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固形燃料 [短歌]





さりながら行平ぐらと滾らせて固形燃料消えてしまへり  利井聰子

「飛聲」の先輩、利井聰子さんの第一歌集『迎撃のまなこと言へど』(短歌研究社)の中の一首。
家庭で使われることもあるようだが、「固形燃料」に出会う場といえば、料理屋や旅館など、何人かが集まって会食をするという場面だろう。固形燃料の上には陶製の行平が載せられている。行平といえば本来はお粥用なのかもしれないが、形が好まれてか一人用の鍋や煮物に使われる場合も多く、よく見かける。
賑やかだった宴も、おおかたの食べ物がなくなり、会話も途切れ途切れとなりはじめる。そんな時を見計らったように、ふっと消えてゆく固形燃料の炎。
それを機に一気に終焉へと向かう場の空気の変化を実感できるのは、この炎が心にもたらす変化を追体験できるからだろう。焔には場を支配する力があって、それが消えるときには同時に場の熱をも奪っていくものなのだ。

好きな歌がとても多い歌集なのですが、その中から十首選んでみました。

小指もて姑のひたひの白粉を伸ばすときふと滑る虹鱒
ごつそりと胃をとられたる兄もしや埴輪に吹ける風の溜り場
唸りごゑあげて過ぎたる春風に死者総立ちの墓地の夕暮れ
もしや私語さくらは白く暮れ残りそのさざめきのさきの死期かな
細路地にすれ違ふときつぼめたる蝙蝠ふとも凶器のかたち
つぼめたる日傘の尖がまだ熱いつるとんたんと食ふ冷うどん
耳底は青葉闇とや差し入れて竹の耳掻きまだ届かざる
仄くらき提灯の灯に動きゐる影ありやがてわたくしも影
巻きのぼりなほ追ひ越せぬ赤・白・青 年功序列のここ理髪店
とどめなく文字の雨降る辞書の森ルーペの中は波立つ泉

『憧憬遍歴』船坂圭之介歌集 [短歌]

いただいた歌集の感想を。

憧憬遍歴

憧憬遍歴

  • 作者: 船坂 圭之介
  • 出版社/メーカー: 美研インターナショナル
  • 発売日: 2009/02
  • メディア: 単行本



題詠マラソン題詠Blogでお知り合いとなった(お会いしたことはありませんが)船坂さんの第3歌集。
第1歌集で最近の歌をまとめられ、第2歌集は初期の作品、そして、第3歌集はその間の昭和59年から平成元年の歌を収められている。
第2歌集のあとがきで、昭和59年から平成15年までの歌を第3歌集に納められる予定だと書かれていたようですが、予定を変えられたのでしょうね。
シリーズとして、もう一冊が期待されます。

さて、船坂さんの歌は孤独と死の影の強い色合いの強いものが多いのが特徴だと思うのですが、この歌集のころに透析をはじめられたのでしょうか。漠然とした死から、個としての死を強く思われている感じの歌が印象に残りました。

歌集の中より、10首、紹介させていただきます。

・兄の無きことを負として歩み来れば天つ日の下限り無く冬

・きのふよりあしたへ細き管のなか双腕をゆく血は騒ぎつつ

・父の座のさびしかりけりくもひとつ無き青ぞらのなかの月球

・散りぬれば色もかをりも失せにけりわれとわが血に似し寒椿

・艶かならざる裸形のあふれ居て医書古びたる書庫に日すがら

・天使墜つ夜はかくならんヨード卵ひえびえと冷蔵庫にきしむ

・昭和果つる夜の星昏しかへりみる闇にただ在るわが白き呼気

・うしなひしもの多かりき薄明の路上に死屍のごときかげ踏む

・少年のかげつと失せて冬枯れの黄薔薇すなはち汗のにおひす

・夜の舌にチロロ鳴き逝く一ひらのチーズしみじみ今宵蕪村忌


アプリオリ [短歌]

「短歌研究2月号」の穂村さんと吉川さんの対談を読んだ。
そこでちょっと気になったことをひとつ。
穂村さんの話なのだが、人間の認識のうち、アプリオリに持っている価値基準をあまりにも、過大に見ているように思えるのね。
たとえば、複数の演奏家による同じ曲の聴き比べをした時の話を出して、「自分がこれが好きであるとかこれがすごいんじゃないかという判断は直感的につくという気がしたけれど」という風に言っているが、その直感はアプリオリに持っている能力なのか、ということに疑問は持たないのだろうか、などと思うのね。
意識的に学ぶことの外側には膨大な、無意識のうちに学んでいることがあると思うんだが。

昔、学生時代、ゼミが始まってすぐに、先生が「《音楽は世界共通の言語》なんて言うのは大ウソである」ということをおっしゃったのだが、これは私にとって、目から鱗だった。
要するに、それは、西洋音楽を知った耳を持つ者同士の間では、ということになるわけ。
日本の昔の(明治ぐらいまでの)宴会を思い浮かべてほしい。芸者呼んでばか騒ぎいているような場だ。
三味線を鳴らして奏でられる音楽は日本の伝統的な音楽で、どちらかといえば、短調に近いメロディになるのね。
そういう場に居合わせた、短調長調で作られた耳を持っている西洋人は、なんてもの悲しい音楽だ、と思うのだけれど、その場の日本人にとっては、めちゃくちゃ陽気な音楽だったわけですよ。
では、同じ日本人である現代の私たちは、といえば、やはり、もの悲しいものを読みとってしまうのね。というのも、かなしいことに、わたし達は西洋音楽の《文法》にしたがって音楽を読み解くことが普通になっているからだ。

話は絵画に飛ぶが、私は東洋絵画の見方が分からない。
もちろん、この絵はすごい!というような絵はたくさんあるのだが、それは、西洋の絵画経由で見た面白さのような気がしているのだ。
それで、何冊か本を読んでいるうちに思ったのが、あんがい、わたしが見ている視点そのものも、西洋絵画の見方の影響を受けたあとのものではないのだろうか、というようなこと。
それまでは、疑問も持たず、透視画法によって書かれた西洋の伝統的な絵のように、あるいは写真のように見えているのが当たり前だと思ってたのだが、果たしてそうなんだろうか。
人間の目はカメラではない。人間の眼球は対象を前にした時、細かく動いて、対象をとらえるのだそうだ。
その、個々の情報を統合して一枚の絵のように理解しているのだが、その方式はアプリオリに持っているものなのだろうか。
いくつかの可能性のうちのひとつにすぎないのではないのか。
西洋の絵画の方式は、その後発明されたカメラによってとられた写真が西洋の透視画法の延長線上にあるようなものだったので、より、それは強固に信じられてしまっているのではないか、などと思うのだ。
西洋の絵画を目にしたことのない人がはたして、今の私たちと同じように目の前のものを見ていた、と断言できるものではないような気がしている。

そんなふうに、人間の感覚は好む、好まざるにかかわらず、その生きている場所と時代に大きく依存しているものなんじゃないかなあ


『孤唱傷心』船坂圭之介歌集を読む [短歌]


孤唱傷心
ネットでお知り合いとなった、船坂圭之介さんより、第2歌集の『孤唱傷心』をいただいた。
第一歌集『風韻無限』を上梓されたのが7月だったので、2か月足らずでの第2歌集、ということになる。
また、年内にも第3歌集を出される準備をされているわけで、今までに詠まれてきたものを一挙に出版される心づもりでいらっしゃるようだ。
(そのあと第4歌集に取りかかられるそう)

この第2歌集には昭和57年と58年の歌を収められている。
本格的に短歌を始められたのが56年、ということなので、最初期の作品集、ということになるだろう。
初心のころの作品には、作者のスタート地点が見えてくるような、そんな面白さもあった。

歌集より、10首、選ばせていただきました。

昭和58年の歌から。

・メスかざし真向かへば吾に砕かるるまなこ哀願する如く揺れ

・もろもろのみみわたりゆく風説のわれに届かぬよるの長さよ

・逢瀬などあらねば日暮れ雨に佇ちコートを負荷の如く被りぬ

・なつの陽はそらに盛れどわが庭に青を映して柚子の葉は冷(さ)む

・雪よ返す掌に一ひらを措きてゆけ冷たきものはなべて明るし

昭和58年の作品から。

・それぞれのおもき思ひを古書店の棚に背文字は負ひて連なる

・あらはなる風天涯の星を呼び「右眼献上」をせまるふゆの夜

・夏眠とや陽をせなにそてなか空にかぜ止まりたるままの煩悶

・憎まれてゐることの清々しさよアウエルバッハ叢はきしみて

・ふるさとの秋へ翔たばや午前五時始発電車のなかのまどろみ

作者は長く眼科医をなさっていたそうで、その現場の歌は私の全く知らない世界。そういうところを垣間見る楽しみもあった。

詩と短歌 [短歌]

大辻隆弘さんの『時の基底』のⅠ部を読んだ。
1999年から2003年の「未来」に連載された時評。
自分が属していない結社の結社誌はあまり目にすることがないだけに、こういう形で読めるのはうれしい。
この1999年から2003年というのは、ちょうどわたしが短歌を知る少し前から、始めたばかりのころだ。
そういうことがあったな、と思ったり、その時分にはよく分かっていなかったことが、ああそういうことだったのか、と思えたり、とおもしろかった。
短い文で問題を鋭くとらえられていて、読みやすいのに、深く考えさせられる。
また、ほかのところで話題になっていたことがこれを読んで、少し理解出来たように思えた部分もあった。

「やまとことばの基底」という章で取り上げられているのは「短歌人」の時評の吉浦玲子氏の記事に対して書かれた「Es」という同人誌に掲載された加藤英彦氏の記事に対するもので、このこと自体は初めて目にするものだったのだけれど、ネットで以前目にしたものの、よくわからなかったことの原因が少しわかったような気がした。

記録しているわけではないのであやふやな記憶なのだが、「短歌は詩である/ない」といったやり取りがネットでもあったと思うのだが、わたしには短歌が詩ではない、というのがどうしてだか、よく分からなかったのだ。議論自体、どこかかみ合ってない気がしたものだった。
私自身は初めて短歌に触れたときに、そうか、詩とはこういうものだったのだな、と感動とともに思ったということもあり、とても不思議だった。

大辻さんのこの本に戻り、そういうことだったのか、と思ったのが

>短歌は決して「一行の詩」などではない。「詩」などといった、さかしらな概念をはるかに深く貫く「うた」であり、やまとことばの基底なのだ。

の「さかしらな概念」という部分。
この文は加藤氏の論への反論と書かれているのだが、加藤氏の原文自体は入手できないので、大辻氏の引用のみに頼って理解するしかないのだが、

>短歌の読みに必要なのは、①「掛詞」などの和歌的修辞の理解ではない、②一首の背後に「われ」の存在を透視する「一人称神話」に基づく読みではない、③「てには」の機能に注目した読みではない、④「韻律」を重視した読みではない、

>「詩人や作家にも通用する水準にまでわれわれの言葉を鍛え上げる」

といった加藤氏の論はまったくもって同調できないものであり、大辻氏の言っていることはもっともだと思う。

>それ(=短歌)は西洋の詩学から直輸入された「喩性」や「イマジネーション」といった名詞中心の言語間では論じることができない。

これも確かにその通りだと思う。
だが、ここで言われている詩とは西洋の詩のそれも近代詩以降の、ほんの一握りのものではないだろうか。それをもって

>「詩」などといった、さかしらな概念

と断じ、詩全体へと敷衍するのはいかがなものか。

また、日本の場合、長らく詩=漢詩とされ、和歌に対比されるものとされてきたため、混乱が起きているという部分もあるのではないか。
詩をやまとうたの対立概念としてとらえている人たちと、詩を古今東西の韻文すべて、ととらえている人が混在しておりながら、互いがその違った概念のままに論争がなされており、噛み合っていないことがあるように感じられる。

私自身としては、詩は各々の言語の中でその歴史を培ってきたものだと思うし、短歌は日本の詩のきわめてすぐれた一形態だと思っている。

そして、もう一つ気になったこと。
ここは大辻氏の文章に対して、というよりも加藤氏の詩に対する考えに対してちょっと疑問に思ったということなのだが。
西洋詩について、私は暗いのでよくは知らないが、加藤氏の言うような「韻律」を無視する詩など全体からすれば少数派なんじゃないのだろうか?
西洋においても詩の成立はまず、吟ずることに始まったのではなかったのか。
それに、やはり「短歌は一行の詩である。」と言っている人の中に石井辰彦氏がいるが、それに続けて「詩は朗読されるべきものであり、短歌もまた朗読されるべきである。」とも書かれていて、
 http://yowatari.exblog.jp/m2007-04-01/
たぶん、加藤氏とは180度違う詩観なんだろうと思う。



懐かしい器具 [短歌]

筑摩書房の現代短歌全集の第3巻に入っている、片山広子の「翡翠」を読んでいて、こんな歌に出会った。


銀のはさみに砂糖はさみて入れつれば泡うづまきてはや沈みたり  片山広子


一瞬、どういう情景なのか、分らなかったのだけれど、一呼吸おいて、ああ、と気付く。
懐かしい光景だ。若い人ほど、ぴんとこない風景じゃないかなあ。

いまでは、コーヒーや紅茶に添えられるのはほとんどが個別包装されたグラニュー糖だろう。
少し高級な店に行ってもスプーンの添えられたコーヒーシュガーの壺が出てくるぐらいだろうか。
でも、昔は喫茶店の砂糖は角砂糖が普通だった。
一般レベルの喫茶店では、スプーンの上に2個の角砂糖が並べて置かれるのが基本パターンだったかしら。その後、甘さ控え目がふつうになって、これは大小の角砂糖の2個セットとなったところが多かったような気がするが。
そして、もう少し高級な店では砂糖壺に角砂糖がたくさん入っているものが各テーブルごとに配されていたのではなかったかなあ、と思う。
この辺の記憶はまだ、子どもだったころの記憶が主なので、あまり確かではないのだけれど。
で、この砂糖壺に入った角砂糖がこの歌の砂糖なんですね。
壺には砂糖をつまむ器具ももちろんのこと添えられていて、それが、この歌の「はさみ」。髪や紙を切る鋏ではなく砂糖を挟むはさみだ。
いまでは本当に使われなくなった器具だけれど、昔は家庭にもあったなあ、と思い出す。
      こんなの。

もちろん、うちにあったのはおしゃれなものではなく、実用的なもので、ピンセットを大きくしたような形だったと思う。


消え去つたものは羞しきひかり持つ器具であつたよ ことばのやうに    希理子


のこりあと10首 [短歌]

(ブログの記事のうち「題詠2008」のカテゴリーのものは、インターネット上の短歌イベント、「題詠blog2008」参加の短歌です。)

ことしの題詠も、あと10首というところまで来ました。
もうひといき。

今年も、イベント終了後に、参加されている方の歌をピックアップして、たぶん感想を書くと思いますので、どうぞ、よろしく。
今年の題は難しいものが多いですね。でもそれだから、逆に面白いってところもあるわけで、そういう題ならではの歌というのもあるだろうな、と思っています。

去年は初めてお題ごとの感想を書いたのですが、その中で残念に思ったのは、楽しみに読んでいた方々の歌が、途中で途切れてしまうことでした。
リタイアされたんですね。
いろいろご事情はおありでしょうが、ぜひ、完走を目指してくださいね。
楽しみにしています♪

『時の花びら』 [短歌]

ふと気付くと、道端のえのころぐさは、いつのまにかアキノエノコログサが優勢になっている。この暑さのピークをやり過ごすと、立秋となる。(順調にいけば、だけど)
ところで、いちど、えのころ草の実をクッキーにしたいものだ、と思っているが、果たせずにいる。
というのも、えのころ草の実は熟すとあっという間に落ちてしまう(脱粒)から。
農作物として栽培されるための重要な条件の一つとして、脱粒しにくいことというのがあるのだそうだ。それもそうだろう、と、えのころ草の実の落ちた穂を見てはいつも思う。
最近の雑穀ブームで再度脚光をあびている粟だが、これの原種がじつはエノコログサだということである。脱粒しにくい品種が選抜されたのね。

img007.jpg


さて、戴いた歌集の紹介です。
宮島慶子さんの『時の花びら』飛聲歌集第16篇 青磁社刊。

全体を、Ⅰ「自然を詠ふ」Ⅱ「人事を詠ふ」Ⅲ「くさぐさの想ひを詠ふ」の3部に分け、そのそれぞれがまた、テーマに沿って配置された構成となっている。

そのなかで、特に心に迫ってきたのはⅡの中の、自らの癌の再発とその治癒の歌。
病を契機とする思索が様々な形をとって表現されていて、圧巻である。

・アマデウスは神の寵児の意なりとや神の捨子の名は何といふ

・透き通る風に揺られて立ち尽くす赤き骸骨 野の曼珠沙華

・病とは一人一人の蟻地獄 孤独の穴を奥へと向かふ

・脳深く不安の森を分け行きて常夜灯など置き回らむか

・縦横に傷痕残し病退きぬ夏草繁れ戦の跡に

・ひた走る時の女神の後ろ髪むずと掴めば花びら零る


また、お母様の介護を詠まれた歌も心に残った。

・介護さるる母は鍵穴介護するわれは鍵なり呼吸合ふ時

・それぞれに介護の務め負ひたれば友三人の会ふこと難し

・介護とは心の糸に通したる長く連なる雑用の珠

・明けやらぬ街をつきぬけ息絶えて母は帰りぬ己が住ひに

1首目、描かれていない「呼吸合ふ時」よりもたぶん長いであろう、呼吸の合わない時が思われる。
2首目、長寿社会がもたらしたもののひとつ。私のまわりでも、だんだん増えてきました。
3首目、珠は質量をもつ。ゆえに、長く連なれば連なるほど、重くなる。そして、終わりが見えない。
4首目。現代の終の風景。住み慣れた家で最期を迎えるということは、よほどの幸運でもない限り不可能な時代なのだ。

船坂圭之介歌集『風韻無限』 [短歌]


風韻無限


ネットが縁でお知り合いになった船坂圭之介さんの歌集を頂いた。
あとがきによると、作者は腎不全で人工透析を受けられている、とのこと。また、歌より、奥様に先立たれ、故郷を遠く離れた土地でひとり暮らしていらっしゃる様子もうかがえる。

より、死を身近に感じられ、また、孤独感も強く感じられているのだろう。
残された時間の中で、いっそう精彩を放つ世界をいとおしむ歌、死の影に翳る心を詠んだ歌、そして、すでに彼岸へと旅立っていった人びとを詠んだ歌がとりわけ心に残った。
そのなかから、10首引いておく。


・二度とその歌に触れ得ぬさびしさを知らず小庭に来鳴く夏鳥

・乳いろに濁れる空へ影うすめ鳶の溶け入る午後の倦怠(けだる)さ

・風誘ふみどりのターフ香りたち若き悍馬の総毛立つ 夕

・早苗月 ややにかげれる薔薇群のなか燦然と蜂のまぐはひ

・転生はねがはざれども……遠海にわが葬列のごときいさり火

・亡き妻の居るごとくあり厨辺ににほふカレーのほのあまくして

・逝きし日の塩からき汗 少年が掌にのこすただひとつの記憶

・再びの逢ひあらしめよ逝きし妻と独り腎病むこの老いし身へ

・十月の他界に鳴るやフルートの細音かはたれどきの 母の譜

・かなしさはいかなる情思 老耄の吾がひとり聴く嬰ハ短調



演奏家礼賛 [短歌]

先日、短歌関係の友人の日記を読んでいると吉川宏志さんの『風景と実感』のことがちらっと出てきた。
そう言えば、完璧に積読状態になっていたなあ、と先ほど引っ張り出して、読みだした。

まだ、1章しか読んでいないのだけれど、その中で、ものすごく気になったことがある。
論の本筋とは関係のないことなのだろうが、(楽器の)演奏家の扱いがあまりにもひどいんじゃないかと思うんですよ。

1か所引くと
>バッハの曲の演奏者は、楽譜上の記号に合わせて指を動かしたり止めたりしながら、実際の音に変えていく。そのとき演奏者は、バッハの身体の動きをなぞっていることになる。死者であるバッハの生命のリズムは、演奏者の身体を通して、まざまざと蘇るのである。

なんだか、演奏者が楽譜の自動再生装置のように思える。
実際のところ、一つの曲は、作曲家がいて、演奏者がそれを演奏して(両者がイコールのこともあるが)初めて作品となるわけで、作曲者も重要だが、表現者としての演奏家がいることを無視しちゃいけないだろう、と思うのね。

私は常々、演奏家と歌人って、わりに共通項が多いのじゃないか、と思ってる。
まず、一見いくら自由に見える表現方法にしても、結局のところ実はかなりの限定を受けているのだけれど、その限定の範囲をつねに意識しして表現するということにおいて。
歌人が定型を完全に離れてしまってはもはや歌人ではなく、ほかのジャンルの表現者となるように演奏者は楽譜から離れられない。
しかし表現者であるからには、楽譜を読み込み読み解いて、その演奏者の表現を作り上げていかないとならない。

また、ここが限界だと思われていたところが動く場合がある。
短歌で言えば、たとえば句割れや句跨り。演奏者にとっては例えば音律。一時はピアノといえば平均律で調律されるもの、というのが常識だったのだろうと思うが、今は演奏者がそれ以外の音律を選ぶという選択もわりに行われることが多くなっている。行われてみれば何のことはない表現の可能性の広がりは、それが行われるまでは目に見えない。

そして、その表現を味わうためには、自覚的であるかないかはともあれ、ある程度の訓練が必要だということ。音楽は多くの演奏を聴き込まないと、短歌は多くの歌を読み込まないとまるで見えてこないという点において。たまたま聴いただけでは、たまたま読んだだけでは気づかない所に本質にかかわる面白さが存在するのである。

まあ、そんなことを思っているせいで、本論とは関係のないことといえ、演奏者を軽視することが自分たちにも戻ってきそうな刃のようで、ちょっと気になった。
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