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鑑賞085「うがい」 [百題百日2008]

感想も今日で85日目です。
本日の題は「うがい」。
口先で終わる嗽はうがいじゃないとかいう話もありますが、たいがいの人は日に一度はする行為だと思います。
でも、歌にしようとすると、なかなか使いづらい言葉のように思いました。
この題でなければ「口を漱ぐ」などとする場合がほとんどじゃないかしら。なんで、この言葉を避けようとする力が働くんでしょうね。
そのせいか、嗽の意味を避けて、「○○方がいい」などの形で意味の切れ目をずらして詠み込まれた歌が多く見受けられました。

それでは、歌ごとの鑑賞に行きます。
まずは、普段の生活の中の嗽の歌から。

南 葦太 (「謙虚」という字を書けぬほど)
うがいなど無用 君からうつされる風邪ならむしろ養殖したい
一般的に忌み嫌われるものでも、好きな人経由でやってきたものは愛おしい。
この歌でとりわけ、面白くって、いいな、と思ったのは「養殖」という言葉が使われているところだ。
ふつうは「培養」などとするところではないかと思うが、この言葉が選ばれている。
「培養」だと菌としての側面から逃れられず、マイナスに傾く要素もあるけれど、「養殖」となるとプラス一辺倒の価値観に変わるのね。何かが、白い腹を持つ魚のようにぎゅうぎゅうと押し寄せてくるようなユーモラスな感じもする。

近藤かすみ     (気まぐれ徒然かすみ草)
うがひする水に濁りのあらぬこと幸ひとして朝は始まる
日本では、まず、水道から出てくる水が濁っていることはなく、その幸には気づきにくいものだが、たしかにそのことに気づけば、幸を感じられる場面である。
そして、それに気づいたところから、始まる一日は、何とも素敵だ。
この作中の人物は、蛇口からの水を手や口に直接受けるのではなく、コップに入れてから使うのだろう。だからこそ、水が透明であると気づくのだ。性格の一端もうかがい知ることができる。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
医師は宇治茶のボトルゆびさしてうがいはこれでええねんと言う
医者にかかればたかが風邪といえ、たっぷりの薬を出してくれる。
ふつう、うがい薬はその薬の中に必ず含まれているものだと思うが、この老医師はそれを処方しない。
主張はすごくまっとうで、風邪の菌ぐらいなら、お茶に含まれる緑茶成分ぐらいで充分ということなのだろう。
人柄が表れるエピソード大阪弁の口調とともに伝える。
こういう主治医を持っている作中人物の幸せをも思う。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
言わされてしまいしのちに水垢離(みずごり) の如きうがいを繰りかえせども
何かを言ったあと、あるいは言わなかったあとにうがいをする歌は多く見られた。
この歌では「水垢離(みずごり) の如き」と詠まれているが、穢れを除く行為として、多くの人が自然に行っていることのようである。
この歌では「言わされてしまいし」に無念な感じが非常に強く感じられ、共感を誘う。

続いて、比喩としての「うがい」の歌。

砺波湊 (トナミミナト2008)
「そことそこ、うがいしてる」と五歳児は川面のあぶくに指を伸ばしぬ
もう、子供にはかないませんね。とは言っても、彼らの知っている言葉が少ないために起きる現象で、数年もたてば普通の表現しかできなくなりますけど。
こどもの言葉の面白さに頼った歌には多少、ずるいって感じがあるのだが、この歌の場合、初句の「そことそこ」を拾っているところに作者の力量を感じる。

続いて「嗽」とは違う意味で詠み込まれた歌。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
それはもう、ひどく忌々しからうがいさかひの後に何が残らう
  「後」=「のち」
何ら、具体的なところはわからないのだが、濁音と歴史的仮名遣いの表記の重々しさが、また、二句三句の句跨りと四句の字余りが、苦々しい作中人物の内面を伝えるようだ。



鑑賞084「球」 [百題百日2008]

鑑賞84日目。本日の題は「球」です。
球技関係の歌と地球の歌が多かったかな。
ピックアップした歌が少なかったのは、球技に親しんでいる人が少ないからなのかしら、なんてことを思いました。

まずは、球技関係の歌から。
球技の中では野球の歌が多かった。中でも高校野球の歌と思われる歌が。
でも、テレビ観戦が多いのかな? 実感を伴わない歌が多いように思った。
テレビを通して見た歌を詠む時は、テレビの人のピックアップしたものを見ている、ということを忘れないでいる必要があるんじゃないかしら。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
白球を受けたる腕の青き痣 黒く沈めば秋も深まる
痣の色の変化に季節の変化を重ねた歌。
四季の中でも秋はとりわけ、静かに進む。

続いて月球儀。

砺波湊 (トナミミナト2008)
出窓にはひそやかに立つ月球儀夜のおわりの風うけとめて
地球を吹く風が月球儀が置かれていることにより、月面を吹く風のように感じられる。
下句がいい。

次は地球に関する歌。
歌に地球を詠み込もうとすると、大げさになりやすい傾向があるように思う。表現を抑える、ということも大事だろう。

村上きわみ (北緯43度)
霜柱みつけては踏むしたしさで北半球をあなたとあるく
北半球を詠んだ有名な歌といえば、
・みどりごは泣きつつ目ざむひえびえと北半球にあさがほひらき  高野公彦
が思い浮かぶ。
それ以上に、北半球を歌に詠み込めばこの歌と比較されてしまうことを覚悟しないといけないだろう。
高野氏の歌が幻影として歌われているのに対し、こちらの歌は今、自分が踏みしめているところを北半球と認識したうえで実感している。
自分が今歩いているところを北半球と大きくとらえるにはそれなりの説得力が必要で、それが感じられなければ大袈裟な物言いばかりが目立ってしまう。が、この歌の場合、「霜柱」を踏む感触とその立てる音が、そこを北半球と呼ぶのにふさわしい情景を描き出していると思う。

みち。 (暴走シンドローム。)
笑うとき少しかたむく君を見てここが球体なんだと気付く
球体と言っても地球はとても大きく、現実的な因果関係で考えるならば、上句と下句は繋がらないはず。
しかし、非常に主観的なとらえかたをしたら、そのように思う、ということはあることだと思う。
そして、それが詠まれた歌を読むと、あたかも、地球を玉乗りの玉のような大きさんものとしてイメージすることができる。
とても不安定で、すぐに落ちてしまいそうな球。
それこそが、作中の人物の心理的な真実としての地球なのだろう。



鑑賞083「名古屋」 [百題百日2008]

今日の題は「名古屋」です。
地名なので、この地に親しみを持っている人といない人では詠みやすさに差がありそう。
でも、ギャグの種にもされることの多い、独特の地域性があって、地名の中では詠みやすいのではないかと思います。
また、地名から離れて流通している「名古屋帯」なんてものもありますし。
私事ですが、わたしが住んでいるところは名古屋の通勤圏内なんだけれど、もともとは文化圏が違う土地であるうえに、わたしが他から移り住んだ人間なので、何が名古屋的なのか、には日ごろから興味を持って見ています。そんな点でコメントをつけたい歌はたくさんあったのですが、歌として面白いと思ったものだけに限りました。

では、1首ごとの鑑賞に。
まずは、名古屋名物!

佐藤紀子 (encantada)
味噌汁は赤味噌仕立てと決めをりき名古屋育ちの父の場合は
名古屋圏はみそ汁といえば赤味噌以外は考えられないようだ。もちろん給食のみそ汁も。
でも、不思議に思うのは地理的に川で区切られている程度の三重県はどうやら米味噌らしいんですね。個人的にとても興味のあるところです。
さて、この歌は過去の回想。お父さんはみそ汁といえば赤味噌なのだが、作中の人物はどうやら違うらしい。父親がいる時には赤味噌、不在の時には母親のふるさとの味噌だった、なんて想像ができる。でも、家長が絶対だった時代なんですよね。「決めをりき」で通っているのだから。そして、お父様がいらっしゃらなくなった今、赤味噌のみそ汁を見れば、必ず思い出すのがお父様のことなのだ。

みち。 (暴走シンドローム。)
名古屋からきた喫茶店があたたかくその町うまれのひとに恋した
コメダ、かな? 名古屋の喫茶店文化といえば、モーニングの豪華さがよく知られているがそれ以上に特徴的なのは、家族そろって行く場所であるという点だろう。
平日でも、朝は喫茶店でモーニングをとり、それぞれ会社や学校へ行くなんてこともあるようだが、そうでなくても、休日の午前中はだいたいどこの喫茶店も家族連れでいっぱい。当然、店の作りもそういう顧客に合わせて作られているのだと思う。ちょっと流行遅れ気味なインテリアの、あまり素敵すぎない店が多いのではないか。
そういう温かさにほのぼのとする作中人物が名古屋生まれの人にその温かさを重ねる、というのも分かるような気がする。

次は名古屋弁の歌。名古屋弁を詠み込んだ歌も多かったが、自然で効果的に使われているものはあまり多くはなかった。

月子 (月の寝言)
覚悟しやぁ名古屋の夏は暑いでね 涼しい顔してばあちゃんは笑う
大阪人としてはよく分からないのが、この「名古屋の夏は暑い」という話。しょっちゅう聞くのだが、そんなに暑くはない。東京や北の地方に比べたら、ということなんでしょうかね。
上句の方言が、優しくって魅力的。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
名古屋弁と三河弁交ざりあう場所で他人(ひと)のいさかいただ聞いて居つ
言葉の違いは文化の違い。その境界が、より、明確になっている場所に立つ、作中の人物だ。
尾張と三河は、外部の者にとっては似たようなもん、だと思うが、その地に住む者にとっては、明確に違う文化圏であるらしく、混同されるのを嫌うようだ。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
「行こまい」のやさしいひびきにうながされ歩きだしたり名古屋の人と
名古屋弁って、みゃあやら、にゃあ、やら、変なところばかり強調されて全国に知れ渡っているが、魅力的な言葉も多い。
この「行こまい」もいい言葉だ。何でもない一瞬に相手の人間性を感じるような気がするのが方言のいいところで、そういう一瞬が生き生きと描かれている。

続いて名古屋の街を歩けば…。

西原まこと (羽根があること)
あなたとのねじれ構図をみるように名古屋の街に建つスパイラルビル
名古屋の町は高層ビルがあまりない。最近になって、ずいぶん新しいビルが建ったが、それでも、周りはまだまだ低いビルで、変わった形のビルはかなり目立つ。というか、異物として感じてしまう。その異物感に「あなたとのねじれ構図」を見ている作中の人。実物を知っていると、一層面白く感じられる比喩だと思う。
スパイラルビルは正しくはスパイラルタワーでは?

夏椿 (夏椿)
菓子問屋街へみちびく春の風ふるき名古屋の形に折れつつ
菓子と言っても、駄菓子。西区明道町の菓子問屋街だろう。http://blog.sai-chan.net/625.html
戦後の香りを残す町だ。「ふるき名古屋の形に折れつつ」が分かる感じがする。


ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
並ぶよりすこし遅れて長かった雨の終わりの名古屋を歩く
「な」の音と「お」の音の配置が心地よい歌。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
名古屋が尾張でありしころ今よりも赤あかかりけむ黒くろかりけむ
尾張には豪華絢爛なイメージがある。今でも派手というイメージの付きまとう名古屋だが、考えてみれば過去の残骸にすぎないのかも、

そして、旅の途中の名古屋の歌。

野州 (易熱易冷~ねっしやすくさめやすく、短歌編)
草枕旅に倦みたるときの間を名古屋名も無き噺家にあふ
音の流れの気持ちい歌。
名古屋は東京と大阪の間にあって、個性の見えにくい町だ。落語にしても上方と江戸は2大勢力なのだけれど。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
名古屋で買い京都で飲みし酒なれば広島までも酔い保つべし
東の方から西へと向かう道中の歌。新幹線でしょうね。それぞれの地名が旅の雰囲気を伝える。

夏実麦太朗 (麦太朗の題詠短歌)
空っぽな重い心を乗せている名古屋止まりのひかり最終
名古屋止まりというのはどうも、中途半端なところといった印象があって、心理的表現となっている。
ただ、上句はもう少し具体的に詠んでもよかったのではないか、という気もするが。

最後は、帯。

村上きわみ (北緯43度)
母と子と繰り言ゆるくかさねあう午後をおさめて解く名古屋帯
着物や帯のことはよく知らないのだが、名古屋帯は外出着に締める帯らしい。となると、それを着ていく場所は、観劇だとか、食事会などの、ちょっとゴージャスな場が想像できる。そして母と娘となればどこか、谷崎の小説などを思い出す華やかさがある。
外出先の余韻ののこる午後の風景だ。



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えっと。
あまり関係ないかな、と思うのですが、So-netのお知らせページに

>2009年1月下旬より、携帯電話各社(docomo、au、SoftBank)にて、18歳未満を対象としたフィルタリング(アクセス制限)が導入されます。

なんていうのがありました。
このブログはキッズgooで検索をすると表示されないので、18歳未満の方が携帯から見ることは出来なくなる可能性が高そうです。冗談みたいだけど…。
もし、対象になる方がいらしたら、対策をお願いします。

鑑賞082「研」 [百題百日2008]

今日82日目の題は「研」です。
動詞だと、「とぐ」あるいは「みがく」。
辞書を引くとどちらも、研ぐ/磨ぐ、研く/磨くと出ていると思いますが、間違いじゃないならOK、ってものでもないと思います。どちらがより、ふさわしいか、を考えなければいけない言葉じゃないですか?
歌の中でも、これは「磨」の方がふさわしいだろう、と思われるものがありました。

まず最初は、その、動詞の歌から。

髭彦 (雪の朝ぼくは突然歌いたくなった)
包丁を研ぎてトマトを切る幸の小さくあれど幸の幸なる
普段に使う食材のうち、刃の切れ味が一番顕著に表れるのがトマトだ。少し切れ味が鈍って来ると、とたんにトマトの皮の部分が抵抗しだす。
そういう状態の刃を研ぎ、ふたたびよく切れるようになった包丁でトマトを切ると、気持ちがよいほど、すっと刃が吸い込まれるように入る。
このときの幸福感は、小さいものだけれど、見過ごすことのできない幸福感だ。
「幸」が3度も使われているのに、オーバーな表現とは思わず、自然だと感じるのは、食という、生きていく上で根幹にかかわる行為のせいなのだろうか。

内田かおり (深い海から)
指の間に白く尖った音乗せて薄刃研ぎ出すひとりの厨
上句の比喩がいい。特に「指の間」がなるほどと思う。一人きりの厨でその「指の間」に全神経を集中しているのだ。

082:研(大辻隆弘) (大辻隆弘 題詠100首のために)
一穂の燭のほのほを研ぐごとく机上に闇はくだりきたりぬ
「一穂」は、いっすい。(また、読み方を忘れて、調べちゃったよ)
蝋燭の炎と闇の鬩ぎ合い。数ある光の中でも、蝋燭の光と闇との境にはとりわけ強い緊張感がある。それは、時折揺れる動きのせいなのだろうか。
そして、その光と闇の間に自らの精神が置かれるのだ。ひとり蝋燭を前にすると、人は心の深い部分へと誘われる。

我妻俊樹 (vaccine sale)
研磨してひとのかたちをうしなってゆくのがこわい くらい うれしい
こちらは「磨」と組み合わせた動詞を詠み込んだ歌。
研磨されて、ようやく人間に近づいて来たのかな、というのが人生後半部にいる私の思いだが、若い人たちにとっては「ひとのかたちをうしなっていく」ことに思えるだろう。かくいう私も昔はそのように思っていた。
どちらの立場にしても「うれしい」部分はあるだろうが、内容は決定的に違う。この歌の「うれしい」は大きな恐怖を前にしての「うれしい」なのだ。逃れられない怪物のような存在の前に飲み込まれようとしながら感じる「うれしい」である。いくつかの恐怖小説が思い浮かぶ。それを一層明確にしているのがその直前に挟まれた「くらい」だ。何が暗いのか説明されていない、ただの暗さが放り出すように置かれていると感じるのだ。

続いて「研」の字が名詞の中に使われている歌から。
「研究」にかかわる言葉を詠んだ歌がほとんどでした。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
手に持ちぬ研究紀要の紙質の良さに気持ちの移りゆく昼
研究紀要の内容から、物質としての側面に心が移って行く場面を詠んだ歌。
内容から、心が離れていっていることがうかがえる。
初句「持ちぬ」だと終止形で意味を考えると不自然。連体形とすべきところではないかと思う。

夏椿 (夏椿)
色のなき花野のやうな癌研にわれよりわれを知る医師が笑む
初句2句は作中人物の心理状態に従った比喩。華やかなはずの風景も「色のなき」と思える精神状態にいるのだろう。
ある一面にすぎなくても、重大な一面を「われよりも」よく知る医師、という存在を、不思議なものを見るように、ながめる作中人物なのだ。



鑑賞081「嵐」 [百題百日2008]

今日は鑑賞81日目。「嵐」の歌です。
暴風や暴風雨を表す言葉ということは誰もが知っているとは思いますが、会話の中で比喩的な表現以外に使われますか?
「今晩は嵐になりそう」なんて、小説の中に出てくる話だとか、相当昔の人の言葉のように感じられるのですが。

では、その、一番基本的な意味の「嵐」の歌から。
現実感の乏しい言葉、という感じで詠まれているものから2首、常套句を用いた歌を1首、ピックアップしました。
佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
窓際のテーブルを拭く手を止めて嵐がやって来るのだと言う
何でもなさそうな一瞬が内面の不安を暗示しているように思えるのは「嵐」の一語のせいだろう。
たとえばここに「台風」をもってくれば、ただ事歌になってしまうと思う。

我妻俊樹 (vaccine sale)
目ぐすりをさしながら聞く敷きたての途が嵐をさまよう話
新しい怪談ですか。
「敷きたて」の途がまだ、風景となじんでいないために、さまよう、という想像が自然に思われる。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
嵐の前の静けさ、とばかり思い込み柔らかきしあわせを逃がしたり
常套句が効果的に使われている。多分「嵐」が象徴性を失っていないのだと思う。
しあわせの本質とはこんなところにあるのかもしれない。

続いて、他の字と合わせてもう少し狭義の気候を詠み込んだ歌から。

村上きわみ (北緯43度)
みずからを吐き出すような気嵐をかさねて冬の深みにいたる
              ※ルビ 気嵐=けあらし
気嵐とは。
北海道留萌地方のことばなのね。
上句、写真では静的なイメージがあるが、ダイナミックな気象現象であることが感じられる。
>・気温が-15℃前後、海水温と気温の温度差が15℃以上の時に発生することが多い。
とあるので、相当厳しい寒さの中で起こる現象。それこそ、想像を絶する北海道の「冬の深み」だ。

最後は固有名詞に使われた歌。
固有名詞の人気ナンバーワンはジャニーズの「嵐」だったんだけど、メンバーの名前が思い出せない、だとか、の歌が多かったですね。ジャニーズの中に埋没しちゃっている感じだ。

FOXY (ぎゃらりーFOX通信)
嵐寛(あらかん)が片眼瞑って捕吏を斬る捕吏の一人が僕の父だよ
往年の大スター嵐寛寿郎。彼に斬られた無数の役者の一人が作中人物の父であった。その父は何度も何度もその話を作中の人物に話してきたのだろう。
そして、その大スターのおかげでまた、若き日の父に出会える作中の人物なのだ。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
うねうねとほそながき坂のぼりつめ空と<青嵐歯科>に出会ひぬ
名前一つに出会うことにより、ふっと気分がかわることがある。
丘の上の歯科医院に「青嵐歯科」などという名がついていたら、身体の隅々まで、緑の風が吹き渡りそうだ。




鑑賞080「Lサイズ」 [百題百日2008]

今日は旧暦では元日。新暦でスタートを切り損ねた私も、そろそろ今年を始めましょうか。
今日の鑑賞は「Lサイズ」です。
「Lサイズ」が使われている場は少ないものの、いろいろに使える素材だなあ、とみなさまの歌を読んで思いました。
一番に思いつくのは洋服のサイズですが、そのほか、卵・ファーストフードの飲食物・写真、と案外使われている場所はあるんですね。
私ももっと、いろんな可能性を考えればよかった…。

では、鑑賞に行きます。
最初は洋服の「Lサイズ」から。
自分の身体のどこかに合わせて買った服の別のどこかが合わない、という歌がかなりありました。
発送の起点としては面白い歌になりそうな素材なのに、説明的な歌に終わった歌がほとんどで、ピックアップした歌はありませんでした。これは、残念。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
Lサイズの夫でなくてよかつたとアイロンかけつつ思ふ八月
そう言えば、そうだなあ、と同感。Lサイズに縁のない家族ばかりでもLサイズの歌は詠める。
夏のアイロン掛けは耐えがたいものがあるのだが、Lサイズじゃない分、早くすむものね。
下句が上句の説明になっている。それだけでは説明に終始した歌、ということで面白くないのだが、「よかつた」はどうも、それだけではない、そのほかの積極的な理由が含まれているのが感じられて選んだ。

小早川忠義 (ただよし)
Lサイズ舶来なれば身に余り海の向こうの男の腹囲
一口にLサイズと言っても、実はさまざま。
日本のLサイズがぴったりでも、輸入品となると違う。
下句の具体的な想像がよい。
ただ、三句が連用形なのは落ち着かない気がする。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
レディースのLサイズを着るあの人の意外と男っぽい首が好き
昔の男は女性物など絶対着なかった。自らの男性性が損なわれる気がしていたのだろうか。
しかし、最近の若い子はそんなことにはとらわれない。特に細身の子は体に沿う女性物を買うことがよくある。
そういう子が体に合った服を男性もので探すとなると、安価には手に入らないらしい。
かくして、息子しかいない母親でさえ、子と洋服を貸し借りできる時代である。(これ、うちの話。Mサイズだけどね)
で、歌に戻るが、体に沿った服を着ると、逆に女性とは違う部分が目立つ。特に首って、わりと男女の違いが大きいとこだと思うのね。
そういうところに女性は、弱い。(ただし好きな男限定!)

梅田啓子 (今日のうた)
洋服はLLサイズと目測す やはきひかりのルノアールの裸婦
裸婦像はだいたいが、かなり豊満な体つきをしている。世間で言われている理想的な体型とはまるで違うのね。
だいたいの女性が痩せたい願望を持っているこの時代、絵画鑑賞的には邪道であろうと何であろうと、多くの女は内心ひそかに自分との体型比較をしているのではないか。
そんな風なことを思っちゃうからこそ、モデルの女性の洋服のサイズが気になるというのが、女心というもの。
同想の歌も生まれやすい素材だが、ルノアール(ルノワールの表記の方が一般的だと思うが)という画家の選択と、上句の、日常生活の中で実際にある、同性間でひそかに交わされるのと同じ、視線の動きが具体的でいい。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
ひたむきになほひたむきに編むほどにLサイズにはならぬセーター
こちらはセーターを編む歌。
編み物をするとき、人によって、一目の大きさは様々なので、まずは、試し編みをして、大きさに対する編み目の数を計算する。なので、計算どおりに仕上げれば、目的の大きさに仕上がりそうなものだが、なかなかそうはいかない。そうそう簡単に、一定の編み目にはなってくれない。しかも、きれいに編み目を仕上げようとすればするほど、編み目はかたく締まって行くのね。だめだ、と思って、また、計算をし直して、編みはじめるのだが、それでも小さい。どういうわけか、頑張れば頑張るほど、編み目は締まって行く、というのが一般的な傾向だろう。それも、計算プラス工夫が必要な、複雑な編み込みや模様編みに取り組んだ時の方が、その傾向が強い。そういうときに、自分の精神状態と編み目の関連に気付く。こんなにも縮こまっている作中人物には Lサイズという大きさは、とてつもなく大きく伸びやかな精神のようにも思われるのだろう。

村上きわみ (北緯43度)
もういないひとの背中はすずしくて2Lサイズの印画紙に焼く
こちらの歌は写真のサイズ。洋服の2Lはかなり大きいサイズだが、写真の場合は普通の写真より一回り大きい程度。
何枚かのスナップのうちの、お気に入りの一枚に選ぶ感じの選択だろうか。画面いっぱいにクローズアップされた、男性の背中のモノクロの写真の写真を思う。

伊藤真也 (クラッシュボク)
ぎこちなくこねた無骨なハンバーグ2Lサイズを覚悟して食え
不器用な、男の手料理って感じ。「覚悟して食え」が一層そんな感じを強めている。
でも、妙にちまちまと上手な料理よりもおいしそう。食べたい。

ほたる (ほたるノオト)
Lサイズの冷えたポテトを気にしつつ鳴らない携帯見つめ続ける
SMLサイズがよく使われる場として、ファーストフードの店も忘れてはいけない。
店のつくりが似たり寄ったりなので、イメージを再現しやすい場だ。
この歌のLサイズはたぶん、恋人と一緒に食べようと頼んだものなのだろう。上句、どれぐらいの時間なのかが具体的に示されている。
頼んだポテトが冷めてしまったのに、彼(彼女)からは遅れるとの連絡さえ入らない。
携帯が普及した現在、ちょっとした遅延も昔以上に不安感が募るのだ。



鑑賞079「児」 [百題百日2008]

寒い日が続きます。冬眠したい気分を抑えて、今日も題詠Blogの感想です。
79番目の題は「児」。こどもに関する言葉なので、可愛い歌が多かったですね。
ただ、自分の身内を歌う時には、よく言われることですが、甘くなりがちって面もありますけど。

まずは、人間のこどもたちの歌から、鑑賞していきます。

里坂季夜 (コトノハオウコク)
園児らの声が奏でる主旋律どんぐり踏めば装飾音符
落ちてすぐの団栗はまだ堅くって、踏んでも音を立ててくれないけれど、少し経つと乾いた音がして、いかにも秋って感じがする。小さなこどもは多くの場合、ドングリを見つけたら、すかさず踏んでいくので(私もしちゃうけど)、園児の一団が歩くと、あちらでも、こちらでも音を立てる。その様子は「装飾音符」だ。

晴家渡 (晴家渡の二酸化短歌)
児童から生徒になって学生へ僕たちちゃんと育ってるかな
小学生が中学生になれば、また、高校生が大学や専門学校にすすむと、自動的に自分たちへの呼称は変わる。
でも、それは外から与えられるもので、さて、内面はどうなんだろう、という疑問はみんな持ちつつ育っていくのね。
内面は、ある日突然に変わるものではないだけに、余計、そう思うんでしょう。でも、そのような疑問を持つこと自体が健全な成長を示しているようで、清々しい。

続いて、子供たちのいる場所の歌から。

はこべ (梅の咲くころから)
公園の児らが摘みしか並びおるシロツメクサがブランコにゆれ
こどもたちが立ち去った後には、思いがけないものが残されていることが、よくある。大人の感覚では、何でそこにそんな物が、というものがね。しかし、逆に、そういうものこそ、子供が先ほどまでいた、という気配を濃厚に残している。その子たちの残像がそこにあるような温度を感じるのだ。
勝手な推測なのだが、この歌は最初、児童公園から詠み始めて、結果的にこの形になったのではないか。初句の「公園」は不要だろうと思う。


ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
公団のはずれの児童公園に夏は朽ちつつまだ影を追う
夏の夕暮れだろう。影を追っているのは子供たちだと思うのだが、こどもの描写はない。そのため、ただ、影が影を追っている情景が思い浮かぶ。永遠に続く夕暮れといった印象だ。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
児童館の床の緑のカーペット裸足で踏めば芝より硬し
児童館の歌にもたくさん出会った。昔はなかった児童館だが、現在では全国に4600か所ぐらいあるのだそう。
私自身は聞いたことはあっても、行ったことがない場所で、具体的にどんな場所かは知らない。でも、この歌の、裸足で触れるカーペットの感覚から、不思議とよく知っている、懐かしい場所のような気がしてきた。触覚に訴える歌の力か、記憶の中の共通項を探し出して、自分の子供時代の居場所を思い出したのだろう。

そのほか、人間のこどもから離れた意味で用いられている「児」の含まれる言葉の歌から。

夏椿 (夏椿)
おのが身をしろき闇へと葬れり蚕児ふたたび生まるるために
  (蚕児=かひこ)
蚕児の繭ごもり。ご存知のように、その中で蛹となり、やがて成虫になるのだが、ところがどっこい。カイコは自然界では生きられず、絹糸用に飼育されている生物だ。産卵用の一握りのカイコのほかは、その段階で殺されることとなる。他の蝶や蛾であれば、変態後、成虫となることを「ふたたび生まれる」と言っているとも考えられるが、カイコの場合は転生を指すのだろう。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
どことなう嬾惰な午後が結果して肺尖加答児などてふ病
「嬾惰」=「らんだ」「肺尖加答児」=「はいせんカタル」
肺尖カタルは肺結核の初期症状らしいが、結核が治りにくかった時代には結核という病名を避けるためにも使われていたということである。
現在最も恐れられている病は癌だが、その前は肺結核であった。現在でも侮れない病気である肺結核だが、抗生物質が普及する前にはまさしく死病であり、患者の精神的な資質とも結びつけられて語られる病でもあった。現実に病に臥せっている人たちには過酷に働くそのイメージだが、その時代の文学には多くの果実をもたらした。
時代の病の表現として、「肺尖加答児」は様々な、病の周辺を想起させる表記であり、また、「どことなう」という少し崩れた感じの物憂さもまた、そのイメージを深める。

村上きわみ (北緯43度)
結び目のすこしゆるんだ兵児帯が先へ先へとゆく夏でした
元々は男性用の帯であり、最近では大人の女性も兵児帯を締めるようだが、少し前まではもっぱら子どもの浴衣用の帯だった。
浴衣の子を描いているのだが、より、細部に焦点があるために、鮮明な像が浮かぶ。



鑑賞078「合図」 [百題百日2008]

鑑賞78日目。本日の題は「合図」です。
普段、全く使わない言葉、ってわけじゃないのに、私の場合、歌にしようとすると、難しく感じた題でした。
今考えると、イベントなどでは、しばしば使われる言葉なので、そのあたりを考えれば、そう、困らなかったかもしれません。
でも、ピックアップした歌は少なかったんですね。しかも、1対1の人間間で使われている場面の歌は1つしかなく、それも、会話によるコミュニケーションが難しい相手との間で使われていました。
人間対人間の場合は合図より、ふさわしい言葉に置き換えられる場合が多いのでしょうかね。
その他、面白い場面を詠もうとして、滑った?って歌や、よく分からない歌も多かったように思いました。

では、一首ごとの鑑賞に行きます。
まずは、前述の1対1の人間間で使われている「合図」の歌から。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
ため息はNOの合図 高機能自閉症児の静かな時間

その子にとっては精一杯の伝達方法。これは、合図だなあ、と思う。

次に、犬へ送る合図。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
せつなさはお手の合図を待つ犬の前脚の浮きに具象化される
「お手」を待たされている犬は、このような動作をする。人間の側から見ると、結構可愛くも見えるのだが、犬の側からすると、せつないよなあ。よく観察されている歌。

続いて季節の合図。

夏椿 (夏椿)
それは夏の終はりの合図 直線を描きし雨が点描になる
夏の終わりや秋の初めに、あ、これは秋の雨だ、と思う雨がある。
夏の雨と秋の雨の違いを直線と点描でうまく表現されていると思う。

そして、合図はなかった。

橘 みちよ (夜間飛行)
なんの合図も無くわが体内を占めをりし腫瘍とともにこの夏を生く
体の表面にできたデキモノは、ちょっとしたものでも存在を主張するのに、体の内部は鈍感なんだそうだ。
ある日、突然知らされた存在に、愕然とするのだろう。好む好まないにかかわらず、突如共生を余儀なくされた存在がある。
下句より深刻な印象を受けるのだが、大したことではありませんように。

鑑賞077「横」 [百題百日2008]

鑑賞77日目。本日の題は「横」です。
そのままの一字だけでも、単語の一部としても、見慣れたものですから、困らないように思ったのですが。
ピックアップした歌は、そう多くはありませんでした。発想の起点にはなりにくい題だったのかもしれませんね。

では、1首ごとの感想です。

斉藤そよ (photover)
てんぼうがないのがいいねひたすらに横へ横へとそれるそれだけ
初句「てんぼう」の平仮名表記がいい。なんだろう、と疑問に思いつつ読み、最後になって、ああ「展望」か、と気づくようになっている。
最初に「展望」としてしまったら、どんと暗い色調を持ってしまい、すなおに「いいね」とは思えないだろうと思う。

カー・イーブン (ほぼ31音)
定型の詩の一行を横たえて霊安室に似ていくブログ
ひとたび、定型に納められ、文字になった詩は死体ということか。
題詠Blogに投稿する歌は1記事に1つずつ、という決まりなので、記事ごとに一つの歌がおさめられ、他の記事が挟まれなければ、それがずらずらと並ぶ。
う~ん。なるほど、霊安室に似ているなあ。
書かれるはたから死体になって行くのが詩だとしたら、詩は未生からダイレクトに死へと変化するもの、ということなのだろうか。

続いて、横顔の歌を2首。
横顔の歌の中で多かったのは好きな人の横顔をじっと見つめる歌。少女マンガの典型パターンの一つなので、なかなか、ここからの展開は難しいですね。

ジテンふみお (雲のない日は)
洗車する横顔に虹 フェンダーの傷の由来をきらきら話す
フェンダーの傷が乱反射してできた虹だろうか。(調べたんだけど、根本的なところから車の構造が分かってないので、大きな勘違いしているかもしれない)
武勇伝のような話だったのだろうな、と思う。
ただ、「きらきら」はよく分かるんだけど、表現に工夫しました!という風に目立ってしまっているように感じる。目立ってしまうと、小手先の工夫といった感じに思えてしまうんですよね。

やすまる (やすまる)
わたくしの玄関先にとりついてあなうるわしき横顔は咲く
こちらの横顔は、ちょっと、怖い横顔。しみなどが、人の形に見えてくるってやつだろう。

つばめ (ツバメタンカ)
レジ横の難民救済募金箱に善意は一円硬貨の形
「レジ横」は言葉として、すっかり定着したように思う。「レジの横」よりも指す範囲がかなり狭い。
そこにある募金箱の中身は一円がほとんど、中に五円玉が少し混じるといったところだ。善意と言うのも恥ずかしいような内容なのである。
入れる側の心理としたら、たぶん、一円=1グラム分の軽さを買っているといった感じだろう。お金を捨てる、ということには抵抗のある人のために設けられた大義名分が募金なのだろうね。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
まだ何か言いたいような顔をして横断歩道を渡りはじめる
横断歩道も短歌の中によく出てくる場所じゃないだろうか。それも、だいたいが大きな交差点にある横断歩道のように思われる。大きな街を歩いていて、突然視界が開ける場所。それが横断歩道だ。当然、心理的にも変化をもたらす場所だ。
この歌は、ふつうの日常生活の小さな一部がそこだけ取りだされている。その前の会話もたわいのないことだろうし、「まだ何か言いたいような顔をし」た人も、すぐにそのことを忘れてしまうのだろう、と思われるぐらい、小さな出来事を歌った場面だと思う。それだけに、横断歩道という場が、より、効果的に働くような気がする。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
わが思考を雨の擬音に占められて横横道路で横滑りせり
下句、「横」を3度も用いる、ちょっと言葉遊び的な部分が目を引くが、それが遊びに終わってしまわないのは、上句が真摯だから。
擬音にのめり込む時期、というのがあって、一日中、ああでもない、こうでもないと思い悩んだ挙句のできごとなのだ。


村上きわみ (北緯43度)
どこかしら横柄に咲く芍薬の持ち重りするそのうつくしさ
「横柄に咲く」また「持ち重りする」は、これぞ、芍薬、という感じ。芍薬の存在感が立ち上がる。
しかし「うつくしさ」でまとめてしまうのはどうかなあ。私はすこし物足りない感じがした。



鑑賞076「ジャンプ」 [百題百日2008]

今日、76日目の題は「ジャンプ」。
よく目にする言葉でありながら、日常生活ではあまり使わない言葉ではないでしょうか。
中でも、動詞は「跳ぶ」を使わず「ジャンプ」を用いる必然性がなければならないわけで、これが、案外難しいように思いました。自分の動作の場合、スポーツ選手でない限り、あまりジャンプする機会はないのではないでしょうか。
そのなかで、これは、「ジャンプ」だったなあ、と思ったのがこの歌。

やましろひでゆき (短歌とか短歌とか短歌とか)
ジャンプしてみ?優しく諭す怖い人じゃらじゃらポケットの古銭が歌う
学生間のかつあげの歌。お金を持ってないというと、次に要求されるのがこの動作。
私自身は経験ないけどね。よく聞く話であった。
自分自身に題を引きつけて詠まれた歌だと思う。
ただ、もう少し推敲の余地がありそう。下句「じゃらじゃら」は決まり文句のようなオノマトペだし、「歌う」のような、中途半端に飾った言葉も排すべきだろう、と思う。

中村成志 (はいほー通信 短歌編)
てのひらに一瞬感じる背の熱さ大きく脚を開いてジャンプ!
上句に、遠い昔に感じた、人の背中の感触を思い出した。馬跳びの場面であることを言わずにそれと悟らせているところがよい。
しかし、「ジャンプ!」で結ぶのは、落ち着かない感じ。ジャンプを使うことが、そう、不自然な場面ではないが、ジャンプを使わなければ、もう少し推敲の余地が広がるような気がする。

カー・イーブン (ほぼ31音)
Aボタン押されてジャンプする大人にはなるなよとマリオは言った
テレビゲームのことを考えるときに人は普通、プレイヤーの立場、あるいは、プレイヤーを見ている者として思考する。
ゲームの中の人物の心理には無頓着であった。しかしマリオからすれば、操られる存在なのね。視点の斬新さがある。
ところで、マリオのゲームでジャンプはBボタンじゃなかったっけ?と思って調べてみた。
すると、スーパーファミコンでは、Bボタンなのね。でも、もともとのファミコンでは、AジャンプにBダッシュのようだ。
実際に押すボタンがBではなくても「Bダッシュ」の言葉は残っているようだし、Aジャンプも普通名詞のような存在になっているのだろうか。このあたりのことがよく分からないので、「Aボタン」が歌の中で使われていることが、いいのか悪いのか、私には判断がつかない。

FOXY (ぎゃらりーFOX通信)
105円傘をジャンプさせさっと私にさしかけてくるあなたの優しさ
最近の生活の中で、一番なじみのある「ジャンプ」といえばジャンプ傘だろう。
「105円傘」の、とくに5円を切り捨てていないところがいい。この、しみったれ感と優しさのバランスが「あなた」を語っているのだ。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
ひとしれず金魚鉢からジャンプしてわれの金魚は自死を遂げたり
このような場面に遭遇した、という話は何度か聞いたことがある。そう、珍しいことではないのかもしれない。
金魚が飛び出したのは金魚の理由で、実際の理由は分からないが、飼い主は人間の論理でその理由を理解しようとする。それだからこそ、「自死」と言う言葉が出てくるのだろう。

続いて、名詞の形で使われている「ジャンプ」の歌。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
ゆうぐれの金網越しに見守れば遠いあなたのシザーズ・ジャンプ
シザーズジャンプとは。
テレビなどで見ていると、けっこう滑稽な動作だと思うが、歌になると、格好がいいなあ。

村上きわみ (北緯43度)
ジャンプ・ブルースひときわ好むマスターの冗談みたいな髭 すきだった
ジャンプ・ブルース。
こんな感じ?→(代表的なアーティストとされているルイ・ジョーダンの動画)
(たぶん)非常にマイナーなジャンルの音楽を好むマスター。哀愁と陽気さが同居する音楽(間違っていなければ)はマスターの人柄を表すかのよう。髭は跳ね上げてカールさせた口髭だろうか。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
逆さ吊りのカードの男を思わせてバンジージャンプにたまゆらを死す
バンジージャンプの映像を見ていても、跳ぶ人はみんな、すごく陽気で、その上、動き回っているので気付きにくいが、基本姿勢は逆さ吊りになっている。自分で体験して思うことって感じがした。(ただし、カードの吊るし人は片足のみで吊るされている。足を十字の形にしていることに意味があるのだそう)

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
一冊のジャンプを二人で買うことをこち亀くらい続けるつもり
「週刊少年ジャンプ」の歌。少年ジャンプの歌は多かった。おかげで月曜発売なのね、なんてことも知った。
「こち亀」は「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の略。コミックで100巻超えたあたりのことは知っていたのだが、まだ、連載中なのね。少年漫画の連載最長記録を更新中なのだそう。1976年から、ということなので、30年以上続いているようだ。
この、「こち亀くらい」がいい。末永くの比喩の現代版といったところか。うまい具合に「亀」の字まで入っているし。



鑑賞075「量」 [百題百日2008]

今日、75番目の題は「量」。
この題の歌は、ともかく、分からない歌が非常に多かった。
私は、難しいという印象はなかったのだけど、選んだ歌も少ないし、選んだ歌にしても、題を詠み込んだあたりに疑問の残る歌が多かった。詠みにくい題だったのだろう。
量るものの対象として、愛情だとか、幸福を持って来ると、陳腐な歌になりやすく、現実に量るものだと、状況を説明しているだけでそれがどうした、という歌になりやすいか。そして、その2つを避けようとすると、独りよがりの歌になりやすいということかもしれない。
また、抽象度の高い歌は、どこか、鑑賞する取っ掛かりになるイメージを共有できないとわからないのだが、それが見つからない歌がほとんどだった。

わたつみいさな。 (乱切りくじら)
石鹸を量り売りにて買う昨日ついた嘘ほどちょっぴりと買う
石鹸の量り売りは珍しいものだが、たまに見かける。
この歌の面白いところは「ちょっぴりと買う」ものが石鹸だという所。
もう少し一般的な飴の量り売りに比べ、一個の重量がずっと大きいのね。それどころか、そこそこの値段のものとなると、一個だけ買うことも普通だし。
それが「昨日ついた嘘ほど」の量だというのだから、「ちょっぴりと」がいったいどれぐらいの量なのか、本当にちょっとの量なのか、疑問。その辺の矛盾が作中の人物の中に同居しているってことだろう。
この歌は三句の中で切れているのだが、この歌の場合、意味とリズムの切れ目のずれは邪魔な感じになっている。
また、「買う」の繰り返しも、効果的とはいえない。

夏椿 (夏椿)
湯に入れば量の分だけ上がりくる水位よわづか5センチの生
  (量=かさ)
自分の身体の分だけ水位の高くなった浴槽の水に自分というものの存在を思う歌。
「生」がないとそれが何、という歌になってしまうが、やはり言いすぎの感がある。もう少し工夫できないものだろうか。

佐藤紀子 (encantada)
推量で悩むなとだけ窘めて診断結果を待つ母に沿ふ
医師の診断結果が出る前に自分の病状を悪いものと思い詰めている母親。「悩むな」という作中の人物も不安を感じながらも、宥めている、といった状況だろう。
「沿う」がうまく状況と心情を伝えていると思う。
ただ、「推量」は題を入れるために持ってきた言葉のような印象がある。

あおゆき (メソトリウム)
からからともみじ葉紅いまま枯れて恋は選べず愛は量れず
まだ、鮮やかな色を残したままで散る紅葉に選べない恋が導き出されている。
ただ、五句が、どうにも通俗的なところに陥ってしまったように思う。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
少年の顔に戻って男らが量販店で過ごす放課後
一般論で個人差は大いにあるが、男は機械の類が大好き。女が可愛い小物を愛するのと対をなす。
量販店にはそういう男たちの少年の心を刺激するものがたくさんあるのね。男たちが少年に戻っている午後は放課後となる。
ただ、量販店というと安売りの店という印象が強く、家族連れの多い場所。男たちがあまり興味を示さないコーナーも多い。この量販店も題のために持ってきたような印象が少しする。

鑑賞074「銀行」 [百題百日2008]

74番目は銀行の歌。
詠みやすい題ではないかと思っていたのですが、ピックアップした歌は思ったほど、多くはありませんでした。
気になったのは、銀行員の歌。世間で言われる、銀行員らしい人ばかりでしたね。
銀行の中の人は個性が見えにくいけれど、外回りの人などは、世間話などもして、人間味なども感じることも多いのですが。
また、お金を扱う所という卑近さを嫌ってか、ファンタジーに<逃げた>といった歌もたくさん見受けられました。
ファンタジーを詠むことが悪い訳ではないのですが、どこかで見た発想を簡単に歌に焼き直してもねえ。
ファンタジーを詠むのは、日常を詠むことの何倍も、難しいことだと、心して詠んでほしい、と思いました。

それでは、1首ごとの鑑賞に行きます。
まずは、日常の生活の中での銀行の歌から。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
銀行に寄っていくねと手を振った だって一緒にいたくなかった
人と別行動する言い訳に、銀行はいいなあ。覚えておこう。
フレンドリーに振舞いながらも内心は、という状況を生き生きと伝えている。

瑞紀  (歌信風)
形よき爪持つ人がくきやかに銀行印を捺す様を見つ
誰でも銀行印は押すのだが、銀行印に似合う爪というのは、確かにありそうだ。
装飾のない実直な爪が、きれいに切りそろえられている指で、押される銀行印。思わず見つめてしまいそうだ。

わたつみいさな。(乱切りくじら)
新しい苗字に聞き耳立てているやたら背筋をまっすぐ伸ばす
「聞き耳立てている」で、ああ、そういうときがあったなあ、と思い出した。経験のない人には、不自然な表現に思えるかも、と思うが、これは、とてもリアリティがある。
「籍」の題の歌で、娘の新しい名に戸惑う親の歌があったが、本人も戸惑うのだ。
結婚したことにより名前が変わったことを理解しているが、まだ、自分の名前になりきっていない時期なのね。
銀行や役所で呼ばれる名前は新しい名前なのだけれど、最初はまず、そこまでは想定していない。無意識のうちに旧姓で呼ばれることを待っていて、聞き逃しそうになったという経験をした人も多いと思う。そういう経験の後、しばらくは「聞き耳立て」て自分の名前を待つという時期がしばらく続く。
そういえば、「やたら背筋をまっすぐ伸ばす」これも、やはりやっていた。そう「やたら」なのね。昔の自分の姿を思い出して、苦笑した。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
銀行に在りてもつともしづまれる紙幣にしろく降るモーツァルト
こちらは、現実の銀行というよりも、銀行という場所の持つイメージを詠んだ歌。
石造の銀行の中のひんやりとした空気を思う。

続いて銀行から現在の日本の様子が見える歌。

原田 町 (カトレア日記)
駅前の銀行なべて閉店しわが町いよよ過疎となりゆく
銀行の再編・合併が進む中、支店もだいぶん数が減らされているようだ。
銀行に限らず、切り捨てられるものの多い昨今の風景である。


佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
さくら銀行跡地に建った公園のベンチの色もいつか忘れる
金融の再編に次ぐ再編で、もう、どの銀行がどうなったのか、把握できないようになってしまった。
さくら銀行は太陽神戸と三井が1990年に合併して生まれ(名称は1992年から)2001年に住友と合併した際に消えた。
もう少し長かったかと思っていたが、10年ほどのことだった。
無くなった銀行の名はたくさんあるけれど、歌に選ばれたのは日本を代表する花の名を持つ銀行。そこに、特別な感情が生まれる。

寺田ゆたか ( “たまゆらのいのち”)
オレオレと言はれて送る銀行の口座名義の見知らぬ息子
振り込め詐欺の歌。
最初、振り込むのは被害者の代理人なわけで、口座の名義を「息子」としたのは事実と違うのではないか、と思ったのだが、結局のところ、息子を騙る詐欺師に金を送っているわけだからね。
よくある場面をユーモラスに描いた。そして、その詐欺師を「見知らぬ息子」とすることにより、ペーソスのようなものを感じさせられる。

続いては銀行強盗の歌。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
ヒロインの名前はボニー 銀行が広い意味での職場のひとつ
ボニーとクライドを詠んだ歌も複数あったのだが、この歌は、その処理がうまい。
まあ、広い意味での職場、だ。




鑑賞073「寄」 [百題百日2008]

鑑賞73日目。今日の題は「寄」です。
動詞の「寄る」はよく使われている言葉ですし、他の字と合わせても、いろいろとなじみのある単語ができますので、そう、困るという題ではなかったのでは、と思います。
ところで、動詞の形で詠み込まれた歌なのですが、選んだものはすべて、他の動詞と合わせたかたちで使われていました。
「寄る」だけだと、詠みにくかったのでしょうかね。常套句的な使い方をされている歌が多かったように思います。「寄せる波」はかなり多く見受けられました。
それから、相撲の歌もかなり見受けられたのですが、だいたいがうっちゃりへ流れて、人生のあれやこれや(とくに恋)の比喩とする、黄金のパターンなあるようです。相撲を詠むなら詠むで、まずは、しっかりと相撲そのものを見つめる必要があると思うんですよ。現実から離れた歌を詠むにしても、それは同じことだと思います。

それでは、まずは動詞の形で詠み込まれている歌から。

梅田啓子 (今日のうた)
餌(ゑ)をもとめ寄り来る鹿の左眼は白緑色(びやくろくしよく)に濁りてゐたり
奈良公園かどこか、鹿のたくさんいるところだろう。その中の一頭が寄って来たのだが、その左目は病気なのか、白緑色をしている。たぶん、視力も失っているのだろう。
鹿の毛の色を考えると、その目は美しく、神々しくさえ感じられるような気がする。どこか、その特別な存在に選ばれたような心地がしたのではないか、と想像する。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
なにほども意味なきことのいとほしき 顔寄せあひてゐもり眠れる
上句のように感じられるのは、ついつい物事に意味を考えてしまう、という日常があるからだろう。
それをふっと忘れさせてくれるような二匹のいもり。自分自身の存在もふわっとほぐれるような感じがする。

みち。 (暴走シンドローム。)
寄りかかる勇気はなくてひとりでも人のかたちになってしまうね
これは漢字の「人」の歌。人と人が支え合う形が発展して、この文字となったという成り立ちがよく言われる。
でも、たしかにひとりでも、足を開いて立てば、この形になってしまう。そうはなるのだけど、それでいいじゃない、とはならない。
二句を「て」でつなぐのは、中途半端にだらだらと続いてしまう感じがちょっとした。

続いて、一語の中に「寄」が含まれている歌。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
人寄せのサンタクロースが路地裏でひとり猫背で煙草をふかす
「人寄せの」は言わなくても分かりそうなものだけれど、わざわざことわられている。
「人寄せ」に疲れたサンタクロースがとる、人目を避けた場所での休息だ。

砺波湊 (トナミミナト2008)
寄せ鍋に入れ忘れたるしらたきのチルドルームに凍りゆく真夜
どこの家庭でも似たようなことは、よく起きることである。
用意した材料を使うのを忘れることも、こんにゃくを間違ってチルドルームに入れてしまうことも。
それなのに、なぜか変。なんでだろう。
ここまでは、ありがちなことだけど、ふつう、凍りゆくのを見守りはしないんですよね。凍みこんにゃくになってしまう。
しかし、作中の人物はしらたきが水分を失っていくことを知りつつ放置している。
取り返しのつかないことが進行してゆくのを、止めもせず、ただ見ている作中の人物なのだ。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
常盤会寄宿舎出れば炭団坂ころがるごとく駆けしか子規は
子規は常盤会寄宿舎に一時期住んでいたことがあったようで、また、そのすぐそばに炭団坂があった。
病床の姿の印象が強い子規だが、若い頃の元気な姿を想像している。そんな時期もあったのだろう、と思えばどこかほっとするような気がするものだなあ。
名詞の連続による音の流れが、何かが元気よく、「転がるごとく駆け」てゆく錯覚を生む。

鑑賞072「緑」 [百題百日2008]

今日は鑑賞72日目。「緑」の歌です。
緑といえばまず、植物の緑を思い出すのが普通でしょうね。
しかし、植物の緑にしても、千差万別で、本当に自然の色なのだろうか、と思えるような色を持つものもあります。
そして、自然の中にはそのほかの緑もあるし、人工物の緑もあって、とても幅広い色の範囲を持っていますね。
でも、歌の中では、こんな色、と読者が特定の色を思い浮かべられなければ、たいがいの場合、駄目なんじゃないかな、と思います。

まず最初は、自然の中の、植物以外の緑の歌から。

寒竹茄子夫 (Sing Me Back Home Before I Die)
風騒ぐ瀬瀬にひそめる夜の鮎緑の暈(かさ)をまとふ月かも
鮎と月のイメージが重なり、それぞれが、より明確な像を結んで行く歌。
月の暈が緑に近い色に輝くことも、あるなあ。

あおゆき (メソトリウム)
どこまで生きていけるんだろう錆なれど緑青のほろほろと美し
自らを崩しながら生成される緑青。一度育ってしまった人間も、結局のところは…。

続いては植物の緑の歌。

みずき (空)
緑濃き山山なれば輪郭はあくまで蒼き五月雨と降る
山々の輪郭が溶けて五月雨となってゆくようなイメージ。
みずきさんの歌は幻想的で惹かれることが多いものの、てにをはが(たぶん、わざとずらされているのでは、と思うのだが)分かりにくくて、イメージが明確にならない歌が多いのだが、この歌は、なるほどなあ、と思った。

椎名時慈 (タンカデカンタ)
街路樹の緑が芽吹くスピードについていけないまだここにいる
芽ぶきからしばらくの成長のスピードはかなり早く、この頃の植物はあまりにも、エネルギッシュ。ところが、芽吹きの頃の人間といえば、まだ、冬の寒さを引きずっていて、なかなかフル稼働とはいかないのだ。
「まだここにいる」という感じは多くの人の抱く感覚じゃないかな。

カー・イーブン (ほぼ31音)
この星の記憶を思い出に変えるためにか緑化政策すすむ
「緑化政策」という言葉に、自然そのものであるかのような植物を使って自然を人工的に配置し直すこと、といったイメージが湧くからなのか、遠い未来から見下ろすような目で地球を見ているような錯覚が生まれる。

斉藤そよ (photover)
わたくしのなかの緑がめずらしくたそがれている九月土曜日
斉藤さんの、自然の動植物子心を交わしているような、歌をいくつも思い出して、より、味わい深く思える歌。
作中人物の中で、少し萎れかかった植物が見えるような感じがする。

髭彦 (雪の朝ぼくは突然歌いたくなった)
うま酒を飲めば浮かびぬ好ましき先生の名も緑川とぞ
この歌にはどこにも植物は出てこないのだが、ここで思い起こされるのは間違いなく、新緑の緑だろう。
さわやかな飲み口の酒と、清々しい先生の両方が、歌の中から立ち上がってくる。

こはく (プラシーボ)
寝たふりをするのはおやめ はみだしている新緑をていねいに剥ぐ
「はみだしている新緑」はバリアのようなものか。爪を立ててこびり付いた糊をはがすように「新緑」を剥がす作中の人物である。

岩井聡 (あと100年の道草)
万緑の島は拳と思いつつ小指でひらく君の灯台
万緑の島は拳であり、拳は「君」の存在そのもの。「小指」なので、力づくで開くのではない。そして、それを開けば厚い緑に覆われた彼女の灯台が現れる。多分、存在の核となるようなものなのだろうね。

野州 (易熱易冷~ねっしやすくさめやすく、短歌編)
葉緑素あまた食みたる朝にしてかの水兵の声音真似たる
私たちが幼かった頃には、ポパイのように強くなりたくて、菜っ葉を口いっぱいに頬張ったものだ。
他の世代の人は知らないが、少なくても私たち世代は菜っ葉を食べると時に、ポパイの声やオリーブの声を思い出す人も多いだろう。
しかし、あれから長い歳月が流れたが、私はいまだに、ホウレン草の缶詰を食べる機会には恵まれていない。
ただ、葉物野菜を「葉緑素」と表現するのはどうだろう。工夫しました、という感じの不自然さを少し感じたのだが。

続いては人口の緑の中でも植物の緑に似せられたものの歌。

流水 (流水(るすい)の短歌Caf'e)
植林のための緑の羽根のため裸にされた鶏は哀しい
たぶん、食用の鶏の廃物利用の羽根なのだろうが、それにしても、考えてみればグロテスクだ。
羽根の元となる鳥と植林される木を同時に思えばこのような光景が見えてくるのだなあ。
しかも、ご丁寧にも、羽根はけばけばしい緑に染められて、だ。
鶏を食べる人はまあ、どうせ捨てる部分だから、そんなにも罪悪感は感じなくても済みそうだが、ベジタリアンの人は、募金に協力できないのでは?

勺 禰子 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
鮮やかなペットボトルに騙されていると知りつつ飲む緑茶あり
初めて、ペットボトルのお茶をグラスに注いだ時には、その色のギャップに驚いたものだった。
だけど、現実を知ったところで、やっぱり、緑色のボトル入りの緑茶って爽快な感じがどうしてもしてしまう。
「騙されていると知りつつ飲む」人の立場で詠まれているところがこの歌の面白さじゃないかな。
人間というものについての考察が含まれている。
それにしても、味覚は視覚に左右されるところが、ほんとに大きいものだなあ。

次は信号の歌。

柚木 良 (舌のうえには答えがでてる)
緑から黄色になって赤になる繰り返していつか壊れる
物の特質はどこをピックアップするかによって、違う意味が立ち上がってくる。
「いつか壊れる」があることで、人の一生を想起させられるのだ。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
信号の緑が遠くつらなって歩道橋にも風吹き抜ける
信号の緑はいわゆる「緑の風」とは全く違う緑なのだが、風と共に言葉にされると、植物の緑をも連れてくる。

そして、電話。

やや (言の葉たち)
またひとつ昭和消えゆきさ緑の公衆電話に落ち葉ひとひら
その前には公衆電話のことを「赤電話」と呼んでいた時代があった。
赤が消え、緑が消え、いずれグレー電話も消えるのだろう。

鑑賞071「メール」 [百題百日2008]

今日の題は71番目の「メール」です。
最近では、ただメールといえば、携帯電話のあるいは、パソコンのメールのことを指すと考えてもいいようですね。
しかし、同じメールとはいえ、一日中メールをやり取りしている人と、めったに使わない人とでは、メールに対する思いはかなり違うのだろうな、と想像します。
それらのメール以外のメールといえば、「エアメール」。
そのほかには固有名詞の一部やフランス語の海の意味の言葉として使われていました。

では、鑑賞です。
最初は携帯電話やパソコンのメールの歌から。

(松下知永 (題詠ショコラ)
ありがとうネオンテトラでいてくれて長メールの人彼やめてくれて
(元)彼のことを「長メールの人」ととらえているところから、その人にはうんざりしていたのだろう、と思えるが、さっぱりとした、とも言えないようだ。
一人になってネオンテトラに話しかけている姿からは孤独感がにじむ。

帯一鐘信 (シンガー短歌ライター)
携帯のメールみるときお辞儀する指の彼方に故郷があって
携帯電話のメールを開くとき、人はみな、親指を少し折り曲げてキーを打つ。それがお辞儀する人の姿のようにも思えるのだ。
故郷にいるのはお父さん、お母さんだろうか。固定電話の受話器を握りしめながら、お辞儀をして話す人の姿が浮かび上がる。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
携帯に訃報は届き夕つ方メール通りに行く葬祭場
そういう時代なんですね。
電話で話すより、ずっと便利ではあるのだが、旧人類の様式を引きずるものたちにとっては、メールに届いた葬儀の知らせに従って行動するのは、少しそっけないような、さびしい気がする。

砺波湊 (トナミミナト2008)
ケータイをその内側から震わせて夜のはじめのメールは届く
バイブ設定されているケータイ。振動を体感することにより、受け取るメールだ。「内側から」がいい。

続いて、メール周辺の歌。

青野ことり (こ と り の ( 目 ))
あんなにも夢中なときがあったのに読まずに捨てるメールマガジン
最近はメールマガジンという伝達方法は商用以外にはあまり使われなくなってきたように思うが、違うかな。
一時の熱が冷めたあと、紙の雑誌とは違い、メルマガを捨てるのは、簡単。
しかし、その簡単な動作をしている自分に、ちょっとさびしさのようなものを感じているのだろう。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
もうすでに誰かが使っているらしいbohemeというメールアドレス
使いたいメールアドレスがもう既に誰かに使われていた、ということは 残念ではあるが、そのすでに使っている人に親近感を覚えたりしてしまう。その人と自分との共通項を考えてしまうのね。見知らぬだれかとどこかがつながっているような感覚だ。

最後はエアメールの歌から。

行方祐美 (フーガのように)
エアメールの届かぬこの頃携帯が震えるほどにシアトル近し
海外からの便りはエアメールで、という時代は過去のものになってしまった。
出されたメールは瞬時に待っている人の胸で震えるのだ。
バイブ設定の携帯電話がうまく用いられている。



鑑賞070「籍」 [百題百日2008]

今日、70番目の題は「籍」です。
漢字一字の題ですが、使える場所が限られている言葉ばかりで、難しく感じられたのではないでしょうか。
戸籍にかかわる言葉のほかには、船籍や多国籍企業、無国籍料理書籍、と言ったところでしょうか。ああ、スポーツ選手の移籍なんて言うのも、わりに目にすることが多いですね。
しかし、選んだ歌は、すべて、戸籍にかかわる言葉を読み込んだ歌でした。

それでは、鑑賞に行きます。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
親戚の戸籍謄本ふと見れば知らざる過去がいろいろとあり
戸籍には、前科は載らないが、結婚離婚、認知した子の存在は載る。
親戚といえども、そのすべてを知るわけではなく、偶然に目にした事実に、見てはいけないものを見てしまったような感じを抱いたのだろう。

梅田啓子 (今日のうた)
入籍を済ましし子の名を呟きぬイントネーションうまくつかめず
夫婦別姓を認める法改正は長らく審議されているものの、今のところ、結婚時に夫婦のいずれかが今まで名乗っていた姓を捨てることが定められている。
作中の人物の子供が捨てる側であった。長く親しんだ名は突如見知らぬ名前となり、自分の子なのに、まるで、別の人のよう。
別姓の是非にかかわりはなく、どこかさびしいものだ。

玻璃 (玻璃と水晶)
入籍後 ひとりの夜の石鹸に これが我が家の香り と気付き
新しい家族には新しい家族の香りができてゆく。
普段使う何でもないものの匂いが「家の香り」を作って行くのね。
歌の中の半角全角のスペースは不要だろう。また、歌の最後は「気づく」ときっちり言いきったほうがおさまりがいいと思う。

原田 町 (カトレア日記)
結婚を機に本籍地かえたると長子の知らせ肯いさびし
本籍が現住所から離れていると、戸籍謄本を取り寄せるのに不便だ。しかし、その本籍はその一族とかかわりの深い土地に置かれているのだろう。どこか、絆が薄れるような寂しさがある。

あおゆき (メソトリウム)
ひめみこが臣籍降嫁するがごとく秋訪えり裾広き錦
華やかであるいながらさびしさを秘めた風景。

史之春風 (はちぶんめblog)
戸籍課の和文タイプを打つ音は役場に落ちる雨垂れ ぽつん
私自身は役場に和文タイプライターがあった、という時代の記憶はないのだが、ワープロやパソコンが普及する前の公的文書は和文タイプライターで印字されていた。詳しい仕組みは知らないが、活字を取換えながら打っていたのだろう。
忘れ去られようとしている風景だ。

佐藤紀子 (encantada)
家族の名すべてに×がつけらるる除籍謄本愕然と見る
除かれた人の謄本だから、除かれていない人は逆に×で消されるのか。
初めて知った。
見たことはないけれど、ショックだろうなあ、と思う。

鑑賞069「呼吸」 [百題百日2008]

今日、69日目の題は「呼吸」です。
たぶん、息の方が使いやすいでしょうね。
息ではなく、呼吸を使う理由を考えて詠む必要があるんじゃないかな。
呼吸に「いき」とルビをふる使い方も複数見られましたが、このルビは人により、好き嫌いがあるように思います。
わたしは、歌謡曲的な感じがあって、ちょっと抵抗があります。

それでは、1首ごとの感想を。
はじめは人間の呼吸の歌から。

拓哉人形(銀鱗歌)
ラマーズ法。その呼吸にて走り抜く42.195キロ
そうなんだよな。わたしも、ラマーズ法を習った時に、これ、長距離走の時の呼吸と一緒じゃん、と思ったのだった。
その類似に着目した、ユーモラスな歌。

砺波湊 (トナミミナト2008)
ビルの上の赤いライトの点滅に呼吸のリズムをあわせて眠る
航空障害灯。暗い赤いライトが遠くでゆっくりと点滅するのを見ていると眠りに誘われそうだ。
都市の風景の中で、心癒されるような気がする数少ないもののような気がする。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
深呼吸の〈しん〉の音からまっさらな季節のはじまり吐き出されたり
深呼吸って「新」呼吸という文字が浮かぶんですよね。
何かを刷新するイメージがあるのだが、それを季節へとつなげることによって、より明確なイメージを立ち上がらせている。

天国ななお (お月様は許さない)
雑踏にまぎれ僕らのつなぐ手はキスのかわりの皮膚呼吸する
まだ、キスをしたことがない、恋人たちの歌。
彼女と触れているところに全身の神経が集中しているのだ。
人間は感覚として感知できるほど、皮膚呼吸はしていないものなのだそうだが、そんな風に感じられることは時に、ある。
「皮膚呼吸」で緊張感がイメージできる。

続いて、植物の「呼吸」。
肺呼吸とはまるで違う、気孔を通しての呼吸は神秘的に感じられる。

斉藤そよ (photover)
刈られたら刈られたあとのものとしてまたあたらしく呼吸する草
刈られたあとの草に注目したという着眼点も面白いが、「刈られたあとのものとして」という、どこか、人生観のようなものを思わせられる把握が魅力。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
真夜中の花舗のガラスをくもらせて秋くさぐさのしづかな呼吸
生きていない商品を売る商店のウインドウが、冷え冷えと透き通っている中、花屋のウィンドウのみが曇っている。
生き物の営みは温かく、そして、少し哀しい。

あおゆき (メソトリウム)
少しずつ粘度を増していく社会 呼吸根をこっそり伸ばす
根っこには、空気は要らないように思ってしまうが、そうではないらしい。
植物を植える時に土を耕すのも、空気のためのスペースを作ってやるためだとか。
それができない環境の植物の中には、呼吸根を伸ばすものもある。マングローブなどが有名だが、落羽松も呼吸根を伸ばすのだそう。生育地が粘土質の湿地だからのようだ。
呼吸根がうまく使われた歌だと思う。


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ちょっと、風邪気味です。まだ、体調を崩すところまではいっていないのですが、なんとなく、おかしい。
風邪は先手必勝なので、明日の鑑賞はお休みにします。
では、また。

鑑賞068「踊」 [百題百日2008]

今日は68日目。今日の題は「踊」です。
日本人はあまり踊らない人種じゃないんでしょうかねえ。人の言葉などに踊らされることはあっても、ダンス、というもともとの意味では。
中にはシーズンになれば、地域の踊りに夢中になる人もいるでしょうが、大部分の人は、踊りとは無縁な生活を送っているのではないでしょうか。
中にはいわゆるダンスと言うんですか、男女が組んで踊る歌がわりにあったのですが、じっさいに自分の家などで、恋人もしくは配偶者とやったことある人って、それこそかなりの少数派ではないかと思うんですが、違います? 正直、嘘くさく感じる歌が多かったです。
単語の一部にこの字が含まれる歌としては「踊り場」の歌が多かったです。でも、だいたいが、なんだか、どっかで見たような情景の歌なんですよね。月の光や陽が差し込んでいたり、あこがれの人とすれ違ったり…。歌を読んでみるまでは詠み易そう、と思っていたのですが、逆に難しかったように思います。

それでは、鑑賞です。
まずは日本の踊りから。
最近の伝統の踊り、人気ナンバーワンは「おわら風の盆」、じゃないだろうか。
結社誌を読んでいても、毎年、季節になると複数の風の盆の歌に遭遇する。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
風の盆の踊りの渦に酔いたれば暗き街並み選びて帰る
聞くところによれば、この踊りは胡弓の響きに合わせて踊られるのだとか。「風の盆」というネーミングと、胡弓の哀切な響きが祭りの影の部分を、クローズアップするのだろう。祭りの余韻を楽しむ祭りなのかもしれない。

寺田ゆたか ( “たまゆらのいのち”)
靄のなか踊りの列が消えてゆく風の盆終ふる夜明けの坂に
「風の盆」の歌をもう1首。
前の歌では作中人物の祭りの終わらせ方だったが、こちらは踊り手たちの祭りの終わり。
祭りそのものが霞の中に消えてしまいそうな感じがある。

泉 (つれづれ亭)
一年(ひととせ)に乙女さびたる子らのゐて短き夏の一夜を踊る
こちらは盆踊りの歌。
見慣れない浴衣姿のせいだろうか、子供だとばかり思っていた女の子たちが大人びて見える。
女としての花の時期を迎えている少女たち。その花の時期の短さを惜しむように感じられるのは「短き夏の一夜」という言葉の働きだろう。

続いては外国から来た踊り。

橘 みちよ (夜間飛行)
火に映えて閉ぢては開きし踊りの輪「マイムマイム」の調べにわれら
キャンプファイヤーを囲んでのフォークダンス。
中学か高校の思い出かな? 一部の人以外、あまり大人は踊らないものだと思いますが。
明るい音楽の多いフォークダンスの中で「マイムマイム」は少し影を帯びた調べの曲だ。
「閉ぢては開きし」と言う切り取り方が火との関連で、何か象徴的なものを感じる。
ところで、今の学生たちも、フォークダンスってやらされるのかしらん?

こはく (プラシーボ)
少しだけ踊りませんか踊りましょう幼なじみの軸をずらして
普段は異性として意識しない男女が、ひょんなことから、異性として立つ時間。
踊りの間だけなのか、その後もそれが続くのか。それは本人たちにも分からない。
嘘くさいといえば、嘘臭い場面なのだけれど、現実の場面と切り離されたところで詠まれた歌のように感じられ、あまり気にならない。

次に、こどもの踊りの歌。

夏実麦太朗 (麦太朗の題詠短歌)
三歳の姪に懐いてもらおうとよくわからない踊りを踊る
娘や息子は日常の流れを知っているから、まあ、そんなものかな、と思うことでも、姪や甥になると、突如異世界のルールを持って来るので、理解不能なことがままある。
しかし、そこは大人だからねえ、どうってことない顔をして彼らの要求にこたえるのだ。彼らと人間関係を作り上げるには、大人の方から歩み寄らなければね。

最後にその他の「踊」の歌を。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
螺子が切れふいに踊りがやむときの唐突さにて終わる幸せ
蓋を開ければバレリーナの姿の人形が回り出す、オルゴールだろう。昔少女のあこがれのグッズであった。
少し、テンポが遅れ出したかと思う間もなく止まるオルゴール。気持ちが取り残されたままに終わるのだ。
そんな風に終わるしあわせもあるだろう。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
フィドルにも踊らぬ仔犬を従へて辻音楽士の冬の日暮れぬ
一本でもにぎやかな音をさせるフィドル。これで、仔犬が踊ってしまえば、あまり魅力的には感じない。
楽しげな調べの中で、顎を地面にどっしりと付けて寝そべっている仔犬。辻音楽士の意のままにはならないのだ。
楽しげな音を奏でながらも、どこかさびしい辻音楽士だ。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
うつかりと水に落ちたる半眼のゐもりの尻尾ぴるぴる踊る
ゐもりは居眠りしちゃったんでしょうかね。ユーモラスな情景。
本来は踊っていないものを「踊る」と表現するのは案外難しくって、枯葉や花びらを舞ったり踊らしたりすると、たいがいは失敗する。使い古された比喩のようになってしまうからではないかと思うのだが。
しかし、この歌の「踊る」はそうとしか表現できない類の状況だろう。「ぴるぴる」のオノマトペもきいている。



鑑賞067「葱」 [百題百日2008]

今日の鑑賞は「葱」。67番目の題です。
この題に集まった歌を見ていると、意味は分かるのだけれど、で、何?と訊きたくなるような歌が多かったのが特徴的でした。
たとえば、料理をしている場面だとか、好き嫌いを詠んでいる歌があるとします。書かれている内容が分かったとして、それ以上に伝わってくるものがなければ、読者としては、ああ、そうですか、としか言いようがなくって。
なにも、大層なものが含まれている必要はないんですよ。でも、ちょっとした心の動きだとか、場の雰囲気だとか、そういうものがこちらへやって来ないことには何を読みとったらいいのか、分からないんですね。
それにしても、なぜ、「葱」の題でこういった歌がたくさん集まったのでしょうね。
でも、いい歌がとりわけ少なかった、という題でもありませんでした。

それでは、歌ごとの鑑賞に行きます。
最初は葱を刻む歌。
この場面を読んだ歌は多かったのですが、どういう訳か、掌の上で転がした、って感じの歌が目立った。
どういうことかというと、短歌的にするために、パターンを当てはめてみました、的な感じを受けたんですね。
中でもよくあったのが上句で心情をのべ、ネギを刻んで一首を成立させているって歌。
ネギを刻むってことを最後に持って来ると何となくおさまりがよくなるような、「秋の夕暮」的な常套句的な印象を受ける歌が多かった。
とはいえ、もちろん全部がそうだったわけではなく、もちろん、いい歌もあった。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
風邪ひきのわたくしのためきざまれて散り敷く葱のやさしいみどり
風の治癒を願いながら刻まれる葱の緑は、やさしい。
見ているだけで、風邪が治りそう。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
青葱をきざみゐる間に歳を取りわれは土鍋のかたへに眠る
神話的な含みを持った昔話の世界に連れて行かれる。
この歌を読んでると、時間がぐわんと淀むのが何だか見えるような気がした。

村上きわみ (北緯43度)
うちがわに保たれているあかるさを羨しみながら刻む白葱
                 ※ルビ 羨=とも
新鮮な白葱を切ると内部にとろりとした液体が詰まっており、ときに、それが光る。
明るいというだけでも心惹かれるものだが、内部にある明るさを持つものなれば、なおさら羨ましい。

葱のある風景からはこの一首。

間遠 浪 (壊れたわたしの百の欠片)
葱だけが知ってる葱の昼下り家禽は影に足を沈めて
農家の庭先だろうか。無音の、時が止まったような錯覚を覚える時刻。
家禽とするより具体的な鶏などにした方が具体的になりそうなものだが、ここは家禽だなあ、と思う。この言葉のイメージの広がりがここにはふさわしい。
合鴨なんて持ってきたら、ネギカモでギャグにになっちゃうし…。

続いては、葱から見える世界経済の歌。

佐藤紀子 (encantada)
日本に売れなくなりし中国の葱がカナダの店にならべり
内容が衝撃だった。
作者は確かカナダ在住の方だったと思うが、現地では、そんなことが起こっているんだ。
この情報社会において、無数の情報にさらされながら、しかし、それがいかに偏ったものかということを一首の中に収められている。
日本の人たちは農薬騒動で売れなくなった中国産のネギの行方を知らないし、カナダの人たちは中国産の食品に関するいくつかの事件のことは知らないのだろう。

次に、葱坊主の歌。

橘 みちよ(夜間飛行)
古き家のめぐりの干割れせる畑にばうと突つ立つてゐる葱ばうず
水不足の中、葱坊主は相も変わらず、ユーモラスな姿で突っ立っているのだ。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
木琴の音のやうなり列なして月のひかりに浮く葱ばうず
木琴のばちではなく、音のようだと言っている。少しずらした比喩がイメージを広げる。

最後は葱の仲間の歌から。

カー・イーブン (ほぼ31音)
個性では万能ねぎとの競争に勝てず難読となる浅葱
浅葱は優しすぎるからねえ。しかし、それをあたかも難読となる理由のように表現したのが面白い。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
昨日の指導について玉葱を剥くかのごとく説明をせり
普通は一枚ずつ剥くことのない玉葱を「剥くかのごとく」なのである。
なるほどと思う比喩。



鑑賞066「ひとりごと」 [百題百日2008]

鑑賞66番目。本日の題は「ひとりごと」です。
ふと、気づいたのですが、わたし、ひとりの時には独り言を言いません。意識してはいなかったのですが。
世の中では、ひとりの時に独り言を言う人と、言わない人がいるのでしょうね。
ひとりの時には言っても、人がいるところでは言わない人や、どんな場でも絶対に独り言を言わない人も、多分いるんだろうな。
どういう人がどのケースに入るのかに、法則のようなものがあるのだろうか、などと、気になりだしたら、気になる事柄ですね。

さて。「ひとりごと」を言う場面というのはどこか、心理的な屈折を抱えている場面のようで、いいなと思った歌が多くありました。
歌を読んでいるうちに、どうやら、独り言というのは、特に他者のいる場での独り言は、何かが欠けた、あるいは、故意に欠いたコミュニケーションの一形態らしい、ということが見えてきて、面白いものですね。

だいたいが「独り言」の意味で詠み込まれていましたが、「一人」+擬音の一部として詠み込まれていた歌も割合ありました。
題の言葉を分解して使う場合、無理な押し込みになることが多いのですが、この場合、わりに自然におさまっていると思うものがほとんどでした。

それでは、一首ごとの鑑賞に行きます。
まずは、独り言を発する人の歌から。

草蜉蝣 (草蜉蝣)
ゆふぐれに床に寝転び開くふみそやなそやなのひとりごと浮く
「そやなそやな」は「そうだな、そうだな」の大阪弁だと思うのだが、その語の柔らかさを生かす、音の流れのいい歌。

拓哉人形 (銀鱗歌)
ひとりごとばかりが増えて最近はノリツッコミまでこなす日常
独り言も進化するのだろうか。
単なるツッコミだとまだ、自分の思考に自然に沿っている感じがあるが、ノリツッコミとなると、自分の中で完全に役割分担ができているということ。
他者に対する希求はより大きいのだろう。

続いては誰かの独り言を聞いていたり、期待している歌。

振戸りく (夢のまた夢)
大きめのひとりごとだと思うけど何か返事をしたほうがいい?
これは明らかに相手に向けられている独り言。私の場合、家族への文句はこの形をとることが多いですね。文句の婉曲表現?
また、同意を得られないと思うような感動がこのような形をとっている場合がありますね。
いずれにせよ、反論を受けたくない、という心理が働いて「ひとりごと」という形のコミュニケーションが選ばれているような気がします。
そのようなことに気付くのは歌の中に出てくる「返事」のせい。
このように歌として切り取られると、ひとりごとの一面が見えてきて、面白い。

斉藤そよ(photover)
ひとりごとだよとひとことことわって誰かわたしにそれをおしえて
こちらは、内容よりも音の流れと、そこに流れる気分を楽しむ歌だろうと思う。

市川周 (ミルミルを飲みながら)
ひとりごと盛りの父が「タピオカ」とよぶ外人はたぶん「カブレラ」
「ひとりごと盛り」という表現は強引で、ちょっと無理があるかな、とも思うが、家族の中で孤立している父親像が浮かぶ歌。
子が成長していくにつれ、父親はひとりごとが多くなるもののようだが、たぶん、話しかけても無視される機会がどんどん増えて、その言葉が独り言へと変形していくのだろうな、というようなことを思った。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
語尾強くひとりごと言うひとがいてそののち深きしじまはきたる
この歌の中の人も、ストレートなコミュニケーションをあきらめた人だろう。反論を受け止めるのって、エネルギーが要るからねぇ。
そのような孤独感を感じてしまうから、その後の発せられたのちの「しじま」は深いのだろう。

村上きわみ (北緯43度)
ひとりごとつなげて遊ぶ三歳のうぶ毛をなでるおだやかな風
この歌の場合、独り言を言っているのは三歳児なので、上記の歌とはまるで、意味が違ってくる。
幸せな気分になる歌だが、まさしく、これこそが幼児期の独り言だって気がする。言葉の獲得過程で漏れ出てくる言葉は喜びにあふれている。
幼児期にはいろいろと《失ったものは美しい》的な幻想が入り込みがちだが、たぶん、これは本当にそうだったのだろうと思う。

次は比喩的に用いられた独り言の歌。

こすぎ (たんかんぽんかんみかん)
雷のひとりごと増え青空はさびしい人の上で佇む
まだ、空は晴れているのに届く遠い雷の音はそういえば、ひとりごとに似ている。が、そのように聞こえるのは独り言を言いたいような気分の時だろう。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
ひとりごとのやうなサティを聞いてゐた東京の夜の窓をとざして
「ひとりごとのやうな」と表現されれば、それだけでサティのピアノ曲がどこからか、聞こえてくる。
的確な比喩は幻を歌の中に呼び込むものだろう。

富田林薫 (カツオくんは永遠の小学生。)
ひとりごとのようなひとが公園のすみのベンチで昼食をとる
寂しげ、というだけではなく、行き場所のない、といったものが「ひとりごと」の中に含まれるような気がする。

最後は「一人」+擬音語の形で詠み込まれた歌。

野坂 りう (のーずのーず)
天からの授かりものの罪と罰 抱えてひとりごとん、と揺れる
罪や罰ってしんどいものなので、なかなか「授かりもの」とは思えないのだが、そのような側面もあるなあ。
大事に抱えておくべきものだと思うと、ちょっと考え方が変わりそうだ。

ゆふ (草のこゑ抄)
われひとりごとりごとごとゆれてゐる 古里行きの最終列車
つい「ひとりごとごと」とやってしまいそうだが、それだと、擬音が決まり文句のようになってしまってむしろ入れない方が、ということになるのだがこの歌では「ごとり」が挟まれていて、作中の人物の心情が伝わってくる。

青野ことり (こ と り の ( 目 ))
早朝の川のほとりはまだ眠りひとりごとんと石を転がす
早朝の気配の伝わる歌。
旅先で早起きをして、散策に出た時などに感じる気配だ。

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最近のネットといえば、ほとんどがブログという状況になって、パソコン通信時代の会議室やそれ以外のところでも掲示板が中心だった時代と大きく様変わりしていますね。
ちょっと前に、過去の掲示板を読む機会があったのですが、涙が出るほど懐かしい気分に襲われてしまいました。
掲示板、ブログ、それぞれに長所も短所もあるものですが、失ったものは確かにあるみたい。
私は現在、このブログをほぼ毎日書いているのですが、ブログを書くことって、ちょうど今日の題で取り上げた、他者の前で発するひとりごとと似ているような気がします。
以前書いていた掲示板を、ただ、ブログに移しただけなのに、掲示板時代に比べ、ずっと孤独な作業をしているような気がするのね。
掲示板は掲示板で、エネルギーを使うことはあったのですが、ブログを書き続けるには別の部分にエネルギーが必要なような気がしています。


鑑賞065「眩」 [百題百日2008]

今日は65番目の題「眩」です。
動詞だと「眩(くら)む」「眩(く)れる」「眩(くるめ)く」「眩(げん)する」「眩(ま)う」「眩(まぐ)る」。案外ありますね。かなり意味の差異の小さい言葉だと思うんですが、こんなにあるんですね。
「ところで、目が眩(ま)う」って、辞書に載っている言葉なんだ…。わたし、方言だと思っていました。
形容詞では「眩(まぶ)しい」「「眩(まばゆ)い」。
よく使われる名詞の一部としては「眩惑」「眩暈/目眩」「立ち眩み」などでしょうか。

動詞・形容詞は何も考えずに使うと、過剰な感じがすることが多いように思いました。
ピックアップした歌はみんな、くらくらする体感をともなうものばかりなんですね。

最初にとりあげるのは形容詞として詠み込まれた歌。

新井蜜 (暗黒星雲)
眩しくてすいかの種を吹き出せば下駄の向こうに飛ぶ昼下がり
下句がいい。真夏の真昼間の感じが出ていると思う。

続いて、動詞の形で詠み込まれた歌から。

岩井聡 (あと100年の道草)
何もないけど夕日ぐらい見ていけと父が眩めば子も眩む川
ひとたびは地面の途切れる川向うに、沈みゆく夕日に向かい、並び佇む父と子。父がまず眩み、続いて子が眩む。
何かを暗喩している歌。

内田かおり (深い海から)
高さより空の広さに眩みつつ五月に我の乗る観覧車
地上と観覧車のゴンドラの関係が2次元的とすれば、空の広さは3次元的。
不安感も3次元的なよりどころのなさとなる。
よく、この宇宙の中で塵にも等しい自分、という表現があるが、そういったこと感じているのだろう。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
曼珠沙華かぜにくるへる岸にたつ眩むばかり過ぎゆくものは
視覚化された思考。

ラストは名詞の一部として使われている歌から2首。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
立ち眩みこらえるような顔をして悩みをひとつ打ち明けにくる
相当苦しげな表情である。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
雨やむなやむなと唱ふ窓外の夏ゆがみゆく目眩ひのうちに
これも、体感を伴う歌。「やむなやむな」がそのような感覚を作り出している。

鑑賞064「可憐」 [百題百日2008]

本日の鑑賞は64番目の題「可憐」です。
この題も難しかったなあ。素直に使いにくい言葉というか。不用意に使えない言葉だと思います。
いかにも可憐なものを「可憐」と表現するのがためらわれるんですね。なんか、説明に近い感じになってしまう気がします。

それでは、一首ずつ鑑賞していきます。
まずは可憐な人の歌。

こはく (プラシーボ)
こきざみに揺れる睫が可憐だと思うからまた泣かせてしまう
可憐な人には意地悪したくなっちゃうし、可憐って言葉にも意地悪したくなる。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
ほほえんだ 彼の彼女の桃色の可憐なくちのかたちを真似て
「可憐な」と形容されているのは彼の彼女の口。手放しで素敵だと思っているのではなく、嫉妬だとか、複雑な感情を抱いていそう。
こんなところで使われると、この「可憐」という言葉が生きてくるように思う。

新井蜜 (暗黒星雲)
ひとりだけ可憐な花となるために金魚をすくう夏昼下がり
金魚のひらひらを持ち歩けば「可憐な花」になれるかしら。
どこかさびしげな「可憐」である。

続いて、可憐な花の歌を2首。
2首とも「可憐」にマイナスの心情が働いている歌を選んだ。

暮夜 宴 (青い蝶)
可憐だといわれることの歯がゆさに音たてて咲く真夜中の蓮
蓮の花が開くときに音を立てるという話を展開させた歌。

月原真幸 (さかむけのゆびきり。)
道端で咲いてるだけで可憐だと言われるコスモスには似たくない
コスモスって結構強いくせに「可憐」なふりをしている花だからねえ。

最後にその他の「可憐」の歌。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
隣席の英語教師がたまに言ふ可憐な発音つて何なのだらう
何なのでしょうね。何か本人だけの思い込みがある感じなんだけど、その思い込みがいかにも学校の先生って感じがある。
そして、この作中の先生は、ただ、思うだけなのね。どうやら先生同士のコミュニケーションもどうやら不足気味であるって側面も表しているのだろう。

カー・イーブン (ほぼ31音)
ギャルゲーが文学よりも好きなパパだから可憐と名づけてくれた
「可憐」って名前、それだけだと、最近の子の名前としては、わりと常識的な範囲に入るのだが。
こういうのDQNな家族っていうの? 使い方、よく分からないんだけど。
「ギャルゲー」「可憐」で検索したら、「シスタープリンセス」の登場人物がヒットした。これって、妹萌え系なのね。
美少女の名前をつけたい気持ちはわかるけど、何か近親相姦っぽい匂いもして、やばいんですけど、おとうさん。
だけど、この作中人物はその父親から付けてもらった名前、喜んでるみたいで、なかなか頭が痛くなる面白さがある。

鑑賞063「スリッパ」 [百題百日2008]

本日の鑑賞は63日目、「スリッパ」です。
とても身近なものでありながら、あまり既成のイメージがないものなので、いい歌がたくさんあるだろうな、と予想しながらみなさまの歌を読みました。
やはり、期待通り、面白い歌が多く集まりました。でも、一方では、、こういう題の時のもう一つの特徴もしっかり表われていて、よく分からない歌も多かったですが。
よく分からない歌になるにはいくつか理由があると思うのですが、そのひとつに、自分の家の常識が他ではそうだとは限らない、ということが挙げられるのではないでしょうかね。。
たとえばベランダにスリッパがある、という場面のスリッパですが、それだけでは、これは本来家の中にあるはずのものがベランダにあるのか、ベランダ用にしているスリッパか、判断がつかないんですよね。
個人的に驚いたのは、スリッパが履きなれるに従い、左右それぞれがその特徴を持ち始めるという歌がわりにあったこと。こういう風になるのはきっと、適当に脱ぎ捨てられたりせずに毎回きちっと揃えられているスリッパなんでしょうね。そのように詠んだ人は、みんなそうなるんだと思っているんじゃないかと思いますが、案外、こういうところに持主の性格が表れているようです。でも、これはそうじゃない人にも、容易に伝わりますが。

それでは、歌の鑑賞を。

船坂圭之介 (kei's anex room)
音低く引き摺るスリッパ静寂の透析室にひとときの 騒
透析には長い時間かかるということなので、受けている人たちはずっとベッドに横になっているのだろう。
変化の少ない透析室に、ひととき訪れた物音はスリッパの音。
残りの時間の深い静かさが思われる。

斉藤そよ (photover)
スリッパは揃えて行くね原っぱの仕事をいつか終える日のため
帰ってくることを約束している場面。「いつか」なので、その日がやってくるのかは分からない。
そんな決意の出発なのね。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
病院のスリッパみたいな面々がてんでに勝手なことばかり言う
病院のスリッパと旅館のスリッパとは変わらないじゃないか、といえばその通りなのだが、「病院」があるためにスリッパが話す内容が具体的となるのだ。
病院の待合室での会話をスリッパが話しているって感じの絵が浮かんで面白い。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
白い人がたたずむといふ階段でいつも片方脱げるスリッパ
階段でスリッパが脱げかける、というのはよくあることなのだが、あまり意識されないことだろう。
こんな風に、幽霊話とでも関連付けなければ。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
もうそろそろ冬をはじめていいですかキッチンに訪れるスリッパ
この家では、床が冷たい時期だけ、スリッパを履くのね。
そういう習慣のない人にも季節の訪れをうまく伝えてくれる歌。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
スリッパのおもてに張られたる布が足裏にねばみくるまでの雨
 「足裏」=「あうら」
雨の日のスリッパはそんな感じだ。
歌からは、雨の日の心の状態も伝わってくる。

夏椿 (夏椿)
それぞれの道を歩める双生児スリッパひとつこの夏に消ゆ
上句で人間のことだと思っていれば、スリッパのこと。
だけど、それでいて、やっぱり心配なのは進学・就職等の岐路に立つ人たちのことのように思える。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
日月に足の形を覚えゆくスリッパ右爪先の平たく
そんなにしっかりと足の特徴が刻まれるのね。知らなかった。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
スリッパの履き方だって気を抜けない 彼のママには気に入られたい
「彼のママ」というのが最近の女の子らしい言い方だなあ。
そんなところからも作中の人物像が明確になっている。

冬鳥 (ことのはうた)
ドアノブにそれぞれの夜映しては 孤独にすこし乱れるスリッパ
寝室の少し乱れたスリッパの歌は多かったが、同じようなパターンに陥ってしまった歌が多かった。
この歌はドアノブに映るものに注目して、恋人との関係を暗示にとどめているところが面白いと思った。

我妻俊樹 (vaccine sale)
はだかでもスリッパ履いてゆくトイレ 窓のむこうの壁はあかるい
住宅密集地で、裸にスリッパ姿の男という変な姿。のはずなのに、言われてみれば、たいがいのトイレは裸でもスリッパを履くことになる。
ある意味、発見も含まれている歌だ。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
滅菌処理済みのスリッパはきながらわたしスナフキンなみに憂鬱
このごろでは、滅菌処理済みの帯のつけられたスリッパを見かけることが多くなった。
清潔なのはいいけれど、滅菌処理済みというこの、物々しさってなんだろう。
それについてぶつぶつ言いたくなる自分にスナフキンを思い出してる作中の人物。ちょっと苦笑いしているのかも。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
左右なきスリッパに見るさびしさの私に似合う一足を買う
スリッパに左右がないことを「さびしさ」と詠まれている。
そう言われればそのような気もしてくる。
並んだスリッパのさびしさに自分の寂しさを重ねながら、スリッパを選ぶのね。

蓮池尚秋 (ハスタンカ☆ブログ)
玄関に買ったばかりのスリッパが片方なくてウクレレがある
謎が楽しい歌。
私の実家では昔、新しく買ったものがよくなくなる家だった。小人さんがいるのかな、と言っていたのだが、実は泥棒さんだった。
隣に入った泥棒さんがうちにも入ったことを自供したんだけれど、どうも、お得意さんになっていたようだ。
でも、この歌の場合、泥棒がウクレレをおいていくことはあっても、スリッパの片方だけを持っていくことは考えにくいなあ。
ホームズさんに依頼するのがいいかも。

瑞紀 (歌信風(かしんふう))
身体すら起こせぬ父のスリッパを何も言わずに持ち帰りたり
お父様の回復が望めないことを作中の人物が自ら認めた瞬間。それまでの長い葛藤があったことだろう。
感情を表す言葉を使わずに心情を伝える。

今泉洋子 (sironeko)
スリッパのすり減りぐあひわれに似る子が摺り足に近づいて来る
親子の歩き方が似ているから、スリッパのすり減り方が似てしまうのね。うまく表現されていると思う。

鑑賞062「浅」 [百題百日2008]

今日の鑑賞は「浅」62番目の題です。
浅いものは色々ありそうなのに、詠み込まれたもののバリエーションがかなり少なく感じた題でした。
浅瀬や遠浅の海、浅い眠り、浅知恵的などがほとんどで、あと、名詞の一部としては浅蜊に集中していたように思います。
自然に歌の中で使われることは多いのに、いざ、この題で詠んでみようとうすると、難しい題だったように感じました。

個々の歌の鑑賞に行きます。

まずは、浅瀬や遠浅の海の歌。4首選んだが、どれも、暗喩の含みがある感じの歌になった。
情景を描写するタイプの歌の場合、具体的な情景がありありと浮かぶ、という風にはなりにくい言葉なのかもしれない、という気がした。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
春 繊き雨やまぬ日はわたくしの浅瀬へと来る人を拒んで
句割れ、句跨りで作られたリズムが降りやまない雨のようだ。
そんな雨の日には、人が自分の浅瀬に入ってこられるのが、うっとうしい。
浅瀬で人付き合いをするためには、普段は意識していないけれど、陰鬱な日には案外エネルギーのいるものなのだ。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
浅き瀬をわたらひ過ぐる少女らの風にとぎるる遠きこゑごゑ
作中人物の少し先にいるのに、こちらから近づこうとしても、決して届かぬ場所にいる少女たち、という感じがする。
彼女らの若さはとぎれとぎれの声として届くばかりなのだ。

村上きわみ (北緯43度)
それでいてここを浅瀬と思わせるあなたの所作にときおりは倦む
いつも、不安に感じることなんて、何もないんだよ、と守ってくれるような人は普段はありがたい存在だと思うのだけれど、時にはそんな風に生きることを選ばせている「あなた」に疲れてしまう。
でも、ほんとうに倦んでいるのは、浅瀬じゃないのを知っているのに浅瀬だと思いたがる自分になのかもしれない。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
もはやきみは遠浅の海、晩秋の朝の冷たい光に耐えて
遠浅の海は沖へ沖へと歩いて行っても、どこまでも岸のすぐそばだと思ってしまう。なのに、ふと振り向いてみると岸はとてつもなく遠いところにある。
そんな時に感じる不安感を思った。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
切り捨てた別のわたしがあの春の浅みで泣いてゐるかもしれず
この歌で選ばれたのは「春の浅み」。温かさと冷たさが交差する場所である。
私は一つしかないから、何かを選択すれば何かをあきらめなければならないということも多い。
後悔はしないにしても、ふと、あの時にあの選択をしなければ、という想像をしてしまうことはある。
私が捨てたもう一人の自分を、時には抱きしめてやりたくなる。

最後は考え等の浅い歌。

市川周 (ミルミルを飲みながら)
恋人よ、腕をまくらに聞きいれば意外と浅っさいあなたの知識
あまやかな歌かと思えば途中でえらく現実的になって、くすっとしちゃう。
こんな場で気付かなくても、と思うんですがね。
このときの作中の人物は、しらっとした表情をしていたのか、そんなことを悟らせない甘い笑顔を向けていたのか、どっちなんだろうね。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
浅はかに間違うことの愉しさに気づけば浮かぶ明け方の月
「浅はかに間違うことの愉しさ」が分かるということが、大人になる上での一つの条件のような気がする。
うんと若い頃には、浅はかな間違いはものすごく怖くって、そんなことをしでかしたら全力でフォローとしようとしたのは、ありのままの自分を認められなかったからだろうな。人生もしっかり後半部に入った私の場合、ますます自分に甘くなるのが逆に問題なのだが。
夜明け近くになってもまだポコンと浮いている月が、どこかその楽しさに通じる。

鑑賞061「@」 [百題百日2008]

今日は鑑賞61日目。本日の題は「@」です。
メールアドレスに使うようになって、すっかり一般的になりましたが、その昔は単価を表す記号として、一部の人にしかなじみのないものでした。
そのころは「単価記号」と呼んでいたようですが、私は読み方は知らなかったなあ。今も正式名称は「単価記号」なんですね。
でも、今はアットマークと呼ぶのが普通。文中では「アット」が一般的かな。
ネットのイベントに参加されているわけですから、参加者の人は皆、程度の差はあれ、馴染みのある記号だということになるでしょう。

それでは、個々の歌の鑑賞です。

野州 (易熱易冷~ねっしやすくさめやすく、短歌編)
近況は@(アットマーク)ののちに書く作法のやうに思ふゆふぐれ
メールアドレスの@は自力で入力する機会は少ないので、このキーを打つ場面は、このような時が多い。
(私は最近では、あまりやらないけれど)
あんまり皆が使うので、なんだか、自分も何か添えなきゃいけないかな、と思うこともある。
そのようなちょっとした違和感が歌に表現されているのだ。
こういう一言メッセージ的な使い方って、とても日本人的な感じがするのだが、他の国の人たちもこのように自在に使っているのだろうか。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
名のあとに「@夏空」と青い字で書き添えられた葉書舞い込む
メールで一般的になった用法はその活用の場を広げているのね。
手書きの葉書に添えられた@はまた違う輝きを獲得している。

ところで、@を手書きするのは難しい。
ここでは取り上げなかったが、@を書く練習をしている歌が複数あった。
それも、やはり手書きをする機会が増えていることを表しているのだろう。

続いて、外国語での@の呼び名を用いた歌。
歌の鑑賞の前に一言だけ付け加えておくが、韓国での@=サザエ、というのは間違い。
翻訳機にかけると、どういう訳だかサザエが出てくるのが、間違いのものとでは、と思うのだけど、@=コルベンイは巻貝は巻貝でも、ツブ貝やバイ貝に似た貝のことだ。
日本でのサザエのように、韓国で代表的な巻貝という点ではあながち間違いではないが。

あおゆき (メソトリウム)
きららかにWEBに踊らむ@(アットマーク)個を中和するかたつむりたち
イタリア語やエスペラントではカタツムリと呼ばれているんだそうだ。
個に閉じこもるカタツムリたちが他と繋がる手段としての@(カタツムリ)。
「きららかに」はもう少し工夫の余地がありそう。

次に、@の形に注目して詠まれた歌。

カー・イーブン (ほぼ31音)
閉じてない殻が居心地よさそうな@を先生と呼ぶ
この、殻を持つものが、なにを指しているのか明示されていないが、カタツムリか巻貝か、そんなもの思えばいいだろう。
「閉じていない」が発見だろうと思う。
なるほど、この歌を読むと@が大先生の風格を持ち始める。

こはく (プラシーボ)
@をじょうずにほどくこいびとに貸した右手がかえってこない
言われてみれば、@は解きたくなるような形をしている。
器用なこいびとといた時には不要だった右手だったのだけれど、今は…。

はらっぱちひろ (テクテク)
挟まれた@は塞げない耳の形のようだ聞こえる?
「挟まれた」がメールアドレスの様子を具体的に思い出させるうえに、「塞げない」場面をより明確にしている。

虫 (次郎)
大の字で寝るのが好きだ いつだってお腹の@を出して   (@:アットマーク)
おへその形が視覚でストレートに目に飛び込んでくるのが面白い。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
あかつきの皿に載せたるいちまいの耳たぶに似て@(アット)冴えたり
ヨカナンの首のように皿に載せられた耳たぶ。そのようなものとして、モニターの中の@は冷え冷えとして輝く。



鑑賞060「郎」 [百題百日2008]

こんにちは。
今日の鑑賞は60番目「郎」です。
現代では、この一字で使うということは、まずないんじゃないかなあ。
多くは人名の一部に、また、「新郎」「女郎」などの普通名詞の形で、また、花、虫、菓子の名の一部などに使われていたようです。
こういう題の時には、いろいろとことばの候補を考えて、その中で自分に合うものを選ぶのが詠みやすい方法でしょうね。
あえて、難しそうな単語を選んで、自ら苦労するという楽しみ方もありますが。

それでは歌ごとの感想に行きます。
まずは、普通名詞に近い意味を持つ人名の歌から。

ちりピ (ちりちりピピピ)
とりあえず太郎と呼んでるさぼてんに花が咲いても私はひとり
犬ならポチ、猫ならタマ、人間ならば太郎だ。本来は名前をあまり付けないものにこれらの名をつけているという話はよく聞く。
私は基本的にはポチ派だが、サボテンは太郎が似合うなあ。
植物や無機物に名前をつける人は昔に比べて格段に多くなっているように思うのだが、どうだろう。
名前を持つものとのかかわりが薄くなった現代では、せめて、自分の周りの動かないものに名前を付けて親しむのだろう。
現代人の孤独がそこから見えてくる。
名付けることから孤独は見えているので、五句の「私はひとり」は。少し言いすぎの感もあるかも。

小椋庵月 (みのたけのしぃの実)
兄一郎弟二郎のまんなかで数に入らぬ長女は秋子
最近では生まれてくる子が女の子がいいと願う親の方が多いようだが、以前は女の子は「数に入らぬ」ものだった。
名前のルールの適用外、ということだけではなく、あらゆるところで「数に入らな」かった秋子さんは一昔前の女性の典型だろう。

続いて、童話アニメなどの中の想像上の人物の歌。

原田 町 (カトレア日記)
桃太郎金太郎いや物ぐさの太郎にすぎぬわれの二人子
うちのは「三年こえてまだ寝太郎」だな。
まあ、桃太郎や金太郎になられるのも、また、心配ですが。
「うちの子は桃太郎(だとか金太郎)」だと思い込んでいる親はもっと心配か。
一般的な親の心はこの歌のようなものだろう。

泉 (つれづれ亭)
桃太郎より赤鬼が好きといふ淋しがりやの君を見つけし
この歌は「見つけし」が面白い。
「淋しがりやの君」は自分の身近な人なのだろうが、童話の登場人物の話をしたあとの「見つけし」なので、絵本の中にいるかのように感じられるのだ。

拓哉人形 (銀鱗歌)
「おぃ鬼太郎っ」の「ろぅっ」の部分が好きでした。顔も覚えてないあの人の
この歌は似顔絵に似ているな、と思った。
似顔絵を書くコツはその人物の特徴を見つけ出し、その部分をデフォルメすることだそうだが、この歌の鬼太郎のお父さんの声もそのように切り取られている。
ただ鬼太郎のお父さんの声、と言われればぼんやりとしか思い出せない声も、この歌を読むと即時にあの声が蘇るのだ。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
ブチきれた太郎を教師が抱き抱へやがて眠らす午後の雪の日
学校での非常にリアルな場面である。
この「太郎」は「眠らす」「雪」とともに使われているので、一般名詞的な太郎ではなく、詩の登場人物ととれるだろう。
この、三次達治の歌の本歌取り的な歌は多かったのだが、いいなと思ったのはこの歌のみだった。
「ブチ切れた太郎」がやがて寝入った静けさが、詩の世界を登場させることで、より際立つのである。

最後に、普通名詞や動植物の名の一部として使われている歌。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
新郎が誓いの言葉を述べるとき雨脚がまた勢いを増す
新郎の誓いの言葉をかき消すような、もっと言えばうやむやにしてしまうような雨音。
ありがちな場面ではあるが、暗喩が含まれているのではないかと考えたくなるようなシーンだ。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
女郎花泡立つ午後を笑わなくなった姉から離れて歩く
女郎花が「泡立つ午後」というのがいい。女郎花の特徴をつかみつつ、イメージが鮮明になる部分だ。
女郎花の歌も複数あったが、多くの歌はほかの花で置き換えられるような歌、という印象を持った。
題詠の題の場合、他でもないこのもの(この場合は女郎花)でなければならないか、というチェックが甘くなりがちな傾向があるようなので、注意する必要があると思う。

鑑賞059「ごはん」 [百題百日2008]

あけましておめでとうございます。
どうぞ、本年も引き続き、よろしくお願いいたします。

題詠Blogの会場は、2009年の会場がオープンしています。
今年は投稿期間が2月1日~11月30日と、変更になっています。
また、1月15日まで、題の募集をされています。くわしくはリンク先をご覧ください♪


それでは、今年最初の鑑賞。「ごはん」。59番目の題です。
一語で「ごはん」といえば、一般的には、食事のことでもあるし、米を炊いたもののことでもある、「御飯」ですが、平仮名になると、ぐんと柔らかく温かい感じがします。
ご飯が身近じゃない人はまず、いないので、詠みやすい題だったのではないでしょうか。

まずは、米の「ごはん」の歌から。
日本人にとっては特別な思いのある食べ物だけに、いろんな場面でいろいろなことが思われるようだ。

梅田啓子 (今日のうた)
一合の米研ぐ指のたよりなさ硬めのごはんに柚味噌のせる
米を炊くにはまず、研ぐことから始めるのだが、研ぐという動作がしっくり行くには最低限二合程度の米がいるのでは、と思う。
それ以下の分量では、手の動きがそぐわないというか、空をつかむような感じになってしまう。
しかし、この頼りなさを感じるのは、過去にもっと多くの米を研いでいた、という経験があるからなのではないか、という気がする。
大家族から離れて一人暮らしを始めた、だとか、子供たちの成長で、家族が減った、などと、いろいろなケースが考えられるが、ともかく、家族が減った寂しさが底にある歌だと思う。

村木美月 (うたりずむ)
炊きたての白きごはんの温もりにどっぷりつかっていたい月曜
出社拒否症? 大多数の日本人にとっては、日本人はスープのぬくもりではだめなんだろうな。

斉藤そよ (photover)
まちがいがあったとやっと気づいてる ごはんが炊けるにおいのなかで
「ごはんが炊けるにおい」は安心感をもたらすもののような気がする。
作中の人物は、その匂いの中でようやく平常心を取り戻したのだろう。

青野ことり (こ と り の ( 目 ))
もうこれで大丈夫だとねむりゆく ごはんが炊けるまでのつかのま
ごはんの匂いの歌をもう一首。
安心感は眠りを誘いもするのね。

お気楽堂 (楽歌三昧)
炊飯器ひとつで変わる運もあるごはんが美味いというしあわせ
うちの炊飯器もあたりで、どんな米でも美味しく炊けるのね。確かに「炊飯器で変わる運もある」と思う。
「運」という言葉を持ってきたところがこの歌の面白さなのだと思う。
うちの場合、米のランクをどんどん落としても、おいしく食べられるものだから、最低ランクの値段の米にまで手を出していた。
割れた米粒がたくさん混じっていたけれど、それでも、結構おいしいし。ラッキー、と思っていたら、この夏の事故米の報道…。
幸いにもリストにある米ではなかったけれど、うちの場合はこの歌とは別の意味で炊飯器によって変わった運だったと思う。

つづいて、混ぜご飯、炊き込みご飯の歌。
それぞれのごはんはそれぞれのごはんのイメージがある。

村上きわみ (北緯43度)
秋弛む夕べはきはき炊きあがる豆ごはんとはつよい食べ物
                 ※ルビ 弛=たゆ
「はきはき」はなるほどである。失敗して炊きすぎると根性無しになってしまうのだが。
そして、そのごはんを「強い食べ物」と把握するところにも感心した。そうなんだよなあ。

岡本雅哉 (なまじっか…)
モーニングコーヒーよりもキミとなら卵ごはんだそれも二杯だ
気取らない間柄。そして、パワーが出そうな朝ごはんだ。
こういう人といられる幸せ、というものが感じられる。

水野加奈 (水の中)
ぶつかってすぐ駆けてゆく幼子は卵ごはんのにおいをさせて
小さな子はまだ、人間になりきってないのか、卵ごはんの匂いや、鳥の羽根の匂いがする。
この歌は、初句二句の具体的な場面が、勢いのある言葉のリズムで描写されていて、臨場感が非常にある。

次に、米のごはんの周辺の歌。

暮夜 宴 (青い蝶)
お祭りの金魚をごはん茶碗にて飼えば淋しきあぶくがひとつ
金魚すくいで得た金魚だろうか。飼う準備もなく持ち帰ったものだから、手持ちの器にしばらくは飼うこととなる。
だが、歌としては、その辺にある器なら何でもいい訳ではなく、ここはやはり「ごはん茶碗」だから味があるのだ。
たとえばこれを「ステンレスボール」と置き換えてみると、下句の抒情的な部分がかなりそがれる。

砺波湊 (トナミミナト2008)
ぬばたまのごはんですよを飯粒の上に伸ばせばはじまる朝餉
これはもう、初句の「ぬばたまの」が効果的。
ずどんと暗い「ぬばたまの」が歌の展開につれ、どんどん明るいところへ引っ張り出され、でも、やっぱりどんよりとしたものを最後までひきずっていて、非常に奇妙な味がある。

続いては、食事=ごはんの歌。

市川周 (ミルミルを飲みながら)
ごはんだけ食べるばかりでなにもせぬオバケと暮らす。旅にはでない。
こんな同居人との距離感、好きだな、と思ってあこがれようと、ふとわが身を振り返ってみたら、この作中人物って、わたし生活と、そう違わないかも。
なにもせぬ、ってこともなくって、何より、私は夫の稼ぎで暮らしているんだけれど、なんだか、このおばけって、うちの家族と似ている。そうか、我が家の同居人たちはオバケだったのか。
というのは、非常に私にひきつけた上での詠みで、この歌のオバケはそのまま、オバケだと読み、奇妙な同居人との共同生活を思い浮かべるのが自然だとは思うのだけど。

藤野唯 (Sugarmint)
鍋の火を止めると雨の音がした おかえりなさい、ごはんできてるよ
ちょうど、火を止めたときに扉が開いて、雨の音がしたんでしょうね。
二人暮しの幸福感が感情を表す言葉を排除することにより、自然に伝えることに成功していると思う。
やはり、「ごはん」は偉大だ。

瑞紀 (歌信風(かしんふう))
ごはんよと声透りたりゲーテッド・コミュニティーなる安全のなか
こちらの歌は前の歌とは反対に、「ごはんよ」の幸せそうな声を「ゲーテッド・コミュニティー」という、特殊な場に響かせ、その幸福に疑問を抱かせる歌。
名前からして重々しい「ゲーテッド・コミュニティー」だが、検索してみると、名前のイメージ通りのものだった。
ウィキペディアによると、「ゲーテッドコミュニティ(Gated community)とは、ゲートや塀を設けるなどして住民以外の敷地内への出入りを制限することで通過交通の流入を防ぎ、また防犯性を向上させた住宅地を指す。」とあった。

矢島かずのり (蟲短歌)
だれだっていいからかまってほしい日は猫にごはんをあげないでいる
猫がかわいそうだ、ということは分かっていながらも、そうせざるを得ない作中の人物。
他者とのかかわりは、正しいことがすべてではないのだ。

最後は単語の一部に「ごはん」が含まれている歌から。

あおゆき (メソトリウム)
吸い取ったどうごはんぷくこんなことあんなことして造語反復
このタイプの歌は歌の中に取り入れるだけで精いっぱい、といった感じの歌で終わりがちなのだが、この歌の場合、平仮名表記も無理やりではなく、必然的だし、うまくいっている歌だと思った。


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