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『雨の日の回顧展』 [短歌]

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加藤治郎さんの『雨の日の回顧展』、ようやく入手、読んだ。
わたしのようなびんぼー人は、いくら待っていた歌集と言ってもすぐに買うというわけにはいかない。BK-1で買えるようになってから、ECナビ経由で買う。
送料無料で、多少なりといえども、実質割引になるのでね。

スリリングで、読む楽しみを堪能できた1冊だった。
特に好きなのは最初に置かれた「黄色い家」という連作。
モチーフの中心はゴッホ展だが、いろいろな物が重層的に積み重ねられている印象がある。

・ふれたなら幼い耳であるようにとれそうなノブ、ふれたのだろう

例えばこの、冒頭の1首。
四句までも面白いといえば面白いのだが、圧倒的にいいのは五句目。一気に遠いところまで連れ去られる。
ノブではなく、取れてしまった耳がころがっている。
そして、もし「ふれてしまった」のだったら、この耳の柔らかい質感は感じられないのね。
また、ゴッホといえば自らの耳を切り落としたという有名なエピソードもあるので、そのイメージもあるのだが、「幼い耳であるように」と詠まれることによりイコールで結ばれるのを拒否してる。

そして、連作の終わり近くに置かれている

・歩いてもあるいても病棟だノブがあちこちころがってら

ともつながっているって感じで、いろんなものが関連しつつも渾沌としたまま塗り重ねられている感じ。
しかも、狂気や凶暴なものを多く含む歌が続いているかと思うと、

・雨音がすべてを包む半島のように静かにのびてゆく脚

のように非常に抒情的な歌も混じっていて、まさに

・ありのままありのままあれ配線のようにこんがらがったままだが

なのね。
一昔前には物語を一つの物語に仕上げることがより、物語を生き生きとさせる手段として有効だったが、今では、それでは嘘くさく感じてしまう。
人はいくつもの物語の切れっぱしを寄せ集めて纏っているというのが実感に近いだろうな、と思う。
そんな実感に忠実なリアルさが生きていると思う。

他の連作の中では「シャクンタラー」の中のこの歌も好き。

・ふふふ、だめ百年待って春風(はるかぜ)にはじめ左にめくれたページ

誰がどのように言った言葉か分からない「ふふふ、だめ」なのだけれど、なぜか声が幻聴のように響くのね。で、ページをめくる風の感触も。これは、たぶん、言葉のリズムの作る間合いがその感覚を作り出すのに大きく関係してるんだろうと思うけれど。

そのほか、特に好きな歌をいくつか。

・うす青いゴム手袋のさきっぽがのびきってめちゃくちゃになれ、俺
・農婦はも胎児のごときパン生地を篭の中に差し入れにけり
・葡萄パン百の眼窩のくらぐらと療養院のゴッホの書簡
・向日葵が裸のままで逃げてゆくナパーム弾の炎のなかを
石鹸の箱の穴から流れ出た絵の具で描くJ・F・ケネディ
・マオよマオよひどく寒くてシュウマイのグリンピースで造る王宮
・女性器はつぶれた翼そうだろう拡げてやれば香る夏空
・泣きながら受けいれている泣き顔にチョークの匂う真夜中だった
・それはときおり墓場のようで青々と製氷皿の十二のくぼみ
・マスタードの香りに暮れる夏の日の骨から剥がれて肉はよろこぶ

題詠2008の相互批評会 [短歌]

野茨の花がほぼ、終わった。
気がつけば梅雨に入っていて、(今年は早かったですね)
庭のマテバシイの花が強く匂う。
いままで椎の花の匂いに気づいたことがなかったのに。
栗の花に似た香りだ。
そして、今年は姫女苑の色の紫味が強い。
雨が多いせいだろうか。

MIXIに入ってていないと参加できないのですが、
MIXI内にみにごん☆ミニタロスが作られている、題詠ブログ2008のコミュニティで5月に投稿した歌の批評会が行われています。
歌の募集期間は15日まで。
ミクシー会員で題詠ブログに参加されている方は、ぜひ。

辰巳泰子さんのこと「新彗星」のこと [短歌]

6月1日に辰巳泰子さんの短歌朗読DVD「聖夜」がリリースされ、それに合わせてトークライブが東京新宿で行われるんだそうです。 →詳しくはこちら。
一度見に行きたいと思っているのですが、なにせ、東京は遠い・・・。
せめてDVDで見ようかと思うのですが、3500円…。
このライブはチャージ料4000円でこのDVDもいただけるんだそうで、近くだったら、絶対行くんですがね。
そうそう、辰巳さんといえば邑書林のセレクション歌人シリーズの1冊として『辰巳泰子集』が刊行されたようです。(少し前なのに、最近気がついた)

いままで入手できなかった、第一歌集の「紅い花」がこちらに収められているので、これ、ぜひ買わなくては!

辰巳泰子集 (セレクション歌人 (19))

辰巳泰子集 (セレクション歌人 (19))




以上は未入手の歌集について、でしたが、「新彗星」の創刊号は入手。
若い人が多いだけに、活気のある雑誌ですね。
この中で、特に面白いと思ったのは「よもつひらさか異聞」という連作。

>高田祥・紺乃卓海 のふたりの共作に秋月祐一が演出家として加わった、3名のユニットによる作品です。

とあるように、作品全体としても面白い試みだと思うのですが、その中に「首またがり」の手法というのが取り入れられていて、これが面白いと思いました。

>首またがりは、一首の終わりのことばを次の歌へと繋げていくことによって従来の短歌にはないリズムやグルーヴ感を生みだそうとする実験的な手法です。

とあるように、一首で完結するのではなく、何首か合わさって一つのかたまりをつくる、という手法のようです。
わたしが思うのには、短歌というより、長歌に近いと思うのですが、5・7が連なる長歌のグルーヴ感とは異なる、より複雑なリズムのつくるグルーヴ感が面白いなと感じました。

と、説明しても、分らないですよね。
上記「新彗星」のサイトで実物を注文することができるようです。

息子の顔 [短歌]

ぼうし掛けに息子の帽子をかけながらその下の顔がおもひだせない  大森智子

用があって読んでいる歌集『あべまきの林から』で見つけた1首。
少し前に、mixi話題にしたことがあるのだけれど、じつは、わたしは息子の顔をよく覚えていない。
常々、「男は飽きても息子にはまだまだ飽きない」と言っている、最愛の息子なんですけどね。

よその子を自分の子と思いこんで話しかける(それもほとんど小言のようなこと)というほどの経験する人はあまりいないだろうけれど、案外、思春期以降の子供の顔ははっきりイメージできない人も多くいそうである。
子が幼い頃には、いくら私でも、そんなことはなかったんですけどね。

別段、会話の少ない親子でもないのだが、考えてみると、思春期以降、子の顔をまじまじと眺めることなんて、ほとんどないし、写真もほとんど撮ることがないし。
それなのに、その間、まだ成長期の子は容貌を変えていくのだものね。
この変化に親はついていけない。

そうしてみると、親が子の顔をはっきり認識していないのは割と一般的なことのような気もする。少なくても、日本では。

韓国のドラマを見ていると、成人の子もしょっちゅう母と抱き合うのね。
そういうことも、少しうらやましくもあり…。
そんな風な親子関係だと、子の顔を忘れたりしないのかな、なんて思う。

なんだか寂しいものだなあ。日本の親子というものは。


近江のひと・滋賀の人 [短歌]

吉野裕之歌集『ざわめく卵』を1200円で入手。 らっきー!

その中に近江の人の登場する歌が何首か出てくる。


・近江から来る客人に渡すため整えている3つの書類  吉野裕之

・遠き近江ちかき近江と揺れながら彼らに会いにゆく春立つ日

・時雨るるや近江の人のネクタイのすこし曲がっていたり左へ  


じつは私は近江の人にとても弱い。
近江の人といっても、滋賀県民のファンである、ということではない。
滋賀県の人には何も感じないのだけれど、近江の人となるととたんによろっとくる。
要するに「近江のひと」という言葉に弱いのである。
せなかの向こうに、にど~んと大きな湖が見えるような、そんな感じ。
それも水平線がかすんだ感じ、と思ってしまうのは芭蕉の「行く春を近江の人とをしみける 」が頭にあるからんでしょうね。
3首目なんて時雨だし、季節は違うけど、やっぱり芭蕉を思い出しちゃう。
これが滋賀の人だと、全くイメージが変わってしまうのよね。

ふと、むかしの滋賀県人の友達を思い出して歌を詠んでみた。


・近江より出で来しひとはゆでたての朝の卵をゆるりと食ぶ  希理子


予想通り、モデルの彼とは別人の歌になってしまった。


歌集中には、また、松江の歌もある。


・Asanagiというアドレスを持つひとに会うために来て松江を歩く  吉野裕之


この人はたぶん、島根県人なんなのだろうと思うのだが、松江の人と島根の人は違う印象がある。
どちらかを選べと言われたら(現実には不可能な可能性が高い2択!)わたしは松江の人と町を歩きたい。


「橄欖追放」 [短歌]

以前、言語学者の東郷雄二さんのお書きになっていた、「今週の短歌」を楽しみにしていたのですが、去年の5月に連載をやめられた。
残念なことだと思っていたのですが、4月から、リニューアルして再開されるようです。
月2回、アップされるようです。
コラムの名前は「橄欖追放」。
ホームページに「再開の弁」をお書きになっています。

また、ネットでの楽しみが増えました♪


うっかり [短歌]

昨日今日と、家籠りするつもりだったのですが、回覧板が回ってきたので、しかたなく、隣の家の門まで。
いえね、外を歩くと涙が出るもんだから、家にいればましだろう、ってだけのことなんですが。
だけど、パソコンに向かう時間が長ければ、やっぱり涙は出てくる。
目を休めなくっちゃいけないんでしょうね。わかっているけれど、やめられない。

きのうは、とある方から、わたしの題詠ブログの投稿歌がルールの要件を満たしていないですよとのお知らせをいただいた。
確かめてみると。が~ん。確かに。
アジア」の題なんですけど、推敲の過程で片仮名のアジアが抜け落ちちゃったんだ…。
自分では万全を心がけているつもりでも、最後に変更したところで、うっかりミスです。
ちゃんと読んでくださっている方がいらして、教えてくださる、というのは本当にありがたいことです。感謝!

気を引き締めて、つづきを詠み進めようと思います♪

『あのにむ』川崎あんな歌集 [短歌]

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川崎あんなの歌集「あのにむ」を入手。
3000円プラス税。は、痛い。歌集って高いよなあ。
しょうがないとは思うものの、食費をケチって生活しているものにとってはつらい出費だよ。
あとがきさえもなく、作者についての情報は全くない歌集。

ものすごく音の流れの気持ちのいい歌が多い。
ひらがなを多用しているが、正字が使われていて、甘くなりすぎるのを抑えている感じ。
少女小説の登場人物のような会話体の中に文語や古い言葉が混じる。
(文語に関しては、どうもおさまりが悪い気がして、ピックアップした歌には含まれませんが)
とらえどころのないような、ふわふわと漂うようなへんな感じがあとをひく歌集でした。


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朝摘みのくすりを買ひにあさこさんは田園都市線乗りつぎてゆく    川崎あんな

野うさぎのスキャン畫像に野うさぎのゐなくてあれはすでにまぼろし

きさらぎのゆふべ南にかがよへるLepusすなはち兎座の耳

したゆまりのやうに咲いてる菜の花の黄(きい)をいつぱいたうべたあとに
                   
ひさかたのひかりのなかにするらつかつてきもちいいでせうはなびらの
                                   *「らつか」に傍点あり
たまかぎるゆふぐれを啼くかなかなのこれはかなかなのだれを喚ぶこゑ

私語しげきことなかりしをおもひつつひそかにうすい灰をふらせた

せりいでし花やの岬 燈薹に黄(きい)の水仙ともらせながら

もう土に還りたくつて花鉢は端からくづれてゆくテラコッタ

トラックにおもはぬ方へはこばれていきなりおろされてもまよふわ

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画像は大根の蕾。薹立ちしてつぼみまで付けたのだけれど、昨日、茎のところで折れてしまったのを切って水に挿しているのだけれど、咲くかしら。
バックにはごぼうの葉っぱも茂っています。

蝶がいない [短歌]

題詠100首、ようやくスタートしました。
今年の私の課題は、漢字一文字の題は、できるだけ動詞・形容詞の形で詠み込む、ということ。
どうやら、わたしは題を詠み込む時に、名詞をまず思い浮かべるという癖があるみたいなので、今回は、形容詞や動詞を意識して詠んでみよう、と思っているのです。
もう一つの課題は、文語の割合を減らすということ。
このところ、文語詠ばかりで口語の歌をあんまり作らなくなってきているなあ、という気がしているもので。

ところで、最初の20題のうち、わたしが一番苦労したのは、予想外のことに「蝶」でした。
じつは、もう一つ、課題がありまして、題はできるだけ加工しないで使う、ということも心掛けているのですが、
この題の場合でいうと「蝶ネクタイ」だとか、「蝶結び」は極力避けて、空をひらひらと飛ぶ、あの蝶を詠もうとしたわけです。
ところが、蝶の歌って、けっこう詠んでいるんですよね。新たな蝶を詠み込みたいと思うのに、なかなか・・・。

でもって、蝶は飛んでいないものかと、ここ数日、外出するたびに蝶を探すのだけれど、全く出会えない。
この季節、もう、蝶は飛んでいてもおかしくないと思うんだけれど、みごとなぐらい、1羽も出くわさない。
そろそろ燕も来るころなのに。

こんなものなのだろうか?
蝶のいない春って、なんだかさびしい。

此の世には石鹸箱が [短歌]

久保寛容さんのところの「とうげ歌会」の第34回が終わった。
この回の題は「箱」。
わたしが詠んだ歌は次の一首

・此の世には石鹸箱といふが在りて時折かわいた音を立てをり  村本希理子

大仰な初句と三句の字余りをどう読まれるかが作者としては知りたかったのですが、
そのどちらについてもコメントをいただけて、ありがたかった。
作者の気づかない傷を指摘してもらえるのもうれしいが、作者の知りたい事に答えてもらえるのもうれしい。
そんな意味でも、わたしにとって貴重な場となっている。

ところで、わたしが天票を投じたのが次の歌。

・柩(ひつぎ)とは箱 環境に配慮してダンボールといふ選択もある  伊波虎英

この歌会で初めて知ったのだが、段ボール製の棺桶というのが実在しているのね。
そういう時代なのか、といいう感慨とともに、こういうのもいいかもしれない、と思う。


さて、35回の題も発表された。
今回は

>今回のお題は、『切る・伐る・斬る・剪る・・・きる』です。詠み込んでください。表記は自由、外国語もOK。

ということです。
どなたでも参加できますので、よかったら、どうぞ。


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