「研」 [百題百日2008]

今日82日目の題は「研」です。
動詞だと、「とぐ」あるいは「みがく」。
辞書を引くとどちらも、研ぐ/磨ぐ、研く/磨くと出ていると思いますが、間違いじゃないならOK、ってものでもないと思います。どちらがより、ふさわしいか、を考えなければいけない言葉じゃないですか?
歌の中でも、これは「磨」の方がふさわしいだろう、と思われるものがありました。

まず最初は、その、動詞の歌から。

髭彦 (雪の朝ぼくは突然歌いたくなった)
包丁を研ぎてトマトを切る幸の小さくあれど幸の幸なる
普段に使う食材のうち、刃の切れ味が一番顕著に表れるのがトマトだ。少し切れ味が鈍って来ると、とたんにトマトの皮の部分が抵抗しだす。
そういう状態の刃を研ぎ、ふたたびよく切れるようになった包丁でトマトを切ると、気持ちがよいほど、すっと刃が吸い込まれるように入る。
このときの幸福感は、小さいものだけれど、見過ごすことのできない幸福感だ。
「幸」が3度も使われているのに、オーバーな表現とは思わず、自然だと感じるのは、食という、生きていく上で根幹にかかわる行為のせいなのだろうか。

内田かおり (深い海から)
指の間に白く尖った音乗せて薄刃研ぎ出すひとりの厨
上句の比喩がいい。特に「指の間」がなるほどと思う。一人きりの厨でその「指の間」に全神経を集中しているのだ。

082:研(大辻隆弘) (大辻隆弘 題詠100首のために)
一穂の燭のほのほを研ぐごとく机上に闇はくだりきたりぬ
「一穂」は、いっすい。(また、読み方を忘れて、調べちゃったよ)
蝋燭の炎と闇の鬩ぎ合い。数ある光の中でも、蝋燭の光と闇との境にはとりわけ強い緊張感がある。それは、時折揺れる動きのせいなのだろうか。
そして、その光と闇の間に自らの精神が置かれるのだ。ひとり蝋燭を前にすると、人は心の深い部分へと誘われる。

我妻俊樹 (vaccine sale)
研磨してひとのかたちをうしなってゆくのがこわい くらい うれしい
こちらは「磨」と組み合わせた動詞を詠み込んだ歌。
研磨されて、ようやく人間に近づいて来たのかな、というのが人生後半部にいる私の思いだが、若い人たちにとっては「ひとのかたちをうしなっていく」ことに思えるだろう。かくいう私も昔はそのように思っていた。
どちらの立場にしても「うれしい」部分はあるだろうが、内容は決定的に違う。この歌の「うれしい」は大きな恐怖を前にしての「うれしい」なのだ。逃れられない怪物のような存在の前に飲み込まれようとしながら感じる「うれしい」である。いくつかの恐怖小説が思い浮かぶ。それを一層明確にしているのがその直前に挟まれた「くらい」だ。何が暗いのか説明されていない、ただの暗さが放り出すように置かれていると感じるのだ。

続いて「研」の字が名詞の中に使われている歌から。
「研究」にかかわる言葉を詠んだ歌がほとんどでした。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
手に持ちぬ研究紀要の紙質の良さに気持ちの移りゆく昼
研究紀要の内容から、物質としての側面に心が移って行く場面を詠んだ歌。
内容から、心が離れていっていることがうかがえる。
初句「持ちぬ」だと終止形で意味を考えると不自然。連体形とすべきところではないかと思う。

夏椿 (夏椿)
色のなき花野のやうな癌研にわれよりわれを知る医師が笑む
初句2句は作中人物の心理状態に従った比喩。華やかなはずの風景も「色のなき」と思える精神状態にいるのだろう。
ある一面にすぎなくても、重大な一面を「われよりも」よく知る医師、という存在を、不思議なものを見るように、ながめる作中人物なのだ。



鑑賞081「嵐」 [百題百日2008]

今日は鑑賞81日目。「嵐」の歌です。
暴風や暴風雨を表す言葉ということは誰もが知っているとは思いますが、会話の中で比喩的な表現以外に使われますか?
「今晩は嵐になりそう」なんて、小説の中に出てくる話だとか、相当昔の人の言葉のように感じられるのですが。

では、その、一番基本的な意味の「嵐」の歌から。
現実感の乏しい言葉、という感じで詠まれているものから2首、常套句を用いた歌を1首、ピックアップしました。
佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
窓際のテーブルを拭く手を止めて嵐がやって来るのだと言う
何でもなさそうな一瞬が内面の不安を暗示しているように思えるのは「嵐」の一語のせいだろう。
たとえばここに「台風」をもってくれば、ただ事歌になってしまうと思う。

我妻俊樹 (vaccine sale)
目ぐすりをさしながら聞く敷きたての途が嵐をさまよう話
新しい怪談ですか。
「敷きたて」の途がまだ、風景となじんでいないために、さまよう、という想像が自然に思われる。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
嵐の前の静けさ、とばかり思い込み柔らかきしあわせを逃がしたり
常套句が効果的に使われている。多分「嵐」が象徴性を失っていないのだと思う。
しあわせの本質とはこんなところにあるのかもしれない。

続いて、他の字と合わせてもう少し狭義の気候を詠み込んだ歌から。

村上きわみ (北緯43度)
みずからを吐き出すような気嵐をかさねて冬の深みにいたる
              ※ルビ 気嵐=けあらし
気嵐とは。
北海道留萌地方のことばなのね。
上句、写真では静的なイメージがあるが、ダイナミックな気象現象であることが感じられる。
>・気温が-15℃前後、海水温と気温の温度差が15℃以上の時に発生することが多い。
とあるので、相当厳しい寒さの中で起こる現象。それこそ、想像を絶する北海道の「冬の深み」だ。

最後は固有名詞に使われた歌。
固有名詞の人気ナンバーワンはジャニーズの「嵐」だったんだけど、メンバーの名前が思い出せない、だとか、の歌が多かったですね。ジャニーズの中に埋没しちゃっている感じだ。

FOXY (ぎゃらりーFOX通信)
嵐寛(あらかん)が片眼瞑って捕吏を斬る捕吏の一人が僕の父だよ
往年の大スター嵐寛寿郎。彼に斬られた無数の役者の一人が作中人物の父であった。その父は何度も何度もその話を作中の人物に話してきたのだろう。
そして、その大スターのおかげでまた、若き日の父に出会える作中の人物なのだ。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
うねうねとほそながき坂のぼりつめ空と<青嵐歯科>に出会ひぬ
名前一つに出会うことにより、ふっと気分がかわることがある。
丘の上の歯科医院に「青嵐歯科」などという名がついていたら、身体の隅々まで、緑の風が吹き渡りそうだ。




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