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010:街(村本希理子) [題詠2009]


草色のぺたんこ靴で春をゆく街路樹の名を確かめながら

009:ふわふわ(村本希理子) [題詠2009]


ケータイにピンクのファーを貼り付けてふわふわ不惑の妹を待つ

008:飾(村本希理子) [題詠2009]


雛人形飾らぬ家のさんぐわつの夜の玄関ときをり明るむ

007:ランチ(村本希理子) [題詠2009]


菜の花のパスタでしたよ本日の日替はりランチは 春はすぐそこ

006:水玉(村本希理子) [題詠2009]


水玉の模様散り敷く雨傘にはじかれ雨粒また玉となる

005:調(村本希理子) [題詠2009]


調べよき綽名もちたるおみなごに会ひたることなし血縁なれど

004:ひだまり(村本希理子)再投稿 [題詠2009]


ひだまりに膨らむこゑに包まれてわが背這ひ出すわたくしがゐる

003:助(村本希理子) [題詠2009]


三家族つどふ実家の補助椅子のいつまで 二本目のワイン空く

002:一日(村本希理子) [題詠2009]


静岡に雨の一日を遊びをり見えない富士にまもられながら

001:笑(村本希理子) [題詠2009]

開き癖少しつきたる歳時記の笑まふがごときふらここを漕ぐ

『憧憬遍歴』船坂圭之介歌集 [短歌]

いただいた歌集の感想を。

憧憬遍歴

憧憬遍歴

  • 作者: 船坂 圭之介
  • 出版社/メーカー: 美研インターナショナル
  • 発売日: 2009/02
  • メディア: 単行本



題詠マラソン題詠Blogでお知り合いとなった(お会いしたことはありませんが)船坂さんの第3歌集。
第1歌集で最近の歌をまとめられ、第2歌集は初期の作品、そして、第3歌集はその間の昭和59年から平成元年の歌を収められている。
第2歌集のあとがきで、昭和59年から平成15年までの歌を第3歌集に納められる予定だと書かれていたようですが、予定を変えられたのでしょうね。
シリーズとして、もう一冊が期待されます。

さて、船坂さんの歌は孤独と死の影の強い色合いの強いものが多いのが特徴だと思うのですが、この歌集のころに透析をはじめられたのでしょうか。漠然とした死から、個としての死を強く思われている感じの歌が印象に残りました。

歌集の中より、10首、紹介させていただきます。

・兄の無きことを負として歩み来れば天つ日の下限り無く冬

・きのふよりあしたへ細き管のなか双腕をゆく血は騒ぎつつ

・父の座のさびしかりけりくもひとつ無き青ぞらのなかの月球

・散りぬれば色もかをりも失せにけりわれとわが血に似し寒椿

・艶かならざる裸形のあふれ居て医書古びたる書庫に日すがら

・天使墜つ夜はかくならんヨード卵ひえびえと冷蔵庫にきしむ

・昭和果つる夜の星昏しかへりみる闇にただ在るわが白き呼気

・うしなひしもの多かりき薄明の路上に死屍のごときかげ踏む

・少年のかげつと失せて冬枯れの黄薔薇すなはち汗のにおひす

・夜の舌にチロロ鳴き逝く一ひらのチーズしみじみ今宵蕪村忌


見えなかったものが突然見えた「朝鮮王朝の絵画と日本」展~静岡 [絵画]

静岡県立美術館に行ってきました。
「朝鮮王朝の絵画と日本」という企画展を見に。
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展示物の入れ替えがかなり多いので、どうかな、と思ったのですが、質量ともに満足のいく展覧会でした。
遠方から行く価値はあるし、近くの人なら、入れ替えを考慮して、何度か足を運ぶのもよいかも。
一般料金900円ですが、2回目以降は半券を見せると団体料金の700円が適用されるようです。

内容は中心は朝鮮王朝の朝鮮絵画ですが、高麗仏画が数点と、日本と朝鮮かがの関わりということで、日本の作品も多数ありました。
(シロウトの直観的な感触ですが、高麗仏画の影響はその後の日本画に長く影響を及ぼし続けている感じがあります)

展覧会の中心テーマは朝鮮絵画と日本絵画の関連について、なので、似ている部分、花鳥や翎毛(レイモウ=鳥獣)の絵が中心に取り上げられていましたが、山水も点数も多く、わたしが今回の展覧会で一番興味をひかれた部分でした。
もしかして、山水が面白いと思えなければ、ちょっと物足りなく感じるかもしれません。

私にとっても、もし、1週間前にこれを見に行っていたら、残念に思っていたかもしれません。
というのも、わたし、突然、山水の見方が分かったんですね。ただし、日本のものはまだ、分かっていませんが、中国・朝鮮のものに関しては、分かったんだろう、と思います。
なにせ、突然、見えるようになったんですよね。
例えるならば、3Dアートってあるでしょう? 単なる模様が、視線をある一点に合わせると、突如立体感のあるものが見えて来るという。あれに近い錯覚が起るんですよ。朝鮮・中国の山水を見ていると。それも、体感を伴う、いわゆる、リアルな感じで。
でも、これは、現物を見た場合だけに起こります。印刷物を見ても、その感じはまるで起こりません。

その、キーワードとなったのが、今読んでる『日本美術の見方』(戸田禎佑著 角川書店)の中に出てくる「空間のイリュージョンの表現と立体表現への執念」という言葉。
イリュージョンを感じようと絵を見ると、面白いぐらい、奥行きが見えてくる。それも、単に自分と切り離された奥行きではなく、自分が中に取り込まれるような感覚が起こるのね。近景から中景、そして遠景へと、絵の中を移動することができるのですよ。
一枚一枚の絵に没入する楽しさを存分に楽しみました。
ところで、日本人の画家のものにはこのような錯覚は起こらないんですよね。作者名を見なくてもそれは明白で、これこそ、東アジア的なものとしては括ることのできない日本的な特徴だということができると思います。
朝鮮では、すんなりと受け入れられたものが日本においては無視、あるいは拒否されている、ということなんですね。
まさか、日本の画家がそのイリュージョンに気がつかなかったなんてわけはないだろうし、リアルに対する嗜好の差のようなものがあるのかもしれない、というようなことを思っています。
とはいえ、中国・朝鮮の山水を見た後に日本の山水を見てみると、確かに、今までは見えなかったものが見えるように思うのですが、こちらの方は、まだあいまいで、やっぱり「日本的なもの」については謎として残っているのですが。何となく感じる部分はあるのですが、それは、まだまだ見極めないといけない部分なんでしょう。

ともかくお勧めの展覧会でした。
静岡県立美術館での展示は3月29日まで。
その後、仙台(4月17日~5月24日)岡山(6月5日~7月12日)と巡回するようです。




鑑賞100「おやすみ」 [百題百日2008]

こんにちは。
「おはよう」で始まった2008年の題詠鑑賞も最後です。
ラストの題は「おやすみ」。やさしい響きの言葉ですね。
寝る前の挨拶として使われる場合と、休暇の意味で使われる場合がありますが、休暇の意味で詠まれた歌にはピックアップしたものがありませんでした。
「お」がついている分、この意味では詠みにくかったかもしれません。

それでは、一首ごとの鑑賞に行きます。
まずは他者への挨拶の「お休み」の歌から。

勺 禰子 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
もうなにもしんぱいせんでええんやと言われてるような「おやすみ」の声
文字で書けばみな同じ「おやすみ」だが、人により、アクセントや発声は違う。
上句が大阪弁なので、この「おやすみ」は大阪弁で言われた言葉だと思われる。
標準語に比べ、あいまいに発音される「お」から始まり「み」はどちらかといえば「みぃ」とあとを引く。
親しい人の親しい口調はそれだけでも安心感があるものだが、大阪弁であることで、より、包み込まれるように感じるのだろう。

船坂圭之介 (kei's anex room)
おやすみとつい声掛けて亡妻の居ぬ空間を見詰むしばらく
習慣となった挨拶。相手がいなくなっても習慣は残る。
届く相手が今やいないのに、ついつい漏れてしまった挨拶は、残された者をより、さびしくさせる。

坂口竜太 (さんじゅういち×えぬ)
おやすみは聞こえましたか 今日もまた伝わらなかった声があります
声をかけた相手とはどのような関係なのか、具体的には分からないが、コミュニケーションに不全感を感じる相手だ。
もちろん、物理的におやすみが聞こえたとか聞こえなかった、という場面ではなく、二人の関係を比喩的に表している場面。
顔を合わせて、一見会話が成り立っている間柄にあっても、伝えたいことが本当に伝わってるかを考えれば、常に相手とは、糸電話でつながっているような、かすかなつながりだということを実感せざるを得ない。

近藤かすみ   (気まぐれ徒然かすみ草)
ゆつくりと『おやすみなさいフランシス』こぐまのままで幼いままで
『おやすみなさいフランシス』は絵本のタイトルだが、作中の人物が絵本の主人公に呼びかけている言葉でもある。
自分のこどもが小さい頃、読み聞かせた絵本だろうか。子供たちが大人になってもフランシスはその頃の姿のままで、子供の論理を保ったままでそこにいる。
この歌を読んで懐かしくなって、押入れを探してみたのだが、この本は見つからなかった。売ってしまったのか、実家に眠っているのか。私のフランシスは今、どこで眠っているのだろう。

続いて、呪文のようなおやすみの歌。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
ねむらない ねむれない おやすみなさい らとれの間のりとるにねむりねむる
なかなか寝付けない夜、ようやく訪れた眠気の中にいるような歌だ。
眠れないままに思いついた、言葉遊びのようなフレーズの中、睡眠へと導かれていく作中の人物がいる。

kei (シプレノート)
おやすみの言葉はキャラメルの甘さ眠りの底で探す空き箱
この歌も眠りに入る時の歌。
「おやすみ」の言葉の心地よさを転がしているうちに、半分夢の中へと入っている状態だ。
ただ三句、「キャラメ/ル」の句割れは文字数だけあわせた感じになっているように思える。少し読みにくく感じた。

最後の題、ということで、イベントを自分なりに締めくくる歌もたくさんあった。

詠時 (短歌の花道)
百首なる言の葉吐いて繭として暫し羽化までおやすみなさい
詠まれただけでは、歌はまだ、繭なのだ。読まれることにより羽化する場合が多いが、自分の中で何かが変化して、羽化することもあるだろう。
それまでのしばらくを、歌は繭のまま、眠り続ける。

こはく (プラシーボ)
いままでの歌のすべてにつかのまの眠りを そっと おやすみなさい
この歌はこのイベントの歌だけには限定されないが、イベントの最後、ということで生まれた歌だということはできるだろう。
まだ、眠っている歌というのはへその緒の繋がっている子供のよう。暫くはわたしの一部なのだが、いずれ、旅立つ。


~~~~~~~~~~

今年度もわたくしの勝手な感想にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
私は2009年も参加いたします。また、皆様とご一緒にできることを楽しみにしています。

*カテゴリー「百題百日2008」は五十嵐きよみさんの開催されました題詠blog2008に投稿された歌からわたしがいいな、と思った歌をピックアップして鑑賞させていただきました。
*この後続企画、題詠blog2009の会場はこちら、です。

鑑賞099「勇」 [百題百日2008]

本日は99日目。「勇」の題の歌の鑑賞です。
この題も、言葉からイメージが広がるよりも、題にとらわれてしまいがちな題だったのではないでしょうか。

それでは、1首ずつ読んで行きます。
まずは形容詞の形で詠まれた歌から。
「勇ましい」とか「勇ましくない」といった判断は現代の社会ではあまり用いられないのではないかな。

我妻俊樹 (vaccine sale)
パスポート用の写真を撮り溜めて老いぼれになってゆく勇ましく
パスポートの写真は数カ月以内に撮影したもの、という決まりがあるから、あまり古いものは使えないと思うが、そういう規定のないものでは、よく、いつの写真?と思われるものを見かけることがある。紳士録的な写真つきの名簿なんて、そりゃあ、すごいもの。
そんな用途のために撮りだめた写真だろうが、それを「勇ましく」というのは、どう考えてもアイロニー。

次は、勇気の歌。
勇気を詠んだ歌は多かったが、似たり寄ったりのものが多かった。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
手を挙げる勇気がなくて校庭の真上にのぼる気球をみてた
小学校、あるいは中学校時代を回想しての歌だろう。
たとえば自分がやりたい事があって、それをする人を募集するような場面。
ただ、手をあげればいいだけなのに、内気な子はそれができないのね。
で、いつも、ためらいなく手を挙げる子に持っていかれる。
ごめんね。私はいつも掻っ攫う方だった。こんな歌を読むと、その頃の自分を思い出して、心が痛い。

続いて、武勇伝、勇者。

拓哉人形 (銀鱗歌)
安っぽいその武勇伝 我ひとり奪うことさえできぬあなたの
武勇伝の歌も何首かあったが、どうも人の武勇伝というのはやっかいなものだったり、聞くに堪えないものだったりするようだ。
「我ひとり奪うことさえできぬあなた」の武勇伝なのだから、二人の間の強者弱者はあきらか。
この「あなた」がおもしろいのね。自分の立場の弱さを自覚していて、ちょっとでも優位に立とうと武勇伝などをするのだが、すっかり見透かされている。

南 葦太 (「謙虚」という字を書けぬほど)
ヒゲ面の勇者が何度助けてもお姫様には危機感が無い
初期のテレビゲームはこのパターンだった。
「ヒゲ面」と形容されたら、なんだか悪者の感じがしてしまうのね。単に状況に対しての危機感だけではなく勇者に対する危機感もないぞ、と言っているようだ。
王子様が狼に変身!なんて連想が働く。

最後は、人名、動物。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
おとがひはほそく淋しきかげを曳きあご勇とふひとりありにき
アゴをネタにする芸人は何人も出ては消えてゆく。あご勇も一時はよく知られた芸人だったが、今ではそう言えば、そんな芸人さんがいたっけ、と思い出す程度だろう。
そんな現在を思わせるような上句だ。
とはいえ、現在でも芸能活動はされているようだが。

井関広志 (はじめの家)
幻の一人称をくくり上げ重きに抗う勇魚(いさな)獲り綱
一人称に関しては、考えても考えても正体がつかめないものなのだが、それにもかかわらず、ずっしりと手におもる存在。
それは鯨にも似ているかもしれない。




鑑賞098「地下」 [百題百日2008]

本日98番目の題は「地下」。
今日は面白い歌が多かったです。「地下」と言う言葉そのものが持つ、イメージの豊富さに加え、他の語と合わせた時に、また、別の特有のイメージを呼ぶ言葉でもあるように思いました。

酒井景二郎 (F.S.D.)
秋葉原無限階段登る程むしろ地下へと向かふ氣がして
私自身、秋葉原には行ったことがない。でも、秋葉原界隈のビルを上がっている時には、こんな感じがするのだろうな、と思える。
たぶん、雑多な商品が並ぶ、迷路のような場所なのだろう。
身体は上の方向へ向かっているはずなのに、こころはどうも下の方、それも地下へ向かっているように感じられるのは、どんどん周りの世界から閉ざされていくように思えるからなのかな。

斉藤そよ (photover)
まだ何か生めるでしょうか ひたひたと地下を流れるむこうみずから
「むこうみず」は「向こう見ず」 なのだが、その中に「水」を呼び込むことにより、「むこうみず」の性格を、より、作者の意図する、具体的なイメージへ導いている歌。
普通イメージされる単発的な「向こう見ず」ならば、あまり何かを生み出す感じはないのだが、この「むこうみず」には脈々と流れる力があり、それを可能とするような気がする。初句二句の、まだ何のことか分からないまま、はっと立ち止まらせる問いも素敵だ。

ME1 (FILL mobile)  
地下水に浮かぶまぁるい月覗き 井戸は生きてる 過疎の峠で
/ちかすいにうかぶまぁるいつきのぞきいどはいきてるかそのとうげで
井戸の水と言えば静止したものだと思いがちだが、実は違うのね。水脈の一部なのだ。点ではなく、脈々と続くラインの一部。
その発見が井戸の水を違ったものに見せてくれる。
歌の意味は作中の人物が月の浮かぶ井戸を覗き込んで、人がほとんど使わなくなった井戸でも、水脈を伝って新しい水が流れ込み、生きているんだな、と実感した、と言うことだろうと思うのだが、主語がよく分からないことや、省略された部分のせいで、ちょっと不鮮明。もう少し推敲できるように思う。

橘 みちよ (夜間飛行)
パイプより地下水を撒き雪を消すわが雪国のみちの赤錆
その土地で営まれている、暮らしのための作業がその土地特有の風景を作る。
地下水に含まれる鉄分が道路の赤錆となって残るのだろう。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
南へと去る太陽のひほひかも地下貯蔵庫へ林檎をはこぶ
(いざ、感想を書こうと思ったら、「ひほひ」なんですね。てっきり「にほひ」だと思い込んで読んでいたのだが。間違っているかもしれないが、「にほひ」と言う風に理解して鑑賞します)。
林檎の匂いを「太陽のひほひかも」と捉えられているので、嗅覚に訴える歌、と思われそうだが、そうではないと思う。嗅覚を手掛かりに触覚が導き出されている歌だと思った。
この歌は「南へと去る太陽」「地下貯蔵庫へ林檎を運ぶ」と二つの場所と二つの動きが対比的に並べられている。その中で太陽の去るところが「南」なのだが、これが、温かさをイメージさせられる言葉だと思うのね。そして「にほひ」から、空気を意識させられる。太陽が移動するに従って、温かさがぐーっと移動していくような感じがするのね。そして、林檎は太陽と重ねられている。こちらもまた、温かい空気を纏って地下貯蔵庫へと運ばれるのだ。ここで、林檎も林檎そのものというより、その温かい空気が貯蔵庫の方へ移動していくような錯覚が生まれる。
冬の間、太陽の温かさを保ったまま、林檎は貯蔵庫にあるのだろう、と思う。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
地下書庫に半時間ほども居ればもう冷え冷えと文字は指を浸しぬ
建物の地下部分はなぜだか、体の芯まで冷えるような気がする。
下句が、指先のかじかんでいく様子をうまく伝える。
二句、字余りにしてまでも置かれた「も」。しかも、避けられることの方が多い「も」があえて使われているが、これがなければ、この、覆いかぶさるような重圧感は感じないように思う。

里坂季夜 (コトノハオウコク)
おひさまが苦手な種類の言葉だけ茂る地下室 扉は閉じて
冬季鬱病、というのがあるぐらいだからなあ。日の光をさえぎる場所ではそのような言葉は育ちやすい。
言葉を植物のように「茂る」と表現されていることにより、概念的な物が具体的な姿を結ぶ。

ほたる (ほたるノオト)
デパ地下のガラスケースは幸せの賞味期限のラベルを付ける
ガラスケースにラベルが直接付いているかのように読めるが、中の商品に、だろう。
食べてしまえば、終わる幸せだが、食べなくても、すぐに期限は切れる。
そんなものが幸せか、と問われそうだが、確かにその間は幸せだし、他の幸せなんか、知らないもの、と言うことなのね。

水野加奈 (水の中)
地下をゆく電車のために階段はわたしをのせて動きはじめる
最近は人が近づいたのをセンサーで感知してから動き出すエスカレーターが多くなった。
三句以降、何のことだと一瞬思わせておいてから、少し遅れて理解する、という時間差がエスカレーターが動き出すときのちょっといた時間のずれと重なり面白いが、それ以上に面白いと思ったのは、二句の「電車のために」。一見、利用者の「わたし」のためにあるような装置なのだが、結局はスムーズに電車に詰め込まれるため。
自分が工場の中で加工されていく製品のように思われてくる。

梅田啓子 (今日のうた)
地下足袋にペダルこぐ老いわれを抜く荷台に鍬を一本積みて
地下も、足袋と会えわせると、全く違うイメージのものとなる。
少し田舎の光景。自転車の荷台から伸びる、鍬がユーモラス。
元気なお年寄りというのは、見ていて気持ちのいいものだ。

鑑賞097「訴」 [百題百日2008]

今日は97日目。本日の題は「訴」です。
この題も難しく感じられたのではないでしょうか。
動詞で活用させれば「訴える」。不満や苦痛などを告げる時や、気持ちを強く述べる時に使われるのが一番多いかと思いますが、この言葉の強さに対し、その内容が一般的なものだと、浮いてしまうのかなあ。特に「訴えるような~」、という言い回しは、比喩とも意識されなくなっているほど、内容がなくなってしまった比喩ではないかと思います。
また、名詞の一部として用いられるものは裁判関係の固いものが多く、あまり縁がない、と感じられた方が多かったのでは。

では、一首ずつの感想です。
まずは、動詞形で用いられた歌から。

砺波湊 (トナミミナト2008)
タピオカの粒を浮かべた瞳にて何を訴う美少女フィギュア
「タピオカの粒」が非常にイメージを喚起させる言葉だ。含む水分が多く涙を連想させるのに、ひどく人工的な感じがする。

次は、「愁訴」「不定愁訴」の歌。
この題の歌としては、まだ、用いやすい単語だったのではないだろうか。

船坂圭之介 (kei's anex room)
愁訴多き患者のゆゑに何か事起る懸念を申し送りぬ
「申し送りぬ」なので、医療従事者の立場での歌だろう。
「事」とは、自殺だとか、失踪だとか、そういうことだろう。大きな不安を抱える場だが、医療関係者たちは、淡々と、対策をとる。それがその立場の者にとって最善の方法なのだろう。

あおゆき (メソトリウム)
御母の不定愁訴は温暖化、冷害、台風・・・大変ですなあ。
「御母」と「大変ですなあ。」が、ちょっと茶化す感じだが、正面から対応していると、お互いに泥沼化してしまいそうな場面。
それぐらいがお互いに最適の距離の取り方だろう。母と娘は難しい。

続いて、その他の「訴」の歌を。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
なにごとのありて水槽出でたるや あはれ直訴の沼海老は干(ひ)ぬ
水から飛び出してしまった水棲生物の行動を「直訴」ととった作中の人物。
水槽が狭すぎたのか、猫などからの防除策に不安があったのか、自分の落ち度として感じているのだろう。
あるいはいもりか?(というのは、本田さんの歌の中にいもりを詠まれた歌が複数あって、なんだか、わたしまでそのいもりさんに親近感を感じてしまっているのね)

酒井景二郎 (F.S.D.)
お習字でふざけて勝訴と書いてゐた彼がプロレスラーになる由
やんちゃな、小学校の高学年ぐらいの男の子が思い浮かぶ。クラスに1人ぐらいはこういう子がいるのね。
お習字の時間にテレビのワイドショーで見た「勝訴」の字を書いて、教室の中を走り回ったに違いない。
その子がすっかり成長いて、プロレスラーになるという。いかにも彼らしい感じの進路だ。


~~~~~~~~
明日は一日、お休みします。
また、明後日に!

鑑賞096「複」 [百題百日2008]

今日は96日目。「複」の題の歌です。
この字を含む単語はたくさんありますし、自分の方にひきつけやすい言葉も多かったのではないでしょうか。
それでは、一首ごとの鑑賞を。

船坂圭之介 (kei's anex room)
既にして姿消したり複葉機をさなきわれの夢の一つが
複葉機は形が独特で、ファンが多い。サン=テグジュペリが乗っていたのが、確か、これですね。
作者の年齢を考えると、空軍にあこがれて、ということもあるかもしれないが、それ以上に、単純な、子供らしい、空への憧れが複葉機を選ばせたのだろう。
第2次世界大戦の時にすでに、単葉機が主流となっていたようだが、現在では農業用やアクロバット飛行用に少数残る程度。

原田 町 (カトレア日記)
複線にならぬわが駅つばくらめ今年も無事に子を巣立たせり
「複線にならぬ」とわざわざ、あるのは、そういう計画があったのではないか。
作者の住まれている場所は知らないが、大都市の通勤圏の端っこあたりを考えてみた。
大都市の周辺部がどんどん広がって行き、人々が、遠くても庭付き一戸建てを求めた時代は、住んでいるうちにもっと便利になるだろう、という期待があったことだろう。
しかし、時代は変わり、そういうところに家を構えた人も、もっと便利な都心のマンションへと移って行く人が多くなった。
そして、町は発展するどころか、寂れて行く一方。
けれども、人の移動はあっても駅舎に燕はまたやってきて、巣を作るのだ。
変わらないものを2つ並べながら、そこには描かれていない、変化したもの、を想像させられる。

夏椿 (夏椿)
複眼のひとつひとつにこの秋をやきつけて逝けとんぼもひとも
持ちえぬものの一つとして、ひとは複眼にも時にあこがれる。
たくさんのレンズに映った像は万華鏡のように思われる。
いちめんの紅葉の時期。
このような景色を瞼に焼き付けて人生を終れたら…というような憧れを呼ぶ。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
複数の証言あはせ砕かれた人体模型の始末書つくる
被害に遭ったのが「人体模型」なので、どこか、殺人事件の調書のような趣になっているのが面白いところだと思う。

勺 禰子 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
複写用カーボンをまだ使ってる職場に絶滅危惧種の多し
これは、たぶん真理だろうな、と思う。
要するに、過去の繰り返し以外の仕事をやりたがらない職場なのだ。当然、時代に適合した事務能力など育っているはずもなく、「絶滅危惧種」となって行く。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
春はまだ始発列車の風もまだ はばたくまえの羽状複葉
まだ、芽を出したばかりの丸まった羽状複葉だろうか。羽状複葉の葉は、広がってしまうと、あんまり羽のようには見えないと思うのだけれど、大きな、とても一枚分とは思えない葉を丸まって抱えている様子は眠る小鳥のようだ。
葉っぱ春を待つ歌。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
複数になると形が変わっちゃう単語みたいに強気になった
思わず、笑ってしまった比喩。toothがteethとか、とかになるやつ、ね。アンテナの複数形は何だっけ…。
それなりに理由があるんだろうけれど、学校で覚えさせられる側としては、何と強引な!という感じだったものね。
力でねじ伏せるって感じだ。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
代々木への踏切のなか 西の陽は複雑にからむ線路の上に
三句以降、そうだ、世の中にはこんなに美しい光景がある、ということを思い出させてくれた。
カーブした線路と直線の線路が複雑に絡み合っているところを夕陽が照らしているのだ。
しかし、初句二句がよく分からなかった。代々木駅の手前にある踏切の中のことなのか、と思うけれど、ちょっと表現に無理がありそう。

~~~~~
さきほど、マウスをデスクから落とっことしてしまったのですが、それ以来、クリックしても、反応が鈍くって。思いっきりおしこまないと、認識してくれない。ただでさえ、腱鞘炎ぎみなのに、困ったものです…。

鑑賞095「しっぽ」 [百題百日2008]

本日、95番目の題は「しっぽ」です。
この題の難しさは「尾」ではなく「しっぽ」というところでしょうか。
ちょっと幼児語的な感じがあるので、使う場を選ぶように思いました。

それでは、1首ずつ鑑賞していきます。
まずは、動物のしっぽの歌から。

橘 みちよ (夜間飛行)
出窓より外を眺める猫ときにひとりごと言ふしつぽ揺らして
犬と猫、人間と動物の出てくる場面では、圧倒的に犬が多かった。そして、その犬たちはほとんど皆、作中の人物にしっぽを振ったり振らなかったり。
この歌の猫は、作中の人物など眼中になく、勝手にしっぽを振っている。それがいかにも猫らしい。
しかも、独り言まで言っている。
そのような猫の姿は、どこか、コミュニケーションが苦手な人間の姿をも思わせる。

つばめ (ツバメタンカ)
足音に向けてしっぽを振ることの他は自由を持たぬ老犬
年老いて、身動きもままならなくなった犬。駆け寄って行くだけの力もないのだろう。
しかし、それでも精一杯の力で親しい人間にしっぽを振るのだ。
こちらはいかにも犬の生き方、という感じの歌だ。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
並んでは歩いてくれぬ弟よ、しつぽの切れた栗鼠を見たかい
思春期を迎えた男の子は身内のものとも肩を並べて歩くのを嫌がるようになる。
年齢特有の照れだろう。
一緒に歩いていたら、しっぽの切れた栗鼠を見て、すぐに話すことができるのに、それができない間柄になってしまった。
そして、その栗鼠を見ていない可能性の高い弟。姉弟の間の共通の話題が一つずつ減って行くのだ。

近藤かすみ   (気まぐれ徒然かすみ草)
愛猫を手放すやうに歌おくる時の間白いしつぽが揺れた
パソコンから歌を送る場面だろう。
モニターの画面が切り替わる時、そういえば、しっぽのようなものが横切るような気がしてきた。

行方祐美 (フーガのように)
雲のしっぽひょろんと伸びる春ひと日嬰児の泣く波のありなん
こんな雲はやはり、春の日が似合う。
嬰児の泣き声が、大きくなったり小さくなったりするのも、のどかに思える日だ。

酒井景二郎(F.S.D.)
どんなにか俺をなぶつてくれようともしつぽがなけれぁただの女さ
しっぽがあったらどうするのよ?という突っ込みを期待した歌。
要するに、強がって言ってる、負け惜しみなのね。

八百長鑑定団 (八百長鑑定団)
もしヒトにしっぽのあれば相撲道まわしで隠すかさがりとするか
この方の歌は相撲をテーマにされているようだ。
そのために、しっぽとまわしが出会ったのだろうが、この想像は、面白い。
真剣に考え込んでしまいそうだ。

岡本雅哉 (なまじっか…)
はじめからもってる子にはかなわない あどけないしぐさとかしっぽとか
もし、しっぽがあったら、好きな人に振る、という歌は多かった。でも、それじゃあ、あまり面白くないんですよね。
ところが、この歌では、しっぽを初めから持ってる子が当然のように登場する。
そんな子なんていないじゃない、なんて思ってしまったら、だめなのよね。
いったんはこの歌の世界に従って、受け入れないと。
とはいえ、ここの加減が難しい。全くあり得ないこと、と思えば受け入れられない世界になってしまう。
わたしは、一瞬騙される感じで、うんうん、かなわないよね、と思いましたが。


鑑賞094「沈黙」 [百題百日2008]

今日、94日目の鑑賞は「沈黙」です。
いろんなところに沈黙は降りてくる。
沈黙した場で考えることも、いろいろ。

今日の鑑賞はほぼ、トラックバックされた順に。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
沈黙のしばし続けり不用意に余計なことを我は言いしか
たいがいの人が体験する沈黙だろう。相手の口数が急に減った原因に思いを巡らせて行き当たる、さっきの自分の言葉。
しまったと思う瞬間だ。そのまま知らんぷりを決め込むか、それとなく挽回をはかろうか。
よくある一瞬をうまく選びとられていると思う。
でも、相手のいるところでそれに気づければ、対策はとれるが、わたしの場合、鈍いので、たいがいは別れた後で、自分の失態に気付く。こうなると、もう、下手な言い訳は状況を悪くするだけなので、たいがいは気づかなかったことにする。困ったものだ。

佐藤紀子 (encantada)
沈黙は金でも銀でもない時代自分の言葉で自分を護る
格言を時代と絡め、うまく詠み込んだ歌だと思う。
たしかに、自分の責任外のことは、きっちりと言葉にする必要がある場面が増えたような気がする。
社会の余裕のなさなんでしょうかね。
でも、信頼関係の成り立っている場では、今もなお、その格言は生きているように思いますが。

伊藤なつと (やわらかいと納豆2008)
沈黙を保ったままで四日間あなたとならば暮らしていける
喧嘩した後、四日間、口をきかないでいる恋人の歌だろう。
一般的にはどちらかが折れて、丸く収める、というのが仲直りの王道だと思うが、そういうのが嫌な人間もいるからねえ。
必ずしも、それが通るとは限らない。お互いに意地っ張りな自分と相手に、問題解決の方式が似ている相手、だと認識したのだろう。喧嘩中でもどこか通いあう部分のある、心地よさもある気がする。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
2秒でも沈黙したら負けそうでパンツの色の話までした
会話が途切れるのを避けたい気持ちは多くの人に共通する心理だろう。しかし、その沈黙をどうとらえるかは人により、それぞれで、個性が出る。「負けそう」というのは相手にではなく、自分に、なんじゃないかな。自分のペースが乱れると、出したくもない、自分の素の部分が出てしまう、って感じかも。
2秒というのが絶妙。1秒で黄信号が灯るので、何でもいいから口に出しちゃう2秒直前なのだ。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
沈黙をただ断ちたくて掃除機の不具合なんかをだらだら話す
この歌の沈黙は前の歌に比べて、もう少し長い。この許容できる沈黙の長さは相手との関係の安定度によるところも大きそう。
しかし、沈黙が避けたいものであり、詰まんない話でも、沈黙よりはまし、という心持は共通。その話の内容が作中の人物のキャラクターや生活を語る。この場合は夫婦の会話なんでしょうかね。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
沈黙のひかりのなかに重ねあう折鶴ふかく俯きながら
多くの場合、祈りを込めて折られる鶴。そのせいか、大人になって折る鶴は子供のころよりも深く、首を折るようになった気がする。祈りの気持ちにあふれる光の中で折り鶴はみな、深く俯いている。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
さっきまで賑やかだった鍋もまた沈黙のなか今日を終わりぬ
この鍋は調理用の鍋よりも、土鍋などの、皆でつつき合うものがふさわしいだろう。
楽しい晩餐も終わり、人は一人に戻り、鍋もまた、冷えてゆく一日の終りだ。


カー・イーブン (ほぼ31音)
撃沈に次ぐ撃沈に次ぐ撃沈黙殺したい俺ばかりいる
沈/黙と、題の途中に意味の区切りを設けた歌。
何でもない歌のようだが、自分の描き方が面白いと思った。
「僕ばかり」と複数の自分の姿が思い浮かべられているのだが、撃沈したシーンをいくつも集めて、たとえばパソコンのモニターに並べて表示しているようなイメージが浮かぶ。一度に表示されたら、へこむよなあ。
自らをもう一人の自分、と見る視点は昔からあるのだが、イメージの表示させ方が現代的だと思った。


鑑賞093「周」 [百題百日2008]

今日は鑑賞93日目。「周」の題です。
動詞としても普通に使われる文字ですが、どういう訳か、ピックアップした歌はすべて、名詞の一部にこの文字を使った歌となりました。
たまたまそうなっただけ、だとは思うのですが。

それでは、一首ごとの鑑賞に行きます。

船坂圭之介 (kei's anex room)
周波数わづかずれ居り深き夜のラヂオ放送耳に苦しき
性能のあまりよくないラジオで真夜中にAM放送を聞こうとすると非常に苦労する。
何とか拾えても、雑音が多くて「耳に苦しき」という状態だ。
雑音で物理的に耳がつかれる、ということもあるが、届いてほしいものがすっきりと届いてくれない苛立ちもそこにあるようだ。

瑞紀  (歌信風)
ボタン押すたび新しき周波数探すラジオを窓際におく
こちらのラジオは高性能の物のよう。
カーラジオではよく見かけるが、最適な周波数を自動的に拾ってくれる仕組みになっている。
作中の人物は、それを単に、便利だと思っているだけではなく、不思議さを感じているようだ。
周波数が合うたびに、未知の何かと、交信しているような感じを受けた。

近藤かすみ    (気まぐれ徒然かすみ草)
わたつみの潮の満ち干は変はらねどいつか消えゆくおみなの周期
潮の満ち干は月と地球がある限り(たぶん)繰り返すが、女性には、やはり月の周期と関連付けられて語られる、月経があり、こちらは、閉経を迎える時期というのがある。
月ごとに来る煩わしさを逃れられる、とは思うものの、やはり、自分の女性性を否定されるようにも思われるできごとだ。
女性の中にあらかじめセットされている、一つの終わり。何であれ、終わりを迎えるというものはさびしいもの。その有限な存在としての自分から見る潮の満ち干はとてつもなく豊かなものに思える。
 
村上きわみ (北緯43度)
くるしんでいるのでしょうね周縁の凍りはじめたこのみずうみも
見たことはないが、湖が凍り始めると、その凍った部分は盛り上がり、ごつごつとした塊となるのではないだろうか。その様子を「くるしんでいるのでしょうね」と詠まれている。湖が凍って行く姿を早送りで見ているような気がする歌だ。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
脚ながき花山周子わが横に座りしばらく凹みてゐたり
花山周子さんがどんな外見をされているのか、全く知らないが、目に見えるように思えて、クスッとしてしまう歌。
「脚ながき」があるので凹んでいる姿勢までが具体的に(勝手に想像していて、たぶんその時の実際の様子とは違うだろうけれど)思い浮かぶ。

鑑賞092「生い立ち」 [百題百日2008]

今日の鑑賞は92番目の「生い立ち」です。
これも、どうやって歌にするの???って感じの題でした。あまり普段、意識している言葉じゃないしなあ。
「生い立ち」って言葉をキーワードにして、自分を振り返ってみても、別にたいしたことないし、って感じ、なかったですか?
選んだ歌も、自分の生い立ちに関する歌は1首のみ、人間以外の生い立ちの歌が多かったようです。
もっとも、わたしの場合、歌の出来はともかく、この題がなければ出てこなかった歌になったので、まあ、それはよかったのですが。
難しく感じられる題の場合、そういうこともあって、思わぬ題の効用を感じるときがあります。

それでは、歌ごとの鑑賞です。

橘 みちよ (夜間飛行)
スクリーンに生ひ立ちそれぞれ映されて両家のDNAめでたく出会ふ
「生い立ち」という言葉が使われている場所、ということで、まず、思い出すのが「結婚式」。
実物は見たことがないが、最近の流行りなのか、テレビなどを見ていても、式の途中で新郎と新婦の写真が幼いころから成長に従って、順々にスライドショーで映し出され、それにナレーションがつく、という紹介がなされることがよくあるようだ。で、そのクライマックスが、新郎新婦の出会いから結婚に至るまで、という構成になっている。
で「両家のDNAめでたく出会ふ」ということに…。
「両家」「めでたく」と結婚式的用語をちりばめて、面白く詠まれている。
DNAがかなり字余りになって、「遺伝子」ではだめか、と思ってはみたのだけれど、やっぱりここはDNAなんだよな。

岩井聡 (あと100年の道草)
酔うほどの生い立ちなどは、と柵の中キリンは首を右へ左へ
初句二句はひとまず、作中の人物の言葉と読むのがいいだろう。そして、その作中の人物の意識が動物園のキリンへと向かう。檻に区切られた部分よりはるか高くに揺れるキリンの首。それがなんだか、自分の人生のようといった、軽い連想が働いているのだろう。そして、それを見る作中の人物には、その人物がまずは思ったはずの初句二句が、キリンの思いのようにも感じられている、という風に読んでみた。

斉藤そよ (photover)
ふれるべきことにはふれず風になり遠い生い立ち掬いあう午後
会話している一方が重い心を抱えている場面。
そういう時には、その解決を図るのではなく、直接関係のないようなことを話して心をほぐすのが大事な時もある。
「風になり」「掬いあう」ののやさしさがいいなあ。説明ではなく、心にストレートに伝わってくる感じがする。
このような優しさに、何度か触れたことがあるが、本当にありがたい出来事だったと思う。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
川岸でひざを抱えて生い立ちを鳥に語った。ら飛んでった
四句、句点で終わっているのは字数の関係で導き出されたのではないかと思うが、この、息使い、好きだな。
で、五句が六音になっている。単に音数合わせならば「跳んで行った」で合う訳だけれど、そうしちゃうと、ここの息を一瞬止める感じが失われてしまう。ここは、「ら」の音の前に一拍の休符があるのだ。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
幾たびも書いては消した生い立ちの消したところが面白いのだが
たいがいの生い立ちは無難な事柄を並べる。当然、そこから漏れる出来事が面白い訳で、その人をより多く語っている部分となる。
散文的でありながら、どこかリリカルなリズムの心地よさが、ちょっと岡井隆の短歌を思わせる。

村上きわみ (北緯43度)
長雨のつづく九月はしみじみとてんじくねずみの生い立ちを聞く
長雨の季節は時に童話的な世界に迷い込む。

酒井景二郎 (F.S.D.)
ひとからげされたもやしの生ひ立ちを炒める鹽の匂ひに噎せて
塩に匂いってある?別の物の匂いじゃない、とは思ったが、上句がなるほど、と思った。
一袋の中のもやしはほぼ、同じ過程でこのように育っているわけで、それを思えば、そうして育ってきたものを「ひとからげ」に炒めることは少し哀しい。
暗喩を読みとりたくもなるが、きっちり何かと結びつけるのではなく、かすかに何かを思い起こさせる、ぐらいでとどめておきたい。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
QRコードをたどって合い挽きの牛と豚との生い立ちを知る
現代の台所事情。食肉の生産・流通履歴の話題。
認識番号をパソコンに入力して、というのは知っていたのだが、QRコードとなると、一段と手軽だ。
BSE問題、偽装表示問題以降、急速に広がったトレーサビリティだが、こんなもので管理しなければいけない、というのは正常な状態とは言えまい。


感想091「渇」 [百題百日2008]

今日は91番目の題「渇」です。鑑賞も、残り10題、もうちょっとです。もうしばらく、お付き合いください。
今日の題の「渇」はおなじみですが、精神的な状態を表現するのに用いてしまいやすい題のように思いますが、ちょっと過剰な表現になりやすいような気がします。
また、喩にストレートに使うと、使い古された比喩のようになってしまい、精彩を欠く歌になりやすい、という側面がありますし、具体的な物の渇いているところを詠んでも、ああ、精神的な渇きが言いたいのね、と記号のように読まれ易いことにも注意しないといけないように思いました。

それでは、1首ごとの鑑賞です。

新井蜜 (暗黒星雲)
渇いてるひとの集まるドトールの大テーブルで香川ヒサ読む
どのドトールにもあるってわけじゃないけど、ドトールの大テーブルって、独特な空気を作っている空間だと思う。
4人掛けの相席や、カウンターでは落ち着かないのに、同じように知らない人がすぐそばに居ても、不思議と落ち着く場所だと思う。
この他人との距離感が香川ヒサの歌の世界と響き合うのね。
ただ、初句二句が説明的で、言いすぎの感あり。題、なんですがね。

柚木 良 (舌のうえには答えがでてる)
桃色の爪を磨いて妹は渇きの海を知らない身体
まだ、大人になりきっていない妹、と読んだ。
体の隅々にいたるまで、溢れることはあっても、不足することのない水を含んだ妹の身体。
自らの失った若さへの賞賛の歌だが、少しばかり《妹萌え》の気配も漂う。
ただ、二句の「て」の接続がいくぶん、不安定な感じがするように思うのだけど、どうかな。

帯一鐘信 (シンガー短歌ライター)
くちびるをみているうちに渇いてくフェンスをのぼる朝顔みたく
下句より、上下に引き伸ばされるような渇きを思い浮かべる。
ストップをかけている渇望は変な方向に体を引き延ばす。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
乾きより渇き 枯らしてしまいたるペチュニア鉢の土のかさかさ
ふつう、土がかわくという時には「乾」の文字を使うのだが、それでは納得できない作中の人物。
カサカサとした土に満たされない渇望のようなものを見ているのだろう。そして、それは作中人物の心理がそう見せているのだ。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
ひとしきり騒いだ記憶をたぐりつつ朝の真水で渇きを癒す
飲みすぎた翌朝は大量に水を欲しがる体が残される。
そんな時の身体は、面白いほど素直に水を吸収する感じがする。
細胞が端々からよみがえるにしたがって、記憶が数珠つなぎに出てくる朝の様子だ。
(ただし、飲みすぎるとこうはいかないですけどね。再生不可能な過去の時間が壁のように立ちはだかる…。)

斉藤そよ (photover)
ふれあったかたちのままで渇きゆく秋に帰化する野花 それから
この「渇」が「乾」であれば、どこか遠いところからやってきた野の花がたちがれてドライフラワー状になりつつも、根はそのまま生き残り秋にはその地に帰化するという風に読めるのだが、ここでは「渇」の字が使われている。満たされない思いに苦しむ秋そのものなのだ。
それを察した野の花は、その地に、ではなく、秋という存在に自らを帰化させる、と作中話者は見ているのだ。身近な自然に寄り添う思考が心地よく、最後の」それから」がひどくやさしい。

近藤かすみ  (気まぐれ徒然かすみ草)
飲むほどに渇き増しゆく秋の夜半母の写真はほほゑむばかり
すでにこの世にはいないお母様なのだろう。
一般的に、母と娘は若い頃には対立することがあっても、歳月を重ねるに従い、親しくなっていくものである。しかし早くに亡くなってしまうと、その後の、もっと親しくなれたはずの時間は、母子の間に流れない。母が生きていると、ついつい鬱陶しくなるアドバイスも、いらっしゃらないとなると、受けたくなるものなのかもしれない。私がその立場だったら、お母さんだったら、こんな時にどう言うだろう、なんて想像をしてしまいそうな気がする。しかし、何かがあっても、娘はお酒を少し飲むぐらいしかできなくって、母親は写真の中で微笑んでくれているだけ。作中の人物は、ますます寂しくなるのだ。


kei (シプレノート)
渇水期があるから満ちるときがある薔薇の香りを包み込む部屋
渇水にひび割れた土に水が吸い込まれゆくのを思い起こせば、心の渇きも沁み渡るように満ちていく時が来るということが信じられる気がする。
作中の人物は、今まさに渇水期を抜けだそうとする段階にあるのだ、と下句から感じられる。


アプリオリ [短歌]

「短歌研究2月号」の穂村さんと吉川さんの対談を読んだ。
そこでちょっと気になったことをひとつ。
穂村さんの話なのだが、人間の認識のうち、アプリオリに持っている価値基準をあまりにも、過大に見ているように思えるのね。
たとえば、複数の演奏家による同じ曲の聴き比べをした時の話を出して、「自分がこれが好きであるとかこれがすごいんじゃないかという判断は直感的につくという気がしたけれど」という風に言っているが、その直感はアプリオリに持っている能力なのか、ということに疑問は持たないのだろうか、などと思うのね。
意識的に学ぶことの外側には膨大な、無意識のうちに学んでいることがあると思うんだが。

昔、学生時代、ゼミが始まってすぐに、先生が「《音楽は世界共通の言語》なんて言うのは大ウソである」ということをおっしゃったのだが、これは私にとって、目から鱗だった。
要するに、それは、西洋音楽を知った耳を持つ者同士の間では、ということになるわけ。
日本の昔の(明治ぐらいまでの)宴会を思い浮かべてほしい。芸者呼んでばか騒ぎいているような場だ。
三味線を鳴らして奏でられる音楽は日本の伝統的な音楽で、どちらかといえば、短調に近いメロディになるのね。
そういう場に居合わせた、短調長調で作られた耳を持っている西洋人は、なんてもの悲しい音楽だ、と思うのだけれど、その場の日本人にとっては、めちゃくちゃ陽気な音楽だったわけですよ。
では、同じ日本人である現代の私たちは、といえば、やはり、もの悲しいものを読みとってしまうのね。というのも、かなしいことに、わたし達は西洋音楽の《文法》にしたがって音楽を読み解くことが普通になっているからだ。

話は絵画に飛ぶが、私は東洋絵画の見方が分からない。
もちろん、この絵はすごい!というような絵はたくさんあるのだが、それは、西洋の絵画経由で見た面白さのような気がしているのだ。
それで、何冊か本を読んでいるうちに思ったのが、あんがい、わたしが見ている視点そのものも、西洋絵画の見方の影響を受けたあとのものではないのだろうか、というようなこと。
それまでは、疑問も持たず、透視画法によって書かれた西洋の伝統的な絵のように、あるいは写真のように見えているのが当たり前だと思ってたのだが、果たしてそうなんだろうか。
人間の目はカメラではない。人間の眼球は対象を前にした時、細かく動いて、対象をとらえるのだそうだ。
その、個々の情報を統合して一枚の絵のように理解しているのだが、その方式はアプリオリに持っているものなのだろうか。
いくつかの可能性のうちのひとつにすぎないのではないのか。
西洋の絵画の方式は、その後発明されたカメラによってとられた写真が西洋の透視画法の延長線上にあるようなものだったので、より、それは強固に信じられてしまっているのではないか、などと思うのだ。
西洋の絵画を目にしたことのない人がはたして、今の私たちと同じように目の前のものを見ていた、と断言できるものではないような気がしている。

そんなふうに、人間の感覚は好む、好まざるにかかわらず、その生きている場所と時代に大きく依存しているものなんじゃないかなあ


鑑賞090「メダル」 [百題百日2008]

今日の鑑賞は「メダル」。90番目の題です。
このイベント開催中に北京オリンピックがあったために、オリンピックのメダルを題材にしたと思われる歌が多く集まっていたようです。
金メダルを齧る選手の歌もけっこうありました。最近では定番のポーズになっているようですが、このポーズを始めてとったのは誰か? 
少し前にちょっと気になって調べたことがあります。 →→ 
また、勝者たちに与えられる金銀銅メダルですが、子供の競技の場合、みんなに金メダル、なんてことはもう、珍しくもない話になっていますね。
その他のメダルとしては、記念メダルやゲーム用のメダル、なんてものもあります。案外、いろんなメダルがあるものです。
いろいろ見ているうちにメダルの定義がよく分からなくなってきたので、ウィキペディアを調べてみました。案外幅広く使われているものです。

ほとんど雑談の前置きでしたが、話を歌に戻して、1首ごとの鑑賞の方へと。
最初は勝者に与えられるメダルの歌から。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
ええそりやあサボつたこともあつたけどあたしだつて金メダル欲しい
一人の生徒の声、なのだろう。
桑原さんの学校を舞台にした歌の中で、ちょっと異質な変化球って感じがした。
少し散文的に流れるリズムの中、他の歌とはちょっと違う心の声、という感じで聞こえてくる。

岩井聡 (あと100年の道草)
「俗物」と彫ったメダルの鈍色に覚める夜明けがあるんだなこれが
「あるんだなこれが」がいい。
「俗物」を自分の属性としてとらえているんだろうけれど、それをどうこう言うのではなく、ただある、としているところが面白い。
それにしても「俗物」と彫られているメダル、欲しいなあ。
ラテン語などで書かれていたら、すぐには分からないわけで、案外、世間で流通している、なんて想像してみるのも面白い。

史之春風 (はちぶんめblog)
わたくしを娶った勇気を表彰し万博記念のメダルを君へ
こちらは、記念メダルの歌。
わたしにも、メダルを渡すべき人がいます…。そういえば、どこかに万博記念のメダルならあったかも。
この歌、初句二句も面白いのだけれど、「表彰し」があることで、より、メダルの授与式のようなイメージがしっかりと浮かぶ。

こすぎ (たんかんぽんかんみかん)
手に入るメダルはいつもチョコレート新河岸川をくだってのぼって
メダルチョコの歌。
駄菓子屋の定番で、子供が簡単に入手できるお菓子だった。
あまり目立つ子供ではなかった作中人物だろう。下句がリリカル。
ところで、とまた蛇足ですが、ノーベル賞の形のメダルチョコ、なんてのもあるんですね。
益川教授、素敵!

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
抽斗のメダルやコインを磨き上げ満ち足りていたあの夏の日は
ゆったりした気分の時でないと味わえない喜びがある。
光を失ったものに、輝きを取り戻させる作業というのは、精神衛生上にもよさそうな仕事だ。
夏の夕暮れの、戸外が光を失いつつある時間に、無心にメダルを磨く女性の姿が浮かぶ。
だが、作中の人物にとっては過去のことなのだ。

小早川忠義 (ただよし)
新宿の明るさ過ぎたる道の端踏まれ続けるメダル一枚
この歌のメダルはパチスロのメダルか。
場末の風景だ。都市の盛り場は突然途切れて薄暗い路地へと続く。

砺波湊 (トナミミナト2008)
今朝もまたフランチェスコと鳥は居り胸に下がったメダルのなかに
このメダルは、あまりなじみのないメダルじゃないだろうか。宗教的な意味合いのあるメダルのようだ。
図柄は有名な、アッシジの聖フランチェスコが小鳥たちに説教をしている場面だろう。
小鳥とともに永遠にメダルの中に閉じ込められているフランチェスコは、なんだかとても、フランチェスコらしい感じだ。





鑑賞089「減」 [百題百日2008]

今日は鑑賞89日目。「減」の題の歌です。
短歌は、失われていくものを惜しむ心と、相性がいいようなので、いい歌がたくさんあるかな、と思ったのですが、ピックアップした歌は多くはありませんでした。
減るという言葉自体が、直接的で情緒的な部分を刺激しない言葉なんでしょうかね。
体重や塩分に関する歌がたくさんありました。健康に関心の高い、いまの時代らしい特徴のような気がします。

それでは、1首ごとの鑑賞です。

晴家渡 (晴家渡の二酸化短歌)
靴底がいびつに減って思い知る僕たちちゃんと生きてることを
偏った減り方をする靴の歌はいくつも見かけた。そういう人が案外といらっしゃるのだろう。
その減りに何を見るかが、歌として大事なところだと思うのだが、この作中の人物は「ちゃんと生きてること」の証として見ている。
それに気づく、ということは、普段はそうは思っていない、ということ。言いかえれば生きている実感に乏しい、ということだろうと思う。
しかし、一日ではほとんど変化のない靴底も、しばらく履き続けているうちに、自分の癖に従って形を変える。それを見てようやく、空気のような、頼りない存在だとしか思っていた、自分自身が確かに存在しているのだ、と感じるのだ。
ただ、3句の「思い知る」にちょっと違和感を覚える。うまく言えないのだが、作者としては「思い知」ったとしか言えないような出来事なのだろうが、その言葉の重さによって、逆に読者にその思いを伝えるのを邪魔しているような、そんな気がした。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
わが靴の右の踵のそとがはを減らす左脳のまよひ愛(かな)しき
この歌では、左右で違う靴の減りの原因を、巷で言われる、右脳左脳の説と絡めて想像している。
それによると、左脳は論理的な働きをする、ということになっていて、多くの人は直感的な働きをするとされる右脳により、あこがれているような風潮がある。
作中の人物は理屈や常識にとらわれている《左脳型人間》の自分を、気に入らないけれど、やっぱりそれは私で、と「愛し」いと感じているのだろう。

拓哉人形 (銀鱗歌)
婚姻はいわば決算 年ごとに減価償却されゆくふたり
なるほど。
この歌で大事なのは「いわば」の部分。これがあることで、金銭面にすべてを置き換えようとする読みから逃れられるのだと思う。
(金銭面でいうならば、私は押入れにしまい込まれた家電製品のように、ただ、古びるだけで元の取れない物体なんで、なるほど、とは思えない…。)
結婚して年月がたつと、いろんなものが古びて、何がなのかはよく分からないけれど、ゼロにどんどん近付いていく感じがある。

ジテンふみお (雲のない日は)
よく話す幼なじみは引っ越して町から減った電話ボックス
上句と下句の間には因果関係はないけれど、遠くのところでつながっているような感じ。
同じところに住み続けていても、周りは少しずつ変わって行く。人も物も。

近藤かすみ (気まぐれ徒然かすみ草)
岸本屋が百円ショップになつてから出町の馴染みの店減りゆきぬ
これも身近な場所の変化の歌。
京都の出町柳の出町だろう。
岸本屋という名が、古くからの個人商店を思わせるのだが、その店が消えて、できたのが全国どこにでもある、100円ショップ。象徴的な出来事だ。
それを皮切りに、古き良き町並みは急速に失われていっているのだろう。
作中の人物が大事に思っているその思いだけではなく、歴史のある街だけに、失われていくものの大きさは計り知れない。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
冴えてゆく白磁の月よ辛口の酒が減つたとおもふこの頃
甘口派としては、最近、辛口が増えた感じがして仕方がないのですけど、これは立場によって違って感じられることなのかも。
さて、甘口派の私ではあるが、冷え冷えと冴えた光を返す月には辛口の方が合う、ということには異論はない。
世の中全体が甘口に、ぬるま湯化していることへの心理的抵抗が詠ませた歌だろう。

 


鑑賞088「錯」 [百題百日2008]

本日、88日目の題は「錯」です。
よく使われる文字ですが、概念を表す言葉として使われる場合がほとんどなので、具体的な物を詠み込むよりは難しかったでしょうか。
それでは、1首ごとの鑑賞です。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
ひといきに食ふか否かはさて錯いて滴る桃のこの紅よ
おいしそう、と感じる桃の色は大きく言って東西で違うらしい。
赤い桃をおいしそうと思う人たちと、全体がクリーム色でほんのり赤く色づいた桃をおいしいと思う人たちが存在する。
わたしはクリーム色の桃の文化圏で育ったので、赤い桃を見ても食指は動かない。ただし、実際に食べたら、赤い桃も美味しい(というか、色の差は光をさえぎっているかいないかの差の部分が大きく、外れはむしろ赤い方が少ない気がする)のだけど、無意識の選択が働くのか、赤い桃を買うことはない。
しかし、この歌の桃はほんとに美味しそう、と思ったのね。たった31音ほどしかない短歌だが、作中の人物に同化しているのだろう。小説や映画などではよく起こる事だが、(ヤクザ映画を見終えた人が肩を怒らせて映画館を出てくる、という話はよく例にひかれますね)こんな短い歌にしても、やはり同じことが起こっているのだなあ、と思った。

梅田啓子 (今日のうた)
情報の錯綜する春 植木鉢を庭に出だせば蟻の這ひでる
最近では携帯電話の普及により、情報の錯綜度は以前に比べ、より高くなっているように思う。
そんな何かの情報に右往左往している作中人物だが、冬じゅう室内に置いていた植木鉢を戸外に出せは、蟻が這い出してきた。
そこに作中人物はふっと自らの姿を重ねている。時期が来れば自然にはっきりとする事柄もあるのだから、そんなにあれこれ杞憂しても仕方がないじゃないか、といったようなことを思っているのだろうか。

斉藤そよ (photover)
恋しさが錯綜してる秋の野のエゾノコンギク なにを話そう
エゾノコンギクは北海道に自生している花で、初秋に咲くのだそうだ。草原に群れをなすことが多いのだとか。
写真を幾つか見たが、一本がいくつにも枝分かれして、花をつけるのね。それが隣の花と重なり合って、群れている様子は、錯綜って感じがありそう。
そこから導き出された錯綜。だが、それを見ている作中の人物が見たのは「恋しさ」の「錯綜」。やさしい花姿からそんな風に思ったのだろう。
「何を話そう」がいいなあ。話したら、錯綜は解けていくのだろうな。

天井桃 (天然通信)
錯覚や勘違いでも恋は恋 幸せならばそれでいいのよ
恋が錯覚だった、という歌は多かったが、世間ではよく使われいている言い回しですからねえ。そこから、いかに自分らしさを出すかが大事なのだと思う。
この歌は下句の自分にも他人にも静かに言い聞かせているような口調がいい。
ま、そうでしょう。恋なんて、恋じゃなさそうな物を除いて行ったら何も残らないタマネギみたいなもんですから。

お気楽堂 (楽歌三昧)
錯覚じゃなくて売り手の思うつぼサブリミナルってそういうことね
んー。錯覚じゃないから、そういうことだわな。簡単に言えば。
「売り手の思うつぼ」という常套句が効果的。

我妻俊樹 (vaccine sale)
女の子だけの海賊、というほんの一瞬の錯覚よりもうつくしい庭
海賊の衣装を付けた女の子の姿がぱっと浮かぶ。わっ、かわいい! なんて素敵な錯覚なんだ。
それよりも美しい庭だなんて、もう、どうしていいか、分からない。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
放課後に生徒呼び出しのんびりと時代錯誤の指導を入れる
指導の有効性をちっとも信じてない先生がルーティーンの仕事としてこなしている仕事。
何とも疲れ切った教師が浮かぶ。
出口のない迷路の中にいるような教師だ。

鑑賞087「天使」 [百題百日2008]

今日、87番目の題は「天使」です。
難しいと感じることの多かった2008年の題ですが、わたしにとっては、見たとたんに、まず途方にくれた題でした。
素直に読めばとんでもなく甘ったるい歌になりそうだし、角度を変えて詠もうとしても、既存のイメージから抜け出るのが難しそうだと感じられたのでした。
でも、ピックアップした歌は少なくはありませんでした。皆さんはあまり、苦労されなかったのかしら。
しかしながら、意味の分からない歌もかなり多くありましたが。

では、1首ごとの感想に行きます。
まずは、一般的な天使のイメージに依って詠まれた歌だと思うものから。

勺 禰子 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
省エネの深夜自販機にひそと灯る光はたとえば天使のささやき
真夜中を煌々と照らす明かりも、それはそれでさびしさと安らぎを感じるのだが、それに馴れたのちの、乏しく光る自販機は別種のもの哀しさと温かさがある。
「天使のささやき」がさもありなんと、自然に感じられる場所だ。

蓮池尚秋 (ハスタンカ☆ブログ)
靴紐を結び直している人の背には必ず天使が座る
いたずらっ子の天使のイメージをうまく登場させている。上句の場面がなるほど、そんな時ならば、と思える。

続いて、マイナスのイメージを纏う天使の歌から。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
みだらなる天使がひそむ蔵書票、票主美貌のをのこなるべし
天使や観音は性を超越した存在、ということになっている。そのことが免罪符のように働いて、創作者にとって、また観賞者はより自由に性的なイメージを籠めることができるのだ。ボーイズ・ラブと同じ構図だと思う。
この「をのこ」は品行方正、また、何一つ弛んだところを感じさせない美貌の持ち主こそがふさわしい。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
ヴェンダースの天使おもほゆ図書館に団塊世代の人ら居ませば 
「ベルリン・天使の詩」。映画の内容は確か、何もできない無力な天使の話だった、ぐらいで、他はまったくもって覚えていないが、くたびれた中年男性の天使の姿だけは印象に残っている。
ちょうど、団塊世代の男性のイメージに重なるのね。
積極的に関われば世の中は変わるのだと、かつては思ったであろうこの世代の無力感は、最初から無力感を持って世の中に立たされていた、それ以降の世代の無力感とは、決定的に違うのかもしれない。

お気楽堂 (楽歌三昧)
天使にも位があって見てくれが赤ん坊ならせいぜいパシリ
何処にでも階級はある。
天使という、この世の栄達とは無縁そうな存在にも「位」という俗世間の基準に通う制度があることを持ちだし、天使なるものを地上に引き下ろし、しかも「パシリ」という、俗世間の中でもどちらかといえば裏社会的な位を当てはめて、ますます聖性を奪っているのだが、そこに持って来られているのが《天使のような》と評される赤ん坊の天使なのだ。

次は、「天使」から派生した言葉ではあるものの、別のものを指す言葉を詠み込んだ歌から。

拓哉人形 (銀鱗歌)
天パーの吉田の悲願。真っ白なマジックで塗る天使の輪 キュキュ
ストレートな髪の持ち主は《天使のような》天然パーマにあこがれるが、天パーの人はストレートヘアーにあこがれる。ないものねだりの憧れか。
この心情は分かるのだが、この歌の吉田君(さん?)たら、白マジックで天使の輪を書きこんでしまいましたよ。ギャグ漫画のような展開が面白い。
ただ、歌の末尾の「キュキュ」がオノマトペとしても効果的じゃないし、とってつけたみたいに思える。もう少し推敲できるのでは?

久野はすみ (ぺんぺん100%)
背徳の天使の喇叭、うすやみに頭(こうべ)を垂れて甘く香れり
天使の喇叭=エンジェル(ス)・トランペットは和名では木立朝鮮朝顔。天使と名にあるにもかかわらず強い毒性を持つ植物である。華岡青州の手術で有名な朝鮮朝顔と近縁種で、広義の朝鮮朝顔という時にはこれも含まれるようだ。こちらの和名「曼荼羅華」は間違って食べちゃうと仏様になっちゃうってところから来ているのだとか。
善悪の相反するイメージを持つ植物ではあるのだが、どちらかといえばマイナスのイメージをより膨らまされて詠まれた歌だ。

最後は「天」と「使」の間に意味の句切れを持つ歌。

岡本雅哉 (なまじっか…)
デザートはミルク寒天使用済み下着を売ったシブヤのカフェで
使用済み下着の売買は 数年前にテレビで取り上げられているのを見たのだが、いまでもあるんでしょうね。需要がなくなるとは思えないし。
大金をせしめて豪遊するのではなく、ミルク寒天を食べるといううらぶれた暮らし。
以前は、よりぜいたくをするためだった行為が、いつしか、日々を送る手立てとなっているのかもしれない、などと最近の雇用事情を鑑み、想像してみた。




参加します(村本希理子) [題詠2009]

五十嵐さん、参加の皆様、今回もよろしくお願いいたします。
今年は10か月に100首なので、1か月間10の題とあそび、また、次の月を次の10の題で遊ぶ、という風に進める予定です。どういう風に遊ぶかは未定ですが。
今年も身辺に変化がなければ、イベント終了後に感想を書こうと思っているのですが、今回の目標は感想に自分の歌も再度書き込む、ということです。
実は、去年も一昨年も内心ではそれぐらいの責任を持って、歌を詠もう、と思ってはいたのですが、あとで自分の歌を見ると…。あまりにも恥ずかしくって、実行できませんでした。
なので、今回は先に宣言しておいてプレッシャーをかけようか、なんて思っているわけです。
参加される皆様にも、わたしにも、実りの多い場となりますように。

鑑賞086「恵」 [百題百日2008]

こんにちは。
題詠blog2009も、今日からスタートです。 →会場はこちら。
ぱっと見たところ、去年に比べ、詠みやすそうな題、と思っているのですが、どうなんでしょう。詠んでみて、案外、ということもありますからねえ。
私も、今年もまた、参加する予定です。ご一緒に参加される方、どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。

さて、きょうは86日目。「恵」の歌です。
動詞の「恵む・恵まれる」にしても、いろんな可能性がありますし、この字を含む単語も多いので、困らないか、といえば。
どういう訳か、最初に神の恩恵的なことを思いついてしまって、そこからなかなか抜け出せなくなるっていうことはありませんでしたか?
ここまで鑑賞してきて、漢字一字の題の場合、歌にするのに難しい発想に陥ってしまい、そこから抜け出せない、という題があるのではないか、ということに思い当りました。歌の発想のバネとなるより、むしろ、障害となりやすい題、といいますか。
とはいうものの、この題の場合、まだ、軌道修正はしやすい題でしたが。

では、鑑賞。
動詞の形で詠み込まれた歌から。

酒井景二郎 (F.S.D.)
惠まれた孤獨と言つてくれていい 土砂降りの中飮む罐珈琲
作中の人物はあたかも、何かのヒーローであるかのように、自分の世界に浸っているのだが、それをはたから見たおかしさ、がいいんでしょうね。正字使用が効果的。

椎名時慈 (タンカデカンタ)
突然の豪雨みたいな幸運に恵まれたくてまたロトを買う
災難のような幸運。ロトにはそういう幸運がふさわしいのかも。
ストレートな幸福を願うなんて、ちょっとひねくれた大人になっちゃうと、なかなか難しい。

こはく (プラシーボ)
恵まれた日がいつ来てもいいように徒長しすぎたわたしを間引く
この「わたし」も病んでいるなあ。
ただ、待っていればいいのに、自分自身を間引かなければ、やって来られても、困ってしまう「恵まれた日」なのだ。

村上きわみ (北緯43度)
ひとしきり雨を恵んでいく雲の形なんだかいたたまれない
雨を恵んでくれる雲なのに、暗くて不安な気持ちにさせられる雲。
望んでいるものを快く受け入れられない、ということは、いたたまれないことだ。
いたたまれない理由は、それだけじゃないんだけど…。

続いて、名詞の一部に「恵」の字が使われている歌から。

はらっぱちひろ (テクテク)
裏付けのある意志よりも使い捨て可能の知恵でこの街を行け
今までの価値観だけでは、そこに居ることはできても、歩くことが出来なくなった街。
悲しい気はするけれど、いくつもの知恵を使って捨てて、また新しいのを使って、という風に生きているのが私たちだの現状だ。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
別にもうがんばらなくてもいいかなとサークルKで買う恵方巻
サークルKで買う神頼み。
サークルKはコンビニの中では一番あか抜けていない、というか、下町的な印象があるように思うが、違う?

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
すぐに泣くゆゑおもしろく妹の手からうばひし銀の知恵の輪
姉妹は意地悪をしながら大人へと育っていく。
だって、ライバルだもの。
ねっとりとした血縁を感じる歌だ。

冬鳥 (ことのはうた)
やはらかく飼い馴らされて私たち恵比寿ビールのほほゑみを呑む
あの、福々しい笑顔のついたビールが一般のビールに比べて苦いって、ちょっと皮肉。
初句二句はさいきん、少し常套句的になって来た表現のような気がするのだが、どうだろうか?

今泉洋子 (sironeko)
「あかあか」と明恵の歌を口遊み月の綺麗な熊野古道ゆく
有名な「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」の歌。これを口ずさみたくなる月に遭遇することは、稀にある。だけど、都会じゃ駄目なのね。周りが、うんと暗くないと。
行ったことはないが、熊野古道ならば、さもありなんと思える。
「綺麗な」なんて普通は説明的な表現で、避けるべきだろうと思うのだが、思い出しているのが明恵の豪快な歌だけに、これぐらいのストレートさが必要なのかもしれない。

(題詠100首blog-あいっちのうたあそび。)
ひらがなの「いやなんです」とはじまれる詩集はおそらく『智恵子』なり
「いやなんです」の強さに、何事か、と読み進むと『智恵子抄』。
緩やかな謎が解けた後にもなお、「いやなんです」の強い響きが頭に残る歌。



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