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鑑賞100「おやすみ」 [百題百日2008]

こんにちは。
「おはよう」で始まった2008年の題詠鑑賞も最後です。
ラストの題は「おやすみ」。やさしい響きの言葉ですね。
寝る前の挨拶として使われる場合と、休暇の意味で使われる場合がありますが、休暇の意味で詠まれた歌にはピックアップしたものがありませんでした。
「お」がついている分、この意味では詠みにくかったかもしれません。

それでは、一首ごとの鑑賞に行きます。
まずは他者への挨拶の「お休み」の歌から。

勺 禰子 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
もうなにもしんぱいせんでええんやと言われてるような「おやすみ」の声
文字で書けばみな同じ「おやすみ」だが、人により、アクセントや発声は違う。
上句が大阪弁なので、この「おやすみ」は大阪弁で言われた言葉だと思われる。
標準語に比べ、あいまいに発音される「お」から始まり「み」はどちらかといえば「みぃ」とあとを引く。
親しい人の親しい口調はそれだけでも安心感があるものだが、大阪弁であることで、より、包み込まれるように感じるのだろう。

船坂圭之介 (kei's anex room)
おやすみとつい声掛けて亡妻の居ぬ空間を見詰むしばらく
習慣となった挨拶。相手がいなくなっても習慣は残る。
届く相手が今やいないのに、ついつい漏れてしまった挨拶は、残された者をより、さびしくさせる。

坂口竜太 (さんじゅういち×えぬ)
おやすみは聞こえましたか 今日もまた伝わらなかった声があります
声をかけた相手とはどのような関係なのか、具体的には分からないが、コミュニケーションに不全感を感じる相手だ。
もちろん、物理的におやすみが聞こえたとか聞こえなかった、という場面ではなく、二人の関係を比喩的に表している場面。
顔を合わせて、一見会話が成り立っている間柄にあっても、伝えたいことが本当に伝わってるかを考えれば、常に相手とは、糸電話でつながっているような、かすかなつながりだということを実感せざるを得ない。

近藤かすみ   (気まぐれ徒然かすみ草)
ゆつくりと『おやすみなさいフランシス』こぐまのままで幼いままで
『おやすみなさいフランシス』は絵本のタイトルだが、作中の人物が絵本の主人公に呼びかけている言葉でもある。
自分のこどもが小さい頃、読み聞かせた絵本だろうか。子供たちが大人になってもフランシスはその頃の姿のままで、子供の論理を保ったままでそこにいる。
この歌を読んで懐かしくなって、押入れを探してみたのだが、この本は見つからなかった。売ってしまったのか、実家に眠っているのか。私のフランシスは今、どこで眠っているのだろう。

続いて、呪文のようなおやすみの歌。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
ねむらない ねむれない おやすみなさい らとれの間のりとるにねむりねむる
なかなか寝付けない夜、ようやく訪れた眠気の中にいるような歌だ。
眠れないままに思いついた、言葉遊びのようなフレーズの中、睡眠へと導かれていく作中の人物がいる。

kei (シプレノート)
おやすみの言葉はキャラメルの甘さ眠りの底で探す空き箱
この歌も眠りに入る時の歌。
「おやすみ」の言葉の心地よさを転がしているうちに、半分夢の中へと入っている状態だ。
ただ三句、「キャラメ/ル」の句割れは文字数だけあわせた感じになっているように思える。少し読みにくく感じた。

最後の題、ということで、イベントを自分なりに締めくくる歌もたくさんあった。

詠時 (短歌の花道)
百首なる言の葉吐いて繭として暫し羽化までおやすみなさい
詠まれただけでは、歌はまだ、繭なのだ。読まれることにより羽化する場合が多いが、自分の中で何かが変化して、羽化することもあるだろう。
それまでのしばらくを、歌は繭のまま、眠り続ける。

こはく (プラシーボ)
いままでの歌のすべてにつかのまの眠りを そっと おやすみなさい
この歌はこのイベントの歌だけには限定されないが、イベントの最後、ということで生まれた歌だということはできるだろう。
まだ、眠っている歌というのはへその緒の繋がっている子供のよう。暫くはわたしの一部なのだが、いずれ、旅立つ。


~~~~~~~~~~

今年度もわたくしの勝手な感想にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
私は2009年も参加いたします。また、皆様とご一緒にできることを楽しみにしています。

*カテゴリー「百題百日2008」は五十嵐きよみさんの開催されました題詠blog2008に投稿された歌からわたしがいいな、と思った歌をピックアップして鑑賞させていただきました。
*この後続企画、題詠blog2009の会場はこちら、です。

鑑賞099「勇」 [百題百日2008]

本日は99日目。「勇」の題の歌の鑑賞です。
この題も、言葉からイメージが広がるよりも、題にとらわれてしまいがちな題だったのではないでしょうか。

それでは、1首ずつ読んで行きます。
まずは形容詞の形で詠まれた歌から。
「勇ましい」とか「勇ましくない」といった判断は現代の社会ではあまり用いられないのではないかな。

我妻俊樹 (vaccine sale)
パスポート用の写真を撮り溜めて老いぼれになってゆく勇ましく
パスポートの写真は数カ月以内に撮影したもの、という決まりがあるから、あまり古いものは使えないと思うが、そういう規定のないものでは、よく、いつの写真?と思われるものを見かけることがある。紳士録的な写真つきの名簿なんて、そりゃあ、すごいもの。
そんな用途のために撮りだめた写真だろうが、それを「勇ましく」というのは、どう考えてもアイロニー。

次は、勇気の歌。
勇気を詠んだ歌は多かったが、似たり寄ったりのものが多かった。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
手を挙げる勇気がなくて校庭の真上にのぼる気球をみてた
小学校、あるいは中学校時代を回想しての歌だろう。
たとえば自分がやりたい事があって、それをする人を募集するような場面。
ただ、手をあげればいいだけなのに、内気な子はそれができないのね。
で、いつも、ためらいなく手を挙げる子に持っていかれる。
ごめんね。私はいつも掻っ攫う方だった。こんな歌を読むと、その頃の自分を思い出して、心が痛い。

続いて、武勇伝、勇者。

拓哉人形 (銀鱗歌)
安っぽいその武勇伝 我ひとり奪うことさえできぬあなたの
武勇伝の歌も何首かあったが、どうも人の武勇伝というのはやっかいなものだったり、聞くに堪えないものだったりするようだ。
「我ひとり奪うことさえできぬあなた」の武勇伝なのだから、二人の間の強者弱者はあきらか。
この「あなた」がおもしろいのね。自分の立場の弱さを自覚していて、ちょっとでも優位に立とうと武勇伝などをするのだが、すっかり見透かされている。

南 葦太 (「謙虚」という字を書けぬほど)
ヒゲ面の勇者が何度助けてもお姫様には危機感が無い
初期のテレビゲームはこのパターンだった。
「ヒゲ面」と形容されたら、なんだか悪者の感じがしてしまうのね。単に状況に対しての危機感だけではなく勇者に対する危機感もないぞ、と言っているようだ。
王子様が狼に変身!なんて連想が働く。

最後は、人名、動物。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
おとがひはほそく淋しきかげを曳きあご勇とふひとりありにき
アゴをネタにする芸人は何人も出ては消えてゆく。あご勇も一時はよく知られた芸人だったが、今ではそう言えば、そんな芸人さんがいたっけ、と思い出す程度だろう。
そんな現在を思わせるような上句だ。
とはいえ、現在でも芸能活動はされているようだが。

井関広志 (はじめの家)
幻の一人称をくくり上げ重きに抗う勇魚(いさな)獲り綱
一人称に関しては、考えても考えても正体がつかめないものなのだが、それにもかかわらず、ずっしりと手におもる存在。
それは鯨にも似ているかもしれない。




鑑賞098「地下」 [百題百日2008]

本日98番目の題は「地下」。
今日は面白い歌が多かったです。「地下」と言う言葉そのものが持つ、イメージの豊富さに加え、他の語と合わせた時に、また、別の特有のイメージを呼ぶ言葉でもあるように思いました。

酒井景二郎 (F.S.D.)
秋葉原無限階段登る程むしろ地下へと向かふ氣がして
私自身、秋葉原には行ったことがない。でも、秋葉原界隈のビルを上がっている時には、こんな感じがするのだろうな、と思える。
たぶん、雑多な商品が並ぶ、迷路のような場所なのだろう。
身体は上の方向へ向かっているはずなのに、こころはどうも下の方、それも地下へ向かっているように感じられるのは、どんどん周りの世界から閉ざされていくように思えるからなのかな。

斉藤そよ (photover)
まだ何か生めるでしょうか ひたひたと地下を流れるむこうみずから
「むこうみず」は「向こう見ず」 なのだが、その中に「水」を呼び込むことにより、「むこうみず」の性格を、より、作者の意図する、具体的なイメージへ導いている歌。
普通イメージされる単発的な「向こう見ず」ならば、あまり何かを生み出す感じはないのだが、この「むこうみず」には脈々と流れる力があり、それを可能とするような気がする。初句二句の、まだ何のことか分からないまま、はっと立ち止まらせる問いも素敵だ。

ME1 (FILL mobile)  
地下水に浮かぶまぁるい月覗き 井戸は生きてる 過疎の峠で
/ちかすいにうかぶまぁるいつきのぞきいどはいきてるかそのとうげで
井戸の水と言えば静止したものだと思いがちだが、実は違うのね。水脈の一部なのだ。点ではなく、脈々と続くラインの一部。
その発見が井戸の水を違ったものに見せてくれる。
歌の意味は作中の人物が月の浮かぶ井戸を覗き込んで、人がほとんど使わなくなった井戸でも、水脈を伝って新しい水が流れ込み、生きているんだな、と実感した、と言うことだろうと思うのだが、主語がよく分からないことや、省略された部分のせいで、ちょっと不鮮明。もう少し推敲できるように思う。

橘 みちよ (夜間飛行)
パイプより地下水を撒き雪を消すわが雪国のみちの赤錆
その土地で営まれている、暮らしのための作業がその土地特有の風景を作る。
地下水に含まれる鉄分が道路の赤錆となって残るのだろう。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
南へと去る太陽のひほひかも地下貯蔵庫へ林檎をはこぶ
(いざ、感想を書こうと思ったら、「ひほひ」なんですね。てっきり「にほひ」だと思い込んで読んでいたのだが。間違っているかもしれないが、「にほひ」と言う風に理解して鑑賞します)。
林檎の匂いを「太陽のひほひかも」と捉えられているので、嗅覚に訴える歌、と思われそうだが、そうではないと思う。嗅覚を手掛かりに触覚が導き出されている歌だと思った。
この歌は「南へと去る太陽」「地下貯蔵庫へ林檎を運ぶ」と二つの場所と二つの動きが対比的に並べられている。その中で太陽の去るところが「南」なのだが、これが、温かさをイメージさせられる言葉だと思うのね。そして「にほひ」から、空気を意識させられる。太陽が移動するに従って、温かさがぐーっと移動していくような感じがするのね。そして、林檎は太陽と重ねられている。こちらもまた、温かい空気を纏って地下貯蔵庫へと運ばれるのだ。ここで、林檎も林檎そのものというより、その温かい空気が貯蔵庫の方へ移動していくような錯覚が生まれる。
冬の間、太陽の温かさを保ったまま、林檎は貯蔵庫にあるのだろう、と思う。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
地下書庫に半時間ほども居ればもう冷え冷えと文字は指を浸しぬ
建物の地下部分はなぜだか、体の芯まで冷えるような気がする。
下句が、指先のかじかんでいく様子をうまく伝える。
二句、字余りにしてまでも置かれた「も」。しかも、避けられることの方が多い「も」があえて使われているが、これがなければ、この、覆いかぶさるような重圧感は感じないように思う。

里坂季夜 (コトノハオウコク)
おひさまが苦手な種類の言葉だけ茂る地下室 扉は閉じて
冬季鬱病、というのがあるぐらいだからなあ。日の光をさえぎる場所ではそのような言葉は育ちやすい。
言葉を植物のように「茂る」と表現されていることにより、概念的な物が具体的な姿を結ぶ。

ほたる (ほたるノオト)
デパ地下のガラスケースは幸せの賞味期限のラベルを付ける
ガラスケースにラベルが直接付いているかのように読めるが、中の商品に、だろう。
食べてしまえば、終わる幸せだが、食べなくても、すぐに期限は切れる。
そんなものが幸せか、と問われそうだが、確かにその間は幸せだし、他の幸せなんか、知らないもの、と言うことなのね。

水野加奈 (水の中)
地下をゆく電車のために階段はわたしをのせて動きはじめる
最近は人が近づいたのをセンサーで感知してから動き出すエスカレーターが多くなった。
三句以降、何のことだと一瞬思わせておいてから、少し遅れて理解する、という時間差がエスカレーターが動き出すときのちょっといた時間のずれと重なり面白いが、それ以上に面白いと思ったのは、二句の「電車のために」。一見、利用者の「わたし」のためにあるような装置なのだが、結局はスムーズに電車に詰め込まれるため。
自分が工場の中で加工されていく製品のように思われてくる。

梅田啓子 (今日のうた)
地下足袋にペダルこぐ老いわれを抜く荷台に鍬を一本積みて
地下も、足袋と会えわせると、全く違うイメージのものとなる。
少し田舎の光景。自転車の荷台から伸びる、鍬がユーモラス。
元気なお年寄りというのは、見ていて気持ちのいいものだ。

鑑賞097「訴」 [百題百日2008]

今日は97日目。本日の題は「訴」です。
この題も難しく感じられたのではないでしょうか。
動詞で活用させれば「訴える」。不満や苦痛などを告げる時や、気持ちを強く述べる時に使われるのが一番多いかと思いますが、この言葉の強さに対し、その内容が一般的なものだと、浮いてしまうのかなあ。特に「訴えるような~」、という言い回しは、比喩とも意識されなくなっているほど、内容がなくなってしまった比喩ではないかと思います。
また、名詞の一部として用いられるものは裁判関係の固いものが多く、あまり縁がない、と感じられた方が多かったのでは。

では、一首ずつの感想です。
まずは、動詞形で用いられた歌から。

砺波湊 (トナミミナト2008)
タピオカの粒を浮かべた瞳にて何を訴う美少女フィギュア
「タピオカの粒」が非常にイメージを喚起させる言葉だ。含む水分が多く涙を連想させるのに、ひどく人工的な感じがする。

次は、「愁訴」「不定愁訴」の歌。
この題の歌としては、まだ、用いやすい単語だったのではないだろうか。

船坂圭之介 (kei's anex room)
愁訴多き患者のゆゑに何か事起る懸念を申し送りぬ
「申し送りぬ」なので、医療従事者の立場での歌だろう。
「事」とは、自殺だとか、失踪だとか、そういうことだろう。大きな不安を抱える場だが、医療関係者たちは、淡々と、対策をとる。それがその立場の者にとって最善の方法なのだろう。

あおゆき (メソトリウム)
御母の不定愁訴は温暖化、冷害、台風・・・大変ですなあ。
「御母」と「大変ですなあ。」が、ちょっと茶化す感じだが、正面から対応していると、お互いに泥沼化してしまいそうな場面。
それぐらいがお互いに最適の距離の取り方だろう。母と娘は難しい。

続いて、その他の「訴」の歌を。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
なにごとのありて水槽出でたるや あはれ直訴の沼海老は干(ひ)ぬ
水から飛び出してしまった水棲生物の行動を「直訴」ととった作中の人物。
水槽が狭すぎたのか、猫などからの防除策に不安があったのか、自分の落ち度として感じているのだろう。
あるいはいもりか?(というのは、本田さんの歌の中にいもりを詠まれた歌が複数あって、なんだか、わたしまでそのいもりさんに親近感を感じてしまっているのね)

酒井景二郎 (F.S.D.)
お習字でふざけて勝訴と書いてゐた彼がプロレスラーになる由
やんちゃな、小学校の高学年ぐらいの男の子が思い浮かぶ。クラスに1人ぐらいはこういう子がいるのね。
お習字の時間にテレビのワイドショーで見た「勝訴」の字を書いて、教室の中を走り回ったに違いない。
その子がすっかり成長いて、プロレスラーになるという。いかにも彼らしい感じの進路だ。


~~~~~~~~
明日は一日、お休みします。
また、明後日に!

鑑賞096「複」 [百題百日2008]

今日は96日目。「複」の題の歌です。
この字を含む単語はたくさんありますし、自分の方にひきつけやすい言葉も多かったのではないでしょうか。
それでは、一首ごとの鑑賞を。

船坂圭之介 (kei's anex room)
既にして姿消したり複葉機をさなきわれの夢の一つが
複葉機は形が独特で、ファンが多い。サン=テグジュペリが乗っていたのが、確か、これですね。
作者の年齢を考えると、空軍にあこがれて、ということもあるかもしれないが、それ以上に、単純な、子供らしい、空への憧れが複葉機を選ばせたのだろう。
第2次世界大戦の時にすでに、単葉機が主流となっていたようだが、現在では農業用やアクロバット飛行用に少数残る程度。

原田 町 (カトレア日記)
複線にならぬわが駅つばくらめ今年も無事に子を巣立たせり
「複線にならぬ」とわざわざ、あるのは、そういう計画があったのではないか。
作者の住まれている場所は知らないが、大都市の通勤圏の端っこあたりを考えてみた。
大都市の周辺部がどんどん広がって行き、人々が、遠くても庭付き一戸建てを求めた時代は、住んでいるうちにもっと便利になるだろう、という期待があったことだろう。
しかし、時代は変わり、そういうところに家を構えた人も、もっと便利な都心のマンションへと移って行く人が多くなった。
そして、町は発展するどころか、寂れて行く一方。
けれども、人の移動はあっても駅舎に燕はまたやってきて、巣を作るのだ。
変わらないものを2つ並べながら、そこには描かれていない、変化したもの、を想像させられる。

夏椿 (夏椿)
複眼のひとつひとつにこの秋をやきつけて逝けとんぼもひとも
持ちえぬものの一つとして、ひとは複眼にも時にあこがれる。
たくさんのレンズに映った像は万華鏡のように思われる。
いちめんの紅葉の時期。
このような景色を瞼に焼き付けて人生を終れたら…というような憧れを呼ぶ。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
複数の証言あはせ砕かれた人体模型の始末書つくる
被害に遭ったのが「人体模型」なので、どこか、殺人事件の調書のような趣になっているのが面白いところだと思う。

勺 禰子 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
複写用カーボンをまだ使ってる職場に絶滅危惧種の多し
これは、たぶん真理だろうな、と思う。
要するに、過去の繰り返し以外の仕事をやりたがらない職場なのだ。当然、時代に適合した事務能力など育っているはずもなく、「絶滅危惧種」となって行く。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
春はまだ始発列車の風もまだ はばたくまえの羽状複葉
まだ、芽を出したばかりの丸まった羽状複葉だろうか。羽状複葉の葉は、広がってしまうと、あんまり羽のようには見えないと思うのだけれど、大きな、とても一枚分とは思えない葉を丸まって抱えている様子は眠る小鳥のようだ。
葉っぱ春を待つ歌。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
複数になると形が変わっちゃう単語みたいに強気になった
思わず、笑ってしまった比喩。toothがteethとか、とかになるやつ、ね。アンテナの複数形は何だっけ…。
それなりに理由があるんだろうけれど、学校で覚えさせられる側としては、何と強引な!という感じだったものね。
力でねじ伏せるって感じだ。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
代々木への踏切のなか 西の陽は複雑にからむ線路の上に
三句以降、そうだ、世の中にはこんなに美しい光景がある、ということを思い出させてくれた。
カーブした線路と直線の線路が複雑に絡み合っているところを夕陽が照らしているのだ。
しかし、初句二句がよく分からなかった。代々木駅の手前にある踏切の中のことなのか、と思うけれど、ちょっと表現に無理がありそう。

~~~~~
さきほど、マウスをデスクから落とっことしてしまったのですが、それ以来、クリックしても、反応が鈍くって。思いっきりおしこまないと、認識してくれない。ただでさえ、腱鞘炎ぎみなのに、困ったものです…。

鑑賞095「しっぽ」 [百題百日2008]

本日、95番目の題は「しっぽ」です。
この題の難しさは「尾」ではなく「しっぽ」というところでしょうか。
ちょっと幼児語的な感じがあるので、使う場を選ぶように思いました。

それでは、1首ずつ鑑賞していきます。
まずは、動物のしっぽの歌から。

橘 みちよ (夜間飛行)
出窓より外を眺める猫ときにひとりごと言ふしつぽ揺らして
犬と猫、人間と動物の出てくる場面では、圧倒的に犬が多かった。そして、その犬たちはほとんど皆、作中の人物にしっぽを振ったり振らなかったり。
この歌の猫は、作中の人物など眼中になく、勝手にしっぽを振っている。それがいかにも猫らしい。
しかも、独り言まで言っている。
そのような猫の姿は、どこか、コミュニケーションが苦手な人間の姿をも思わせる。

つばめ (ツバメタンカ)
足音に向けてしっぽを振ることの他は自由を持たぬ老犬
年老いて、身動きもままならなくなった犬。駆け寄って行くだけの力もないのだろう。
しかし、それでも精一杯の力で親しい人間にしっぽを振るのだ。
こちらはいかにも犬の生き方、という感じの歌だ。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
並んでは歩いてくれぬ弟よ、しつぽの切れた栗鼠を見たかい
思春期を迎えた男の子は身内のものとも肩を並べて歩くのを嫌がるようになる。
年齢特有の照れだろう。
一緒に歩いていたら、しっぽの切れた栗鼠を見て、すぐに話すことができるのに、それができない間柄になってしまった。
そして、その栗鼠を見ていない可能性の高い弟。姉弟の間の共通の話題が一つずつ減って行くのだ。

近藤かすみ   (気まぐれ徒然かすみ草)
愛猫を手放すやうに歌おくる時の間白いしつぽが揺れた
パソコンから歌を送る場面だろう。
モニターの画面が切り替わる時、そういえば、しっぽのようなものが横切るような気がしてきた。

行方祐美 (フーガのように)
雲のしっぽひょろんと伸びる春ひと日嬰児の泣く波のありなん
こんな雲はやはり、春の日が似合う。
嬰児の泣き声が、大きくなったり小さくなったりするのも、のどかに思える日だ。

酒井景二郎(F.S.D.)
どんなにか俺をなぶつてくれようともしつぽがなけれぁただの女さ
しっぽがあったらどうするのよ?という突っ込みを期待した歌。
要するに、強がって言ってる、負け惜しみなのね。

八百長鑑定団 (八百長鑑定団)
もしヒトにしっぽのあれば相撲道まわしで隠すかさがりとするか
この方の歌は相撲をテーマにされているようだ。
そのために、しっぽとまわしが出会ったのだろうが、この想像は、面白い。
真剣に考え込んでしまいそうだ。

岡本雅哉 (なまじっか…)
はじめからもってる子にはかなわない あどけないしぐさとかしっぽとか
もし、しっぽがあったら、好きな人に振る、という歌は多かった。でも、それじゃあ、あまり面白くないんですよね。
ところが、この歌では、しっぽを初めから持ってる子が当然のように登場する。
そんな子なんていないじゃない、なんて思ってしまったら、だめなのよね。
いったんはこの歌の世界に従って、受け入れないと。
とはいえ、ここの加減が難しい。全くあり得ないこと、と思えば受け入れられない世界になってしまう。
わたしは、一瞬騙される感じで、うんうん、かなわないよね、と思いましたが。


鑑賞094「沈黙」 [百題百日2008]

今日、94日目の鑑賞は「沈黙」です。
いろんなところに沈黙は降りてくる。
沈黙した場で考えることも、いろいろ。

今日の鑑賞はほぼ、トラックバックされた順に。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
沈黙のしばし続けり不用意に余計なことを我は言いしか
たいがいの人が体験する沈黙だろう。相手の口数が急に減った原因に思いを巡らせて行き当たる、さっきの自分の言葉。
しまったと思う瞬間だ。そのまま知らんぷりを決め込むか、それとなく挽回をはかろうか。
よくある一瞬をうまく選びとられていると思う。
でも、相手のいるところでそれに気づければ、対策はとれるが、わたしの場合、鈍いので、たいがいは別れた後で、自分の失態に気付く。こうなると、もう、下手な言い訳は状況を悪くするだけなので、たいがいは気づかなかったことにする。困ったものだ。

佐藤紀子 (encantada)
沈黙は金でも銀でもない時代自分の言葉で自分を護る
格言を時代と絡め、うまく詠み込んだ歌だと思う。
たしかに、自分の責任外のことは、きっちりと言葉にする必要がある場面が増えたような気がする。
社会の余裕のなさなんでしょうかね。
でも、信頼関係の成り立っている場では、今もなお、その格言は生きているように思いますが。

伊藤なつと (やわらかいと納豆2008)
沈黙を保ったままで四日間あなたとならば暮らしていける
喧嘩した後、四日間、口をきかないでいる恋人の歌だろう。
一般的にはどちらかが折れて、丸く収める、というのが仲直りの王道だと思うが、そういうのが嫌な人間もいるからねえ。
必ずしも、それが通るとは限らない。お互いに意地っ張りな自分と相手に、問題解決の方式が似ている相手、だと認識したのだろう。喧嘩中でもどこか通いあう部分のある、心地よさもある気がする。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
2秒でも沈黙したら負けそうでパンツの色の話までした
会話が途切れるのを避けたい気持ちは多くの人に共通する心理だろう。しかし、その沈黙をどうとらえるかは人により、それぞれで、個性が出る。「負けそう」というのは相手にではなく、自分に、なんじゃないかな。自分のペースが乱れると、出したくもない、自分の素の部分が出てしまう、って感じかも。
2秒というのが絶妙。1秒で黄信号が灯るので、何でもいいから口に出しちゃう2秒直前なのだ。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
沈黙をただ断ちたくて掃除機の不具合なんかをだらだら話す
この歌の沈黙は前の歌に比べて、もう少し長い。この許容できる沈黙の長さは相手との関係の安定度によるところも大きそう。
しかし、沈黙が避けたいものであり、詰まんない話でも、沈黙よりはまし、という心持は共通。その話の内容が作中の人物のキャラクターや生活を語る。この場合は夫婦の会話なんでしょうかね。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
沈黙のひかりのなかに重ねあう折鶴ふかく俯きながら
多くの場合、祈りを込めて折られる鶴。そのせいか、大人になって折る鶴は子供のころよりも深く、首を折るようになった気がする。祈りの気持ちにあふれる光の中で折り鶴はみな、深く俯いている。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
さっきまで賑やかだった鍋もまた沈黙のなか今日を終わりぬ
この鍋は調理用の鍋よりも、土鍋などの、皆でつつき合うものがふさわしいだろう。
楽しい晩餐も終わり、人は一人に戻り、鍋もまた、冷えてゆく一日の終りだ。


カー・イーブン (ほぼ31音)
撃沈に次ぐ撃沈に次ぐ撃沈黙殺したい俺ばかりいる
沈/黙と、題の途中に意味の区切りを設けた歌。
何でもない歌のようだが、自分の描き方が面白いと思った。
「僕ばかり」と複数の自分の姿が思い浮かべられているのだが、撃沈したシーンをいくつも集めて、たとえばパソコンのモニターに並べて表示しているようなイメージが浮かぶ。一度に表示されたら、へこむよなあ。
自らをもう一人の自分、と見る視点は昔からあるのだが、イメージの表示させ方が現代的だと思った。


鑑賞093「周」 [百題百日2008]

今日は鑑賞93日目。「周」の題です。
動詞としても普通に使われる文字ですが、どういう訳か、ピックアップした歌はすべて、名詞の一部にこの文字を使った歌となりました。
たまたまそうなっただけ、だとは思うのですが。

それでは、一首ごとの鑑賞に行きます。

船坂圭之介 (kei's anex room)
周波数わづかずれ居り深き夜のラヂオ放送耳に苦しき
性能のあまりよくないラジオで真夜中にAM放送を聞こうとすると非常に苦労する。
何とか拾えても、雑音が多くて「耳に苦しき」という状態だ。
雑音で物理的に耳がつかれる、ということもあるが、届いてほしいものがすっきりと届いてくれない苛立ちもそこにあるようだ。

瑞紀  (歌信風)
ボタン押すたび新しき周波数探すラジオを窓際におく
こちらのラジオは高性能の物のよう。
カーラジオではよく見かけるが、最適な周波数を自動的に拾ってくれる仕組みになっている。
作中の人物は、それを単に、便利だと思っているだけではなく、不思議さを感じているようだ。
周波数が合うたびに、未知の何かと、交信しているような感じを受けた。

近藤かすみ    (気まぐれ徒然かすみ草)
わたつみの潮の満ち干は変はらねどいつか消えゆくおみなの周期
潮の満ち干は月と地球がある限り(たぶん)繰り返すが、女性には、やはり月の周期と関連付けられて語られる、月経があり、こちらは、閉経を迎える時期というのがある。
月ごとに来る煩わしさを逃れられる、とは思うものの、やはり、自分の女性性を否定されるようにも思われるできごとだ。
女性の中にあらかじめセットされている、一つの終わり。何であれ、終わりを迎えるというものはさびしいもの。その有限な存在としての自分から見る潮の満ち干はとてつもなく豊かなものに思える。
 
村上きわみ (北緯43度)
くるしんでいるのでしょうね周縁の凍りはじめたこのみずうみも
見たことはないが、湖が凍り始めると、その凍った部分は盛り上がり、ごつごつとした塊となるのではないだろうか。その様子を「くるしんでいるのでしょうね」と詠まれている。湖が凍って行く姿を早送りで見ているような気がする歌だ。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
脚ながき花山周子わが横に座りしばらく凹みてゐたり
花山周子さんがどんな外見をされているのか、全く知らないが、目に見えるように思えて、クスッとしてしまう歌。
「脚ながき」があるので凹んでいる姿勢までが具体的に(勝手に想像していて、たぶんその時の実際の様子とは違うだろうけれど)思い浮かぶ。

鑑賞092「生い立ち」 [百題百日2008]

今日の鑑賞は92番目の「生い立ち」です。
これも、どうやって歌にするの???って感じの題でした。あまり普段、意識している言葉じゃないしなあ。
「生い立ち」って言葉をキーワードにして、自分を振り返ってみても、別にたいしたことないし、って感じ、なかったですか?
選んだ歌も、自分の生い立ちに関する歌は1首のみ、人間以外の生い立ちの歌が多かったようです。
もっとも、わたしの場合、歌の出来はともかく、この題がなければ出てこなかった歌になったので、まあ、それはよかったのですが。
難しく感じられる題の場合、そういうこともあって、思わぬ題の効用を感じるときがあります。

それでは、歌ごとの鑑賞です。

橘 みちよ (夜間飛行)
スクリーンに生ひ立ちそれぞれ映されて両家のDNAめでたく出会ふ
「生い立ち」という言葉が使われている場所、ということで、まず、思い出すのが「結婚式」。
実物は見たことがないが、最近の流行りなのか、テレビなどを見ていても、式の途中で新郎と新婦の写真が幼いころから成長に従って、順々にスライドショーで映し出され、それにナレーションがつく、という紹介がなされることがよくあるようだ。で、そのクライマックスが、新郎新婦の出会いから結婚に至るまで、という構成になっている。
で「両家のDNAめでたく出会ふ」ということに…。
「両家」「めでたく」と結婚式的用語をちりばめて、面白く詠まれている。
DNAがかなり字余りになって、「遺伝子」ではだめか、と思ってはみたのだけれど、やっぱりここはDNAなんだよな。

岩井聡 (あと100年の道草)
酔うほどの生い立ちなどは、と柵の中キリンは首を右へ左へ
初句二句はひとまず、作中の人物の言葉と読むのがいいだろう。そして、その作中の人物の意識が動物園のキリンへと向かう。檻に区切られた部分よりはるか高くに揺れるキリンの首。それがなんだか、自分の人生のようといった、軽い連想が働いているのだろう。そして、それを見る作中の人物には、その人物がまずは思ったはずの初句二句が、キリンの思いのようにも感じられている、という風に読んでみた。

斉藤そよ (photover)
ふれるべきことにはふれず風になり遠い生い立ち掬いあう午後
会話している一方が重い心を抱えている場面。
そういう時には、その解決を図るのではなく、直接関係のないようなことを話して心をほぐすのが大事な時もある。
「風になり」「掬いあう」ののやさしさがいいなあ。説明ではなく、心にストレートに伝わってくる感じがする。
このような優しさに、何度か触れたことがあるが、本当にありがたい出来事だったと思う。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
川岸でひざを抱えて生い立ちを鳥に語った。ら飛んでった
四句、句点で終わっているのは字数の関係で導き出されたのではないかと思うが、この、息使い、好きだな。
で、五句が六音になっている。単に音数合わせならば「跳んで行った」で合う訳だけれど、そうしちゃうと、ここの息を一瞬止める感じが失われてしまう。ここは、「ら」の音の前に一拍の休符があるのだ。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
幾たびも書いては消した生い立ちの消したところが面白いのだが
たいがいの生い立ちは無難な事柄を並べる。当然、そこから漏れる出来事が面白い訳で、その人をより多く語っている部分となる。
散文的でありながら、どこかリリカルなリズムの心地よさが、ちょっと岡井隆の短歌を思わせる。

村上きわみ (北緯43度)
長雨のつづく九月はしみじみとてんじくねずみの生い立ちを聞く
長雨の季節は時に童話的な世界に迷い込む。

酒井景二郎 (F.S.D.)
ひとからげされたもやしの生ひ立ちを炒める鹽の匂ひに噎せて
塩に匂いってある?別の物の匂いじゃない、とは思ったが、上句がなるほど、と思った。
一袋の中のもやしはほぼ、同じ過程でこのように育っているわけで、それを思えば、そうして育ってきたものを「ひとからげ」に炒めることは少し哀しい。
暗喩を読みとりたくもなるが、きっちり何かと結びつけるのではなく、かすかに何かを思い起こさせる、ぐらいでとどめておきたい。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
QRコードをたどって合い挽きの牛と豚との生い立ちを知る
現代の台所事情。食肉の生産・流通履歴の話題。
認識番号をパソコンに入力して、というのは知っていたのだが、QRコードとなると、一段と手軽だ。
BSE問題、偽装表示問題以降、急速に広がったトレーサビリティだが、こんなもので管理しなければいけない、というのは正常な状態とは言えまい。


感想091「渇」 [百題百日2008]

今日は91番目の題「渇」です。鑑賞も、残り10題、もうちょっとです。もうしばらく、お付き合いください。
今日の題の「渇」はおなじみですが、精神的な状態を表現するのに用いてしまいやすい題のように思いますが、ちょっと過剰な表現になりやすいような気がします。
また、喩にストレートに使うと、使い古された比喩のようになってしまい、精彩を欠く歌になりやすい、という側面がありますし、具体的な物の渇いているところを詠んでも、ああ、精神的な渇きが言いたいのね、と記号のように読まれ易いことにも注意しないといけないように思いました。

それでは、1首ごとの鑑賞です。

新井蜜 (暗黒星雲)
渇いてるひとの集まるドトールの大テーブルで香川ヒサ読む
どのドトールにもあるってわけじゃないけど、ドトールの大テーブルって、独特な空気を作っている空間だと思う。
4人掛けの相席や、カウンターでは落ち着かないのに、同じように知らない人がすぐそばに居ても、不思議と落ち着く場所だと思う。
この他人との距離感が香川ヒサの歌の世界と響き合うのね。
ただ、初句二句が説明的で、言いすぎの感あり。題、なんですがね。

柚木 良 (舌のうえには答えがでてる)
桃色の爪を磨いて妹は渇きの海を知らない身体
まだ、大人になりきっていない妹、と読んだ。
体の隅々にいたるまで、溢れることはあっても、不足することのない水を含んだ妹の身体。
自らの失った若さへの賞賛の歌だが、少しばかり《妹萌え》の気配も漂う。
ただ、二句の「て」の接続がいくぶん、不安定な感じがするように思うのだけど、どうかな。

帯一鐘信 (シンガー短歌ライター)
くちびるをみているうちに渇いてくフェンスをのぼる朝顔みたく
下句より、上下に引き伸ばされるような渇きを思い浮かべる。
ストップをかけている渇望は変な方向に体を引き延ばす。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
乾きより渇き 枯らしてしまいたるペチュニア鉢の土のかさかさ
ふつう、土がかわくという時には「乾」の文字を使うのだが、それでは納得できない作中の人物。
カサカサとした土に満たされない渇望のようなものを見ているのだろう。そして、それは作中人物の心理がそう見せているのだ。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
ひとしきり騒いだ記憶をたぐりつつ朝の真水で渇きを癒す
飲みすぎた翌朝は大量に水を欲しがる体が残される。
そんな時の身体は、面白いほど素直に水を吸収する感じがする。
細胞が端々からよみがえるにしたがって、記憶が数珠つなぎに出てくる朝の様子だ。
(ただし、飲みすぎるとこうはいかないですけどね。再生不可能な過去の時間が壁のように立ちはだかる…。)

斉藤そよ (photover)
ふれあったかたちのままで渇きゆく秋に帰化する野花 それから
この「渇」が「乾」であれば、どこか遠いところからやってきた野の花がたちがれてドライフラワー状になりつつも、根はそのまま生き残り秋にはその地に帰化するという風に読めるのだが、ここでは「渇」の字が使われている。満たされない思いに苦しむ秋そのものなのだ。
それを察した野の花は、その地に、ではなく、秋という存在に自らを帰化させる、と作中話者は見ているのだ。身近な自然に寄り添う思考が心地よく、最後の」それから」がひどくやさしい。

近藤かすみ  (気まぐれ徒然かすみ草)
飲むほどに渇き増しゆく秋の夜半母の写真はほほゑむばかり
すでにこの世にはいないお母様なのだろう。
一般的に、母と娘は若い頃には対立することがあっても、歳月を重ねるに従い、親しくなっていくものである。しかし早くに亡くなってしまうと、その後の、もっと親しくなれたはずの時間は、母子の間に流れない。母が生きていると、ついつい鬱陶しくなるアドバイスも、いらっしゃらないとなると、受けたくなるものなのかもしれない。私がその立場だったら、お母さんだったら、こんな時にどう言うだろう、なんて想像をしてしまいそうな気がする。しかし、何かがあっても、娘はお酒を少し飲むぐらいしかできなくって、母親は写真の中で微笑んでくれているだけ。作中の人物は、ますます寂しくなるのだ。


kei (シプレノート)
渇水期があるから満ちるときがある薔薇の香りを包み込む部屋
渇水にひび割れた土に水が吸い込まれゆくのを思い起こせば、心の渇きも沁み渡るように満ちていく時が来るということが信じられる気がする。
作中の人物は、今まさに渇水期を抜けだそうとする段階にあるのだ、と下句から感じられる。


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