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鑑賞058「帽」 [百題百日2008]

今年も、ついに、あと数時間。2008年はみなさまにとっては、どのような年だったでしょうか。
私は、可もなく不可もなく、ってとこでしょうか。実質的には、こういう一年が一番のような気がしています。

それでは、今年最後の鑑賞です。58番目の題は「帽」。これは、いい歌が集まりましたね。
帽子の歌が多かったのですが、いろんな帽子があり、いろんな場面がありました。
とくに、場面を鮮やかに切り取った、といった感じのいい歌が多かったように思います。
それでは、鑑賞です。
まずは、どんな帽子かは書かれていない帽子の歌から。

野良ゆうき (野良犬的)
飛ばされた帽子がなんだか元気よく僕から離れていくんだこれが
キャップではなく、ハットだろう、ということは分かるが帽子の形状はあまり分からない。
しかし、飛んで行く様子が鮮やか。
帽子が飛んで行く時って、そう、「なんだか元気よく」飛んでいくのね。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
地下道をまた歩き出すバイオリン弾きの帽子に小銭を投げて
昔は、こういう場面は外国のものと決まっていたが、最近では、日本でもよく見かけるようになった光景だ。
技術という程の事もない、何でもない事なんだけれど、倒置が作中人物の動きにリズムを与えている。

(題詠100首blog-あいっちのうたあそび。)
トンネルの出口は風の吹くところきみは帽子を軽くおさえる
上句は言われてみれば、その通りの場所。
この、場所を限定したことで、歌が生きたものになっている。

続いて、色のある帽子。色が持つ性格のせいか、暗喩の色合いを持つ歌が集中した。、

虫 (次郎)
ガムテープで口を塞いだポストには赤い帽子が詰まっているの
赤いポストの中には赤い帽子がぎゅうぎゅうに詰められて、しかも、口を塞がれている。
何なんだろうね。よくは分からないが、爆発寸前の作中話者である。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
哀しみのかたちをたもち過ぎゆけり紺の帽子をかむらぬ人は
「紺の帽子をかむらぬ」と言われているのだが、紺の帽子をかぶることが当然と思われるような場面は思いつかない。
しかし、黒に近い場面で使われる色、と言うことはできるだろう。例えば、身内ではないが非常に近い人の葬儀、などが思われる。

お気楽堂 (楽歌三昧)
わが馬券阻む本命猛然と白い帽子を泥で汚して
競馬の歌。競馬はよく知らないのだが、「白い帽子」はジョッキーのかぶる帽子かな。
臨場感のある場面だが、「わが馬券阻む」と話者の立場がはっきりしていることが、より効果的に働いている。

月原真幸 (さかむけのゆびきり。)
簡単に紅白帽を裏返すように変わっていく敵味方
すっかり忘れていた、紅白帽の使い方だ。この比喩が、いいなあ。

次は麦藁帽子の歌。麦藁帽子を詠んだ歌はかなり多かったのだが、帽子のリボンをどうたらだとか、花をどうたら、という歌が多かった。
これはもう、繰り返し使われてきた場面で、自分の経験というよりも、麦藁帽子といえばまず思い出すようなお決まりのパターンのような気がする。
しかし、身近なものなので、よくよく観察していれば、自分なりの抒情などを伝えうる場面に遭遇することも多いだろう。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
自転車の麦わら帽が通り過ぎ庭の緑が風に揺れおり
初句二句が簡潔ながらも、よく場面を伝える。
さわやかな光景だ。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
麦藁の帽子のつばに触れながらひとつ秘密があるのだと言う
作中の人物の心理が動作によって示されている、という場面。

今泉洋子 (sironeko)
母と子の麦わら帽子干されあり夏の思ひ出語り合ふごと
大小の麦わら帽が、まず、思い浮かび、そして、母と幼い娘が首をわずかに相手に向けている図が思い浮かぶ。
母と子の夏をしまう儀式だ。

続いては、夏帽子と冬帽子の歌。
最近では、夏帽子という言葉はあまり使わないのではないだろうか。その、ちょっとレトロな響きが生きている歌が多かった。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
予防線だつたのでせう夏帽子まぶしい人に囚はれぬやう
帽子を目深にかぶっている作中の人物が想像できる。
「だつたのでせう」と、断定しない語り口が、いい。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
きょうからは夏帽子だね はねている熊の毛先もレモン色です
やすたけさんの50番台の歌はどうも、すべて熊を絡めて詠んでいるようだ。
これは、難しかったんじゃないかなあ。マイルールを定めてハードルを高くすることで、よりよい歌になるということも多いが、この縛りは、どうだったんでしょうねえ。
「きょうからは」とあるので、この夏帽子は園児の制帽ではないかな。幼稚園児の熊という、ファンタジーの設定のようだ。
しかし、毛先の色が優しく、また、向けられている愛情がやさしくて、ほんものの人間の園児に対する思いを強く感じる。

村上きわみ (北緯43度)
つつがなくふるびてゆこう夏帽に秋津しずかにとまらせたまま
少しでも動けば飛び立っていくのがトンボの習性。かすかな動きも封じ込めて「ふるびてゆこう」とする作中の人物ということになろうか。
ときには小さな心の揺れが疎ましいこともあり、このまま、ブロンズの像のように時間をやり過ごしたい、と思うこともある。

寒竹茄子夫 (Sing Me Back Home Before I Die)
冬帽を深くかむりて枳殻(からたち)の樹下もとほれば馬の香すらむ
世間では、冬帽は夏帽以上に忘れ去られようとしているものだろう。個人的には歳時記の言葉って感じがする。
枳殻は香りのいい実をつけるが、柚子や酢橘と違って、苦くて食用にはむかないものらしい。(酒にはなるらしいし、薬用として使われることもあるらしいが)秋に実った実は誰もとる人がなく、そのまま落ちて腐っているのだろうか。

野球帽の歌、というのもあった。

本田鈴雨 (鈴雨日記) キャッチャーのサインに首を振る工藤 帽子のつばを汗は滴る
わたし、野球はほとんど見ないのだが、この場面は何故だか知っている。
緊張感のある場面だが、歌自体に臨場感がある。

最後に帽子以外の「帽」の歌を。

あおゆき (メソトリウム)
石の都をゆく人々の衣の下僧帽筋に潜む絶望
筋肉に絶望が潜むとしたら、僧帽筋しかあるまい。ヨーロッパの石の建物に挟まれ、石の歩道を俯いて歩く人々が絵のようである。

ワンコ山田(歩道を走る自転車のこども)
早口で世界平和をささやいた黄帽子インコに呼び止められて
黄帽子インコは本物のインコなのか、比喩なのか。いずれにせよ、街角の宗教団体の勧誘が思われる場面だ。

花夢 (花夢)
かるいから飛ぶ綿帽子 だいすきよ だいすきよ って簡単に言う
簡単に言えるのは綿帽子が軽いから。この歌の場合、「簡単に言う」の何気なさがいいのだと思う。
この状況を歌にするとき、「今だったら簡単に言える」だとか「簡単に言おう」とか、自分の感情を使えることに一生懸命です、って感じになりやすいのだが、そこはさらっと詠んだ方が逆に思いは伝わる。

~~~~~~~
本年の鑑賞は、ここまで。
みなさま、どうぞ、よいお年をお迎えください。
正月三が日は鑑賞もお休みします。
4日に再開いたしますので、どうぞ、よろしくお願いいたします。



鑑賞057「パジャマ」 [百題百日2008]

57番目の感想、今日の題は「パジャマ」です。
この題もバラエティに富んだ歌が集まりました。
みなさまの歌を読んでいると、昨今のパジャマ事情が分かるような気がしました。
まず、パジャマを着る人自体、かなり減っているらしい、ということ、また、一昔前の、前ボタンのパジャマは少なくなっていて、だいたいが、トレーニングウエアタイプのパジャマを着用しているって感じ。
コンビニにパジャマで行く歌も複数ありましたが、これも、こういうタイプのパジャマだからできるんでしょうね。前ボタンの綿パジャマだと、さすがに抵抗がありそう。
だけど、ピックアップした歌の多くは昔式のパジャマのもの。いかにもパジャマってイメージの方が歌になりやすいのかなあ。まあ、想起されるイメージ量が圧倒的に多い、っていうことがあるからかなあ、と思うのだけど。

では、一首ごとの鑑賞を。

梅田啓子(今日のうた)
フリースのパジャマを着れば雪の野を跳ねゆくわれは五十路の兎
若い人は幼いころからフリースを着慣れているだろうが、「五十路」となれば、みな、鮮明なフリース体験を持っていることだろうと思う。私の場合、軽くて、軟らかくって、温かくって、この着心地の良さは何だろう、と感動したものだった。
ウサギになった気分になれるのはもしかして、その驚きを持っているからかもしれない。ある意味、幸せなことである。

野良ゆうき (野良犬的)
世界中僕のパジャマを用意して待っている人だらけでも困る
そ、それは困るだろうね…。
誰がどう見たって杞憂と思われることを歌にした面白さ。

野州(易熱易冷~ねっしやすくさめやすく、短歌編)
春の夜のパジャマのやうな服を着てぶてぃっくなどもひやかしゆかむ
このパジャマは昔風のパジャマだろう。袖口や足首のあたりが春風に揺れている感じ。
実際にこういう人に遭遇すれば、ちょっと引きますけど。
どこがどうって言うのか分からないのだが、斎藤史の『魚歌』の歌などを思い出した。
流れる気分が似ているのかなあ。
たとえば、「白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう」こんな歌。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
なほ骨は麻のパジャマのうちにあり融けゆくさなぎの夢には遠し
麻の質感からさなぎの殻へと続く連想。
哺乳類としての限界内にいる私たちだ。

ジテンふみお (雲のない日は)
暗闇で外せますよう大きめのボタンのパジャマお揃いで買う
女も男も、時には下心たっぷりの買い物をする。だけど「お揃い」は下心ではない部分。そのバランスが心地よい。
ふと、ボタンに蛍光塗料を塗っておけば?と思ったのだが、余計なお世話だろうか…。

睡蓮。 (睡蓮。の隠れ家ブログ)
これ以上子供のままでいられないピーターパンがパジャマを脱いだ
ディズニー映画では、ウェンディはずっとネグリジェ姿だが、ピーターパンはじつは、ロビンフッド風の服装をしていますね。このことがあるせいなのか、最初はピーターパンのアニメ顔が浮かぶのだが、「パジャマを脱いだ」で、突如、人間の姿になるような感覚を受ける。サンタクロースが扮装を解くと、実は人殺しだったとか(B級映画だな)そんな感じ。

駒沢直 (題詠blog参加用。)
ほんとうはパジャマ着るひとが好きなのに 君もやっぱりTシャツで寝る
女のロマン? やっぱり、青系の縦縞の前ボタンのパジャマかしらね。
けど、「君も」とあるから、恋人らしい相手でしょう? 配偶者ならばそう抵抗はないのだけど、恋人がほんとうに、抽斗から、きれいに畳まれたパジャマを出してきたり、彼女の家や旅先に、パジャマ持参って、かなりひきますけどね。
あれ? パジャマって子供と既婚者の物って感じがあるのかな?

寒竹茄子夫 (Sing Me Back Home Before I Die)
温もりとはつかな死とをもて寝ねむパジャマの青き格子縞撚(よ)れ
格子柄が鉄格子を思わす。体の動きにつれて撚れて、どこまでも付いてくる格子だ。

木下奏 (ブログ・キ・カーデ - 木下奏 blog)
パジャマある?慌てて探してモトカレが置いていった服イマカレに着せ
歌は、まだまだ推敲の余地が大いにあるが、場面の面白い歌。
パジャマあるって、聞く方も聞く方だが、出す方も出す方って感じね。
着せるところまで、言ってしまわなかった方がよかったかも。たぶん、そこで、考え込んじゃったって状況だろうしね。



鑑賞056「悩」 [百題百日2008]

今年も残りわずかになりましたが、がんばって、感想を続けます。
今日の題は「悩」。この題も、悩まれた人が多いのではないでしょうか。
ピックアップした歌の数はそう少なくはないのですが、面白さを感じることの少ない題でした。
特に、日常の場面を切り取って歌にするタイプの人には案外難しかったのではないか、という気がしています。
「悩む」と言ってしまえば、言いすぎとなるケースが多いように思いますし、「悩ましい」は少し具体性に欠ける言葉のように思いますし。
その上、この字を含む単語も、重たくて使いづらいものが多いんですよね。苦悩・煩悩…。

それでは、鑑賞です。
まずは、悩んでいる他者の歌。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
触れてくる指がかすかに悩むのがわかる 真夏の葉陰ゆらいで
こういう場面でよく使われる「ためらう」とは微妙に違う「悩む」。それも、相手に直接悩ませないで、指に悩ませている。
「ためらう」よりもより鮮明な指の動きが感じられる。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
時々はよい子の悩み相談のような気持ちであなたを抱いた
これは「よい子の悩み相談」なんて、すっとぼけたものをうまく使った歌。
子供の世界を思わせておいて、作中の人物は大人の立場に立っている。男を子供のようにあやしながら。

近藤かすみ (気まぐれ徒然かすみ草)
あれこれと悩むゆふぐれ爪先が隣りのゆびさき苛めて止まず
これは自分が悩む歌。言葉の重さが独り歩きしてしまって、なかなか読みにくいパターンだったと思う。
この歌は、悩んでいることをくだくだ言わず、二句までですっぱりと止め、悩んでいる状態を丁寧に描写したのがよかったのではないか。

続いて、物が悩んだり悩まなかったりする歌。
人に使いにくい動詞は物に使うとあんがい使いやすい場合もある。
だいたいは、物を擬人化することになるわけで、それにより、それを見ている人の心理を類推させることになるといった風に詠まれることが多いように思う。
実は、私もこのパターンで詠んだ。意識してこのように詠もうと思ったわけではないけれど、(私の場合)困った場合の逃げ道として使っているような気もしてきて、反省。手軽に使いすぎているかも。

こはく (プラシーボ)
悩みなどない顔をしてずぶぬれの遮断機 きみも泣いているのか
ずぶぬれの遮断機に注目したのがいい。「きみも~」は言いすぎの感も少しあり。

さかいたつろう (流星文庫)
風車にも悩みはあるさ 回らない日だってやることいっぱいあるし
作中話者=風車、と思えるからこそ面白い歌。
目立つところだけが仕事という訳ではない。

次は、「悩」の語の意味を考えている歌を2首。

髭彦 (雪の朝ぼくは突然歌いたくなった)
悩むのも<心>にあらず<脳>なりと生徒ら知りて<脳む>と書くや
ありがちな誤字に案外と真理が含まれているのかも、と考えている歌。
生徒は悩まず、先生が悩んでいる、という面白さもある。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
楽悩は苦悩の対義語 新妻は晩のおかずをDSに聞
「楽悩」は作者の造語だろうと思うが、下句が表す気分はこれだな、となんとなく納得。
パソコンレシピ検索するより、一段とお手軽な感じ。なにせ、もとがゲーム機だものね。
テレビのCMで見たけど(韓国の、だったような気がするが)何とも、時代を表す光景だと思う。
ところで、歌とは関係のない疑問が一つ。この商品、料理をしながら、機械を操作するわけでしょう?
水の多いところで、しかも、手を濡らしながらの作業でしょう? 壊れたりしないのかしらん?


感想055「乾燥」 [百題百日2008]

今日の感想。55日目の題は「乾燥」でした。
これは、いいな、と思う歌の多い題でした。こんな日は、一段と楽しい。
ピックアップした歌は多くはなかったのですが、もう一息、もう一工夫、といった歌はとても多かったです。
題によって、借り物ではない、自分の言葉で詠まれた歌が多く集まる題があって、これも、そういう題の一つだったと思います。
その中で、これは常套的な表現だな、と思ったのは心の乾燥を詠んだ歌。心の様子を表す比喩になるわけですから、ここに乾燥を持って来ると、おなじみの比喩表現、ということになってしまいます。
そして、予想外に多いな、と思ったのは「乾燥機」の歌。今、乾燥機の普及率はどれぐらいなんでしょうね。そう思ったのも、同じ乾燥機の歌といっても、そこからの発想が、それぞれユニークで、もはや、身近な道具となっている、といった印象を受けたからなのです。

此花壱悟 (此花帖)
町内の乾燥機から春便りメタ・フローラルの熱風が吹く
洗剤や、柔軟剤の香りだろう。「メタ・フローラル」という表現が面白い。なるほどって感じがする。

穴井苑子 (猫のように純情)
乾燥機の中でふわふわまわってます あんまり夢のないものたちが
下句にいたく共感。
うちには乾燥機はないけれど、あれば、やはりこんな感じになるだろう。
一般人の洗濯物に夢があったら、それはそれで、コワイかもしれない。

西原まこと (羽根があること)
真夜中の乾燥機ほどけんめいに働くなんてわたしできない
たまに、家庭用電化製品って、けなげだな、とおもう。うちの場合、一番けなげだと思うのは食器洗い機だな。
だが、常識的なところから言えば「けんめいに働く」ことを機械と比較するなんて、へんてこなことなわけで、常識の外かから出たこの比較が面白い。

夏実麦太朗 (麦太朗の題詠短歌)
何物かが乾燥し切ったコップ有り男やもめの先輩の家
具体的な物の状態から、先輩の暮らしの侘しさが伝わる。
(私の家でもしばしば同じ状態のものが発見されるのは、秘密です)

南 葦太 (「謙虚」という字を書けぬほど)
乾燥と飢餓と怠惰と利便性 丼に棲む混沌に湯を
カップ麺の中でもカップというより丼、といった商品があるので、そういう物の歌だろう。
そんな中にも存在する小宇宙。

砺波湊 (トナミミナト2008)
さまざまな言葉を聞いたその夜は鼓膜を自然乾燥させる
そうか。鼓膜は言葉に濡れていたのか。
様々な言葉に疲れた日にはある種の回復作業を無意識に行っているものだが、「自然乾燥」というのはなるほどと思う比喩だ。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
乾燥は思惟を明晰たらしめてオリーブの香にけむる希臘
哲学はその風土により作られるといわれ、ギリシア哲学はその乾燥性の気候が作ったといわれる。その乾燥気候を好むオリーブはギリシアのもう一つの美果。嗅覚から立ち上がるギリシアの歌である。

水野加奈 (水の中)
せんべいの乾燥剤が菜園に撒かれて白く湿っておりぬ
酸性度の高い土には石灰を撒いて中和する。その石灰は乾燥剤にも使われている。わりに大型の袋入りの乾燥剤は石灰のことが多い。それを、家庭菜園に再利用したのだろう。撒かれてしばらくすると、しっとり湿る石灰の粉。どのような菜園かが想像できる。


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気がつけば、世間は、すっかり年の瀬。
別に、大掃除をするわけでも、おせちを作るわけでもないのですが、なにかとせわしなく、明日は、一日お休みします。

感想054「笛」 [百題百日2008]

今日は「笛」。54番目の題です。
楽器としての笛から、ホイッスルまで、いろんな笛の歌がありました。
これも、バラエティに富んだ笛の歌に出会えた反面、よく分からない歌も多かった、といったタイプの題だったようです。

今日の感想は笛の種類別に。

富田林薫 (カツオくんは永遠の小学生。)
いや、我が国もびみょ~な立場 (;一_一) とりあえず鼓笛隊なら派遣できます
鼓笛隊は幼稚園児の出し物の定番といってもいいような行事じゃないかな。
親、あるいは祖父母の立場で、可愛いなあ、と言う感じの歌が多かった。親しい人であれば、ああ、この子がもう、こんなに大きくなったのね、とか、感慨もあるのでしょうが、全くの他人からすれば、ああ、そうですか、としか言えない歌が多くって。可愛いだろうな、とは思うのですが。読者がその場をありありと想像できるぐらいの具体性が欲しいところだと思った。
この歌は、鼓笛隊が子供がやるものであるってところを利用して詠まれた歌。もちろん、軍隊の派遣に関する歌で、顔文字入りで、面白おかしく詠まれているが、そのような風刺の方法もある。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
踏んづけたヒヨコの悲鳴を撒き散らすよちよち歩きの笛の鳴る靴
笛つきの靴。私にはなぜ、存在しているのかよく分からない商品の一つだ。
「踏んづけたヒヨコの悲鳴」って、まったくもって、その通りの音で、あんな音を連れて歩くと思うだけでぞっとするのだが。しかし、人の感じ方はそれぞれなので、そういう商品があるのだろう。あんがい、他者は自分と同じようには感じないということを思い知るいい機会かもしれない。

続いて、口笛の歌二首。
最近は口笛を吹けない人も多いと聞く。特殊技能になりつつあるのだろうか。

岩井聡 (あと100年の道草)
〈海へ行く〉 と一行だけのWebリンクはるかな方が口笛は良い
「はるかな方が」は多少無理があるかな、と思うが、Webリンクをクリックするときに漠然と感じていたことが下句で、感覚的に明らかになったような感じを受けた。理屈でわかる、て言うことではないのだが。

坂口竜太 (さんじゅういち×えぬ)
幽霊がでるトンネルに口笛でロックンロールを響かせて 空
場面が面白い。ただ、私には「空」がよく分からなかったのですが。


寺田ゆたか ( “たまゆらのいのち”)
背を伸ばし山車の上に立つ乙女子の笛の音冴ゆるふるさとの夏
祭囃子の笛。祭りの歌は多いが、この歌は笛の少女にピントが絞られていて、臨場感がある。笛の題がプラスに作用して生まれた歌だろう。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために) 葦笛のうへを滑らふ唇よ、寂しい遠い春をかなでよ
多くの笛は一本の管からなるが、葦笛=パンフルートは一定の音程の管を複数合わせて作られた楽器。したがって、演奏するときは、その管の吹き口を滑って行くことになるのだが、その動作に注目して作られた一首。息の滑ってゆく感じがして、より、葦笛の音の印象を印象的なものとしている。

夏端月 (Cantabile!)
また笛を鳴らしてカード振り回すあなたのルールが理解できない
上句はサッカーの審判の動作のことだが、それが「あなたのルール」へとつなげられているのが面白いところ。主として言いたいことはあなたのやり方が分からない、ということだろうが、上句を丁寧に書かれることで、「あなた」が見えてくる。

鑑賞053「キヨスク」 [百題百日2008]

今日の題は53番目の「キヨスク」です。
基本的には、JRの駅構内に設置されている小型の売店のこと、ではあるのですが、細部は調べてみると、知らないことがいっぱい。
まず、(これは、投稿歌から知ったことののですが)東日本キヨスクは2007年に社名変更した際に売店名も「キオスク」と変更したようです。
以前は、JR以外の駅売店を含めて言うときは「キオスク」で、JRの売店をさして「キオスク」というのは間違い、と言っていたものですが、これからは、より注意深く使う必要がありそう。
また、語の由来はロシア語、とばかり思っていたのですがトルコ語から、という説もあるようです。(むしろ、こちらが今は主流の説?)
それから、私は「キヨスク」って昔からあったものだとばかり思っていたのですが、「鉄道弘済会売店」に「キヨスク」という愛称が付けられたのは1973年のことのようです。あんがい新しいものだったんですね。  →ウィキペディア

さて、歌の鑑賞です。
まずは、キヨスクで買うもの。その中でも日常的に目にするキオスクの歌だと思われるものから。

はこべ (梅の咲くころから)
キヨスクののど飴ひとつポケットにきみ待つ駅へあと15分
私は飴を買うという習慣がなく、キヨスクで飴を買うなんて、両替目的の時ぐらいなので、頓珍漢な事を言うかもしれないが、この、ポケットの中の飴はこれからの時間の期待感の表れなのかなあ、と思う。わくわくする気持ちが感じられる歌だった。

伊藤真也 (クラッシュボク)
キヨスクで埃にまみれ少しずつ放電してゆくアルカリ電池
キヨスクの電池はあまり売れない商品だろうと思う。きっと、店の隅あたりにひっそりと置かれているのだろう。正面中央付近のめまぐるしい回転と比べると、それが一層際立ち、そこだけは時間が止まっているようである。

続いてキヨスクで買うもののうちでも、旅への連想の働く歌から。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
キヨスクで買うゆで卵の味がしてなんかもうどうだってよかった
この歌を一応旅の方に入れたのだが、実は微妙なところ。昔は5つぐらいのセット売りの旅のお供の定番であったので、こちらに入れているが、現在売っている商品とは大きく違う。
たぶん、この歌の卵はあらかじめ塩味が中まで浸透している味付け卵のことだと思う。最近ではわりに一般的になった味付き卵だが、最初、キヨスクで売り出したのがヒットして、よく知られるようになった商品のようだ。
見たところは普通の茹で卵なのに、味がついていて、しかも、中まで均一な塩味がするところがこの歌の鑑賞のポイントとなるだろう。
蛇足ながら、この玉子は、普通に半熟に茹でた玉子を殻つきのまま、飽和するぐらいの濃い塩水に一晩漬けるとできるらしい。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
キヨスクで買いたるパンを齧りつつローカル線の列車待ちおり
外に出て、食堂に入るには時間が足りない乗り継ぎの間の過ごし方。こんなことも、旅の楽しみの一つだ。
昔は普段は食べないジャムパンや餡パンを齧ったものだが、普段は上手いとも思わないパンがおいしく感じられたものだ。しかし、最近ではもうちょっと高級感のあるパンが置かれていることも多い。
そして何より、キヨスクそのものの数が減ってきているので、そういう機会も減ってきている。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
キヨスクで買ったエビアンぬくみゆく車窓のそばにうたた寝ばかり
旅先の風景を見ずに転寝してしまうのはもったいないような気もするけれど、至福のひとときなのね。
ここはやはり、エビアンでなくちゃと思ってしまうのは、語感のせいかなあ。

青野ことり (こ と り の ( 目 ))
ひんやりとしたこの風を届けたく50円切手キヨスクで買う
旅先からの便りは貰うのもうれしいが、出すのも楽しいもの(らしい…私は筆不精なんで)。
絵葉書を買うだとか、書く、のように直接的に詠むのではなく、50円切手と少しずらしたところを詠んだことで歌に膨らみが生まれている。

次はキヨスクのある風景。

秋ひもの (あの日冷たい葉っぱがひとつ)
ああこれが猫の視点か キヨスクの横でゆっくり冷えていく夜
普段座ったり寝転んだりしないところに座ったり寝転ぶと、ほんとに違った世界が見えるんですよね。
自分自身の寄る辺なさを痛感するのと同時に、人や世界が自分に、妙に優しく感じられるのだ。
「猫の視点」というのが単に高さを表しているのではなく、野良猫の心情と自分の心情を重ねているというか、ちょっと一体化しているんだと思う。
正直なところ、不思議に心地がいいのである。癖になるというか、ここで暮らしてしまおうか、って気にもなってしまうのね。
いっとき、若者が地べたに座り込むのを非難する声が多かったが、これは、この快感を知らない人の声なのだろうな、と思う。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
自販機のあわいにちさきドアがありキヨスクの人が出てはまた入(い)る
そりゃあ、キヨスクの人たちも出入りはしないといけないのは当たり前のことなのだが、まるで店の一部のように感じてしまっているのか。そこに出入りする、ということがものすごく不思議な風景のような気がしてしまう。ドアが目立たない、というのもそのように感じさせる一つの要因でもあったのかもしれない。

けっきょくのとこ、キヨスクって?

カー・イーブン (ほぼ31音)
おばさんになっていくのよキヨスクの実用性を取り入れながら
おばさんたちが(って、私も立派なおばさんなんですけど)数人で乗り物にのりこんで、一段落って頃になると、誰かがほとんど反射的に飴を取り出して皆の掌に載せていく、という場面をまず思い出した。
商品と差し出したお金をちらっと見て、反射的と言っていい素早さで釣銭を出すその動きの中に偉大なる「おばさん」の神髄があるのかもしれない。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
キヨスクをキヨスケと呼ぶ母の買ふ都こんぶのほのあまき粉
初めは、ネタか、と思ったが、キヨスクと言い出したのは1973年から、ということなので、大いにありうることである。こんな馴染みのない外国語(?)は少し年齢が高くなるともう、ちゃんと覚えられませんからね。
いいなあ「キヨスケ」。都こんぶの粉とあいまって、何とも懐かしい匂いがする。

鑑賞052「考」 [百題百日2008]

感想52日目。今日の題は「考」です。
この題の歌も、意味が分からないものが多かったですね。
時間があれば、詠んだ後、しばらく間をおいてから、他の人の歌を読むような気持で読み直すと、自分で気付くことも多いんですけど。
「考」は動詞だと「考える」。ごくごく当たり前の言葉で、歌にもよく詠まれている言葉だと思います。だけど、題詠の場合、「考える」をあまり考えすぎると、うまく行きにくいようにおもいます。個人的な想像なんですけど、この言葉からイメージを広げる、ということが難しい題なんじゃないかと思います。
むしろ、「考える」は頭の隅っこに置いといて、別のところから歌を考えつつ、「考える」とうまくドッキングするのを待つ方がいいんじゃないかなあ。
「考」の字を含む名詞はいろいろありましたが、あまりかたくないイメージの言葉として「備考欄」「考古学」などが好まれているようでしたが、この「備考欄」を用いた歌が、私にはほとんど分からなくって。私に何か、基本的な知識が欠けているのかしらん?
固有名詞ではロダンの「考える人」の歌、有名なフレーズからとられたものとしてはパスカルの「考える葦」の歌を多く見かけましたが、このような題材をとりあげるのは本歌取りとおなじぐらい、難しいことだと思いました。うまくいけば、魅力的な作品になることがあるのだけれど、失敗する確率の方が高いってことないかなあ。

では、個々の歌の鑑賞に行きます。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
上野まで会いに行くたび雨だった考え続ける青銅のひと
これは上記の「考える人」だが、そこそこうまくいっている歌だと思う。
雨に濡れているブロンズの質感がある種の心象を生む。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
悉く話は逸れて考古学研究室に黴びる焼菓子
三句目以降が素敵。空気の匂いがする。

岩井聡 (あと100年の道草)
蟹はミソで考えていると書き込んだ君の日記の燃えっぷり何故
この日記はブログの日記だろう。いわゆる「炎上」ってやつね。
私は、ニュースになってから知るぐらいで、リアルタイムに炎上しているブログを見たことはないのだが、何でもないきっかけでそうなることもあるのだろう。蟹味噌って脳味噌?ってこところから発想されたのだろうが、とぼけてていて面白い。
蛇足だが、蟹味噌は肝臓や膵臓に当たるような器官のよう。 →参考 

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
陽にゆるむゼリーをすくひ考へる無邪気なひとの傷つけかたを
陽に温められてじわじわ溶けるゼリー。こんな風に傷つけてやりたいのね「無邪気なひと」は。
でも、難しいよ。大人の無邪気は高い殺傷能力を持つ武器であるばかりではなく、かなり防御力の高い防具だから。

寒竹茄子夫 (Sing Me Back Home Before I Die)
疾風に錐揉みの蝶 翼竜のそら飛ぶ力学しまし考ふ
翼竜の飛ぶさまを見た人はいない。力学的に解明されたとしても、それはあくまで、想像。
決して見ることのできないものなのだ。

田中彼方 (簡単短歌「題詠だ」)
「寒蛙」とは温暖化した冬の季語。という大法螺を考えている。
この歌は「かんがえる」を考えてたどりついた面白い歌だと思う。
「考える」→「寒蛙」って! いかにもありそうで、実は、いっしゅん騙されたし、歳時記まで確認した(汗)。
ところで、温暖化の影響で蛙が冬眠しなくなった、なんて地域は実際にあるんでしょうかねえ。
蛙が冬眠しなくなったという話はいまだ(私は)聞いていないが、温暖化は色々な生物の分布相を変えている昨今、ブラックユーモアの歌と読めそう。


鑑賞051「熊」 [百題百日2008]

今日は鑑賞51日目。本日の題は「熊」です。
このイベントでは、文字をそのまま読み込むルールなので、漢字の熊を使わなければならないわけです。
そこが、ちょっと難しく感じるところだったのではないでしょうか。
動物の熊の実物は現代の日本では、あまり縁のない人が多いのではないでしょうか。動物園で見るぐらい? しかし動物園で見る熊の場合「クマ」の表記の方がふさわしい場合がほとんどのように思います。
また、ぬいぐるみの「熊」もおなじみのものではありますが、こちらも漢字表記だとねえ。…可愛くないの。

さて、みなさまは、どのように「熊」を詠まれたのでしょうか。
一首ごとの感想に行きます。

まずは、動物園の熊の歌を2首。
どちらも漢字表記が必然となっている。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
しらしらと北極熊舎にふるさくら溶けて消えない日本のさくら
日本人の私たちにとっては、美しい風景なのだが。
遠い異国に春を迎えるホッキョクグマの悲哀。

吉浦玲子 ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
かの秋に動物園に子と見たる月の輪熊の月はけぶりき
遠い日の思い出。
月を煙らせたものは歳月だろうか。

続いて現実の熊ではない熊の歌。

カー・イーブン (ほぼ31音)
大人には見えない熊が迷いこみ死んだふりする午後の教室
眠っているんじゃなくて、死んだふりをしているのだ。
学校というのは死んだふりして過ごすところだった。
そうか、あの死んだふりをさせていたものは、熊だったのか。
存在は確かに感知していたが、はっきりとは見えなかったから、熊だとは分からなかった。

岩井聡 (あと100年の道草)
夜の機内には熊だけが覚めていていつか地上は祭りを終える
難解な歌で、どう読むのか悩むところだが、私なりに読んでみた。
空にいること、また、祭りとの関連から、この熊は神を思わす。
そして、祭りの贄も熊。また一匹、一族を殺された悲哀の中にいる神である。
いわゆる、神送りの祭りとは解釈が異なってしまうが、要素だけをピックアップすれば、このようにも読めるのではないだろうか。
そして、熊の形の神を人の形の神に置き換えればどうなるか。

西巻真 (ダストテイル-短歌と散文のブログ-)
リラックマ やさしき熊に歯なきこと思えるわれに義歯のありたり
キャラクター化された熊には歯はない。しかし、発見という程のことではない。ここで終わってしまっては、はいそうですね、ということになる。
その、キャラ化した熊にない歯に対しておかれているのが自分自身の義歯。言ってみれば偽物の歯ということだ。見かけ倒しの獰猛さ、野生といったところか。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
そういえばしばらくうわさを聞いてない熊をかぶりし美女、ナスターシャ
よく分からないものの、下句に惹かれた。毛皮をかぶった美女とロシア風の名前がある種のイメージを立ち上げる。
で、調べてみたのだが、「ホテルニューハンプシャー」でナスターシャ・キンスキーが演じた役のことを言っているようだ。
彼女の映画は「テス」しか見ていないが、非常に印象に残るまなざしの女優だった。「そういえばしばらくうわさを聞いてない」。
蛇足だが、ナスターシャ・キンスキーのナスターシャは『白痴』からとられたそうだ。

別の物の名の一部として使われているが、熊と関連の深い物の歌から。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
お土産の熊よけ鈴がトイレットペーパー出すたびチリンと揺れる
そんなものが土産になっている、というのがまずは驚きだった。
そして、その鈴はトイレットペーパーをしまっている箱か何かにつけられているのだろう。
人からいただいたものをそんなとこにつけるのか、という疑問はさておき、意外な場所に意外なものが使われているおかしさを感じる。

佐藤紀子 (encantada)
熊の胆の黒き丸薬呑みてゐき病み勝ちなりし晩年の父
消化器系の万能薬として有名な熊の胆だが、近年はとても高価な薬になっているようだ。
しかし、昔の人は、何かといえば飲む薬だったのだろう。
たぶん、生薬独特に匂いもあって、お父様の晩年の思い出と切り離しがたく結びついているものなのだろうと思う。

その他の歌。

梅田啓子 (今日のうた)
ジギタリスの花に入りたる熊蜂は尻をぢりぢりふるはせてをり
ジギタリスの大きさといい、花の模様といい、大型の花蜂である熊蜂にぴったりだ。「ぢりぢり」がいい。

星桔梗 (風船がわれるまで 2)
来熊(らいゆう)をお待ちしてます最高の思い出作りをしてみませんか
熊が来るのを待つ? 一瞬、何のことかと思ったが、熊本に来るってことだ。来日だとか、来阪といっしょね。
しかし、間違いに気づいた後も、ホテルのロビーあたりを熊がうろうろしている絵が消えない。
話はそれるが、私は現在岐阜県に住んでいる。が、来岐って言い方は知らない。実際に、そんな風に言うのか確認のために検索してみたが、やはり、ちゃんと出てくる。
身近なところでも知らないものだ。熊本の人にとって、「来熊」の認知度はどの程度なのだろう。

鑑賞050「確率」 [百題百日2008]

鑑賞50日目。ようやく半分です。
今日の題は「確率」。この題は誤字が目立ちました。これは、パソコン入力にありがちな誤字ですね。第一候補はたいがい「確立」だろうと思うのですが、これが、ついつい見逃しがちな漢字なんですね。
この題のポイントは、どういう場面の確率を取り上げるか、にかかっていたのではないかと思います。ちょっと固い言葉なので、無理やり使おうとすると、浮いてしまうように思います。
かといって、好きな人と出会う確率、だとか、相手が自分を好きになる確率、なんていうのは手垢がついた表現ですし。

それでは、歌の鑑賞に行きます。


天国ななお (お月様は許さない)
開票後すぐに落選確率が100%のような恋だ
恋の成就の確率、なんて、そのまま使えば、上のところで言ったような手垢のついた言い回しになってしまうのだが、選挙を比喩として用いることで、その難を逃れている。
しかも、「開票後すぐに」。ここが、歌に具体性を与えているのだと思う。

カー・イーブン (ほぼ31音)
レジ袋をもらう以上の確率でおれはコンドームを使わない
意外な物の対比だが、レジ袋とコンドームの質感が少し通じるところがあって、そう突飛な感じは受けない。
レジ袋をもらわないことが、果たしてエコロジカルなことなのか、という問題もあるようだし、コンドームを使って、その結果に責任を持つのはいいことだと、一応は言えるが、この少子化社会の中で、どうなんだ、ということも考えさせられる。
なので、この確率が高いのか低いのか、謎のままであることはこの歌の中ではプラスだろうな、という気がする。
コンドーム着用率100パーセントでないことだけは確かのようだが、人生には想定外の事態も必要。ただし、学生さんは、きっちり対応するように! 親まで想定外の事態に巻き込む恐れがあります。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
パーを出す確率低い気がしてる私はおそらく内向的だ
内向的、というより思慮深いのでしょうね。この人のじゃんけんの勝率は高いと思う。
じゃんけんでいつも負けていた私は子に、「だって、お母さん、いつも最初にパー出すもん」といわれたことがある。
負ける理由を考えてなくって、しかも、人間、一番出しやすいのはパーなのね。かくして、わたしのパー比率はとてつもなく高かったのだ。
といった経験から、ジャンケンに何を出すかにも性格が表れるのだということを知ったという次第。
しかも、パーの私はこの歌を読むまで、性格とジャンケンの連関については考えはしなかった。やはり、パー比率の低い人とは性格が違うんだろうな、と思った。
面白い気付きの歌だと思う。

天鈿女聖 (白線まであがって。)
確率で 言ったら十個の フリスクが でてくるよりも 上の出来事
「上」というのが少しわかりにくいが、稀だってことだろう。
ユニークでよく分かる比喩だ。
一字空けはない方がすっきりすると思う。

あおゆき (メソトリウム)
確率のカスタネットがうるさくて選べない選べない 選べ
この歌は意味よりも音から生まれてきた歌のように思う。
偶然に出てきた言葉なのかもしれない「確率のカスタネット」だが、言葉が出て来るとそれは、ある種の真理が含まれていて、こういう場面は現実にある。
確率を考えに入れすぎると、このような状態となるのだ。

砺波湊 (トナミミナト2008)
「発芽率9割」の種の袋には1割の死の確率ねむる
種の袋には、そのような表示がある。だが、これが歌になるとは思わなかった。
言われてみれば、そのとおりのこと。発見の歌。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
どこまでも降水確率ゼロの空、きれいごとだけの一日だつた
「きれいごとだけの一日」で、どんな空だったのかが伝わる。

ジテンふみお (雲のない日は)
合戦の確率高く若武者が信号待ちで靴履きなおす
靴をはいているので、比喩的に用いられた「合戦」「若武者」だろうが、鎧兜の人が交差点のところで、靴紐を締め直しているような姿が浮かんでしまう。
ただ、初句二句がちょっと詰め込みすぎの印象があり、たぶん、最終的には「確率」は要らなくなる歌のような気がする。

吉浦玲子 ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
確率論ポアソン分布のふもとまで来たれば座学の部屋のけだるさ
見るからに難しそうである。
「ふもと」がいい。

たかし (象と空)
獅子唐の“当たり”の確率言い合ってやっぱり今夜も当たってしまう
日常の一こまを切り取った歌。食卓の雰囲気をよく伝えている。
この作中の人物は、きっと、自分ばかり、「当たり」をひいてしまうと思っている人なのだと思う。
実際のところは、人によって、当たりの確率の想定が違うのは辛味に対する許容度の差だと思うのだが。
私は子供のころ、私一人が辛いピーマンに当たることを不思議に思っていたのだが、今になってみると、それは甘口カレーも辛くて食べられなかった、私の舌のせいだったのだと思う。


寒竹茄子夫 (Sing Me Back Home Before I Die)
小春日和のをはりの降水確率の茫たる秋の金箔を惜しむ
秋の最後の輝き。「降水確率」の「降」の字も効果的に働いている。



鑑賞049「礼」 [百題百日2008]

今日、49番目の題は「礼」。礼の字を含む言葉も多いので、いろんな風に使われていました。
その中で、わりに多いなと思ったのが学校時代の始業前の挨拶の歌。
すっかり忘れていたけれど、かつては一番親しい「礼」だったなあ。
この題、わたしはけっこう難しい気がしたのですが、みなさんはどうでしたか?
いろんな切り口から詠まれていて、バラエティに富んではいたのですが、面白いと思った歌は案外少なかったです。
どうしてなんでしょうね。

それでは、個々の歌の感想に行きます。

夏実麦太朗 (麦太朗の題詠短歌)
年配のあなたの深い一礼を私は忘れる事が出来ない
どういう状況なのか、まるでわからないけれど、なぜか心に残る歌。
年配の方が深ぶかと頭を下げられる、ということのインパクトのせいなのかなあ。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
ラポウトをとれぬ教師に生徒らが返礼としてシカト続けり                                                    (ラポウト:信頼関係)
桑原さんの歌は、以前から、問題を抱える学校の生徒たちを題材とされているが、今年の歌は他の先生の姿も多く詠まれており、一段と世界が広がった感じを受けている。
生徒もそれぞれだが、先生もそれぞれ。
あまり問題のない学校だと、それが表面化することは少ないのだろうが、このような場所では、先生に少しでも弱点があれば、それはすぐさま生徒たちの標的となる。

村上きわみ (北緯43度)
統べられて(いるふりをして)紺色のくるぶし尖る秋の朝礼
制服のソックスの基本色が紺になったのはいつ頃からなのだろう。とにかく、今は制服の靴下といえば紺であるところの方が多いように思う。
ルーズソックスの流行が下火になって以来、生徒達はほとんどみんな、ふつうに規則通りの靴下をはいている。
それが統べられているのか、統べられているふりをしているのか、それは本人達でないと分からないだろうけれど、いずれにせよ、その踝は「尖」っているのだ。
いつでも、反抗可能なようにだろうか。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
天降(あも)りくるひかり薔薇窓の色をして礼拝堂の床に遊べり
ステンドグラスを通して入ってくる光はステンドグラスに嵌められた色に染められて、入ってくる。
その様子は、そう、「遊べり」という感じだ。

今泉洋子 (sironeko)
わが生の男時女時(をどきめどき)に眺めたる作礼(さらい)の峯に大き虹たつ
運が向いている時を「男時」向いていない時を「女時」というそうだ。なんで運が向いてない方を「女」というのか、というフェミニズム的な問いかけはここでは置いておく。
その、運がいい時も悪い時も「眺めたる」峰、なので、暮らしの中にある山なのだろう。人生のいろんな転機に眺めてきた山だろう。その山に今は大きな虹が立っている、という。今こそが、最大のチャンス、といった時なのかもしれない。

小早川忠義 (ただよし)
「礼」の字の膝立てに似る形にて大信田礼子の挑発を思ふ
字の形に注目して詠まれた歌。
あんまりはっきりとは覚えていないけれど、大信田礼子は昭和の時代のセクシー女優なんですよね。
挑発的な目をする女優さんだったような気もする。歌を読んで、こんな感じ、というイメージが立ち上がってきた。
「礼」の字の形から彼女を連想する、というのはなるほど、と思う。
ところで、「膝立て」って言い方、するんでしょうか? わたしは「立膝」という方が普通じゃないかという気がするのですが。


鑑賞048「凧」 [百題百日2008]

本日、48番目の題は「凧」です。
先に告白しておきますが、わたしは、この題の鑑賞には不適です。
実は、よく知らないんですよ。
実際に、ちゃんと凧揚げをした記憶があれば拾う歌を、見過ごしている可能性は非常に高いです。そういった方、ごめんなさい。
歌の中では電線に引っ掛かった凧の糸の歌を結構見かけましたが、日本の大部分のところでは、揚げれば、これが現実でしょうね。危険、なんですよね、これは。
わたしが子どもの頃にはいちおう、凧を作ったかすかな記憶はあるのですが、そのころですら、近くで安全にあげられるような場所はなかったし、今の若い人たちの多くは、工作で作ったこともないのだろうなあ、と思います。
だけど、挙がった凧はたまに見かけたことがありますから、そういう凧の末路が、そういった状況になるのでしょう。
そして、その凧は例外なくゲィラカイトでした。日本の伝統凧は、もう、すでに遠いなあ。ニュース映像で見るぐらいです。
でも、料理用の凧糸に関しては、まあまあ、なじみがあります。でも、選んだ歌はなかったですねえ。あと一歩、が足りない歌ばかり、という感じがいたしました。

こはく (プラシーボ)
問いのない答えに凧はさらわれて骨がすうすうするにちようび
凧は骨と紙(布?)との間を風が抜けるんですね。その風を自分の骨の周辺にも感じている歌。
凧に縁のない私にもイメージがよく伝わる。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
工作で作った凧は野っ原を削って折れた 空を知らずに
私の凧体験も、このような感じに終わった。「空を知らずに」終わった凧はたくさんあっただろうなあ。
「削って」がいいと思った。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
あざわらふ真夏の凧よ、空を斬るためにかすかに糸はふるへて
凧の微妙な動きが伝わってくる。

近藤かすみ  (気まぐれ徒然かすみ草)
いつまでも凧揚げつづける父さんの背中に冬の夕陽があたる
子が退屈していてもいなくても、凧に夢中になっているお父さんは凧を揚げることをやめない。
こどもの頃には、こういうお父さんが欲しかったのだった。
凧を揚げられるお父さんって、格好がいい。

村上きわみ (北緯43度)
菱凧を空にあずけて棒立ちのあのひとがわたしの父である
こちらの歌も、お父さんと凧。
しかし、このお父さんを見るこの視線は冷たい。
こどもとは無関係な世界に没入しているからなのだろうか。
凧だけに留まらず、そのような存在として、父を見ているのだろう。

さくら♪ (さくら草紙 ~第参章~)
凧の絵はチーム写楽に依頼した ピアノでも弾いて春を待とうか
写楽の絵って凧に似合う。
「チーム写楽」って何よ、と思いつつも、納得しちゃう。安心してピアノを弾いていられる。

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選んだ歌が少なかったから、という訳でもないのですが、凧について、いくつか検索したなかで、面白いと思ったサイトを紹介して、お茶を濁します…。
http://www.mscom.or.jp/suneye/html/kite.html
お正月の凧揚げってどうよ? だとか、たこというよりいか?だとか、そんな話もあります。


鑑賞047「ひまわり」 [百題百日2008]

今日の題は「ひまわり」。47番目の題です。
誰でも知っている、夏の風物詩の一つ。歌にも詠まれることの多いものです。
そういう意味では詠み易そうですが、季節のお約束って感じの素材はステロタイプの情景に陥りやすいともいえると思います。
そこから脱しようとする工夫の見られる歌も多かったのですが、頭で作りましたって感じの、心にすとんと落ちてこない歌も多いように思いました。

では、歌ごとの感想です。今日はひまわりの姿の移り変わりに沿って並べてみました。

吉浦玲子 ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
茎太く巨(おほ)きな顔のひまわりををさなきわれはひたに怖れき
子供は大人の感覚では理解できないところに恐怖を感じることがある。
こどもがまだ幼かった頃、着ぐるみの人を見ると恐怖でフリーズしていたのを思い出した。
こどもの感覚からすると、こんなでかくって、無言で立っている人はこわい。
歴史的仮名遣いだと、「ひまわり」は「ひまはり」では?

さかいたつろう (流星文庫)
モノクロのひまわりみたいな顔でするピースを入道雲に見られた
投稿の不備で再投稿されたようだが、わたしは推敲前の、この作の方がいいと思った。
「モノクロのひまわり」という比喩がいい。

柴やん (明日はきっといいことがある)
大輪のひまわりのなかは迷路にて西へ東へ出口は見えず
向日葵の迷路はあちらこちらにあるようで、それを詠んだ歌も多かった。
この作の迷路はひまわりで作った迷路ではなく、一本のひまわりの中にある迷路。種ができるあたりがそのように思えてくる。
向日葵の中で迷っている感覚が作られた迷路以上に迷路で面白いと思った。ただ、下句はもう少し工夫できそう。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
ひょろりっと日陰のひまわり 植えたのは私だけれど誰にも言わない
明るく元気であるものの代表であるようなひまわりだが、作中の人物はそれを日陰に植える。当然、生育はあまりよくなく、ひょろりと育ち、しかも、そのことを「誰にも言わない」。マイナス思考のマイナスベクトルの行動をとるわけだ。明るいものがいつでも、皆に、心地がいい訳ではない。

村上きわみ (北緯43度)
みつみつと種子ふとらせるひまわりに見下ろされ(ごめんとてもくるしい)
こちらも、明るいものがつらい作中の人物である。
こちらのひまわりは種子まで太らせている。「みつみつ」に、感じがよく出ているなあ。読んでいて、息苦しくなってきそうだ。
この「ごめん」はひまわりに謝っているのではない。この状況についていけないって感じを表すつぶやきだろう。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
嵐近き雨降る午後をひまわりはさまざまな向き指して萎れる
「嵐近き雨」から、激しく降ったかと思うと、ちょっと小ぶりになり、そしてまた、突然どしゃ降り、といった雨の様子が思い浮かべられる。
その中で萎れる向日葵の様子もよく分かりつつ、どこか、心象風景のようでもある。

やましろひでゆき (短歌とか短歌とか短歌とか)
ひまわりの種食べながら君の声鸚鵡になって繰り返してみる
向日葵の種を食べる歌は案外多かった。そして、鸚鵡になったり栗鼠になったり。
その中で、ちょっとさびしげなこの歌が気になった。
「きみ」は作中の人物にとって、親しくなりたいけれど、あまり親しくない人、あるいは、もう、言葉を交わさない関係人ってしまった人。
残された、数少ない言葉を繰り返すしかない作中の人物がいる。

翔 (ノーベル賞にほど遠く・・・)
ハムスターのひまわりの種子棚にあり2・3個残し捨ててしまおう
これは読者にとって理解不能な部分が残されており、そこが逆に魅力となっている歌だと思った。
ハムスターがいなくなった後に残された餌なのだろう、というところまでは分かる。しかし2、3個残す、という行動がよく分からないのだ。(中点ではなく、読点を打つのが普通だと思うのだが)亡くなったハムスターを偲ぶため、忘れないために、かと一応は思うのだが、2、3個という妙に具体的な数字がひっかかり、何か特別な意味があるのだろうかと、謎のように残ってしまうのだ。

梅田啓子 (今日のうた)
トラクターに掘り起こされし広き野にひまはりの茎のあちこち刺さる
ひまわり畑の種を収穫したあとの風景だろう。見たことのない読者にも、その最後の姿をよく伝える歌だと思う。



鑑賞046「設」 [百題百日2008]

46番目、今日の題は「設」です。
この題は、難題だったのでしょうね。去年、今年と感想を書いていますが、今までの題のうちで、一番意味の分からない歌の多い題だったのではないかと思います。それも、歌を理解するのに必要な情報が足りない、というタイプの分かりにくい歌がほとんどでした。
動詞では「設ける」「設える」。「設ける」は事務的な色合いの濃い言葉だし、「設える」は普段あまり使わないのではないかしら。そういうところが難しかったかなあ。
「設」の字を含む言葉はいろいろありますが、どういう言葉にして取り入れるかで詠みやすい詠みにくい度合いは変わって来ますね。うまく詠み込めない場合、このあたりを再検討すれば、もっといい歌ができるという場合も多いと思います。
多く使われていた単語に、まず、「設計図」がありますが、人生の設計図、というのは、やはりありふれた比喩なので、これを詠むとすれば、相当工夫がいると思います。
また、ネットのイベントですから「設定」という、パソコン関係ではおなじみの言葉もよく使われていました。この言葉を使ったものには、独りよがりではないか、という感じの分からない歌がたくさんありました。何の設定かを説明する必要があると思うのですが、これが音数が限られている関係で説明不足になっている歌が多かったんじゃないかな、という印象を持ちました。他の言葉でも、「設」を含むものには、同じような側面を持つ言葉が多かったように思いました。

では、感想に行きます。今日は5首のみのピックアップになってしまいました。

kei (シプレノート)
人攫いのような夕暮れ木製のベンチを設置したその日から
「設置」はお役所仕事を思わせる事務的で固い言葉だが、この歌の場合、その言葉のイメージが逆に「人攫い」を呼び寄せている。ところで、大阪では人攫いのことを「子捕り」と(もちろん子供限定ですが)言っていましたが、これって方言なのかしらね。いまだに、「人攫い」ってちょっとピンときません。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
設計士の右手が指したあたりから夏のひかりがほつれはじめる
現実の設計師は、ただの、普通の勤め人(正確には自営業者になるの?)だが、歌に詠まれると、ある種の雰囲気を纏う。
きれいな指だろうなあ。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
どの線もたちまちゆがみ簡単な設計図すら仕上げられない
人生だとか、これからのこと、の設計図ということがやはり、裏には込められているのだろうが、現実の設計図に即しての具体で、これからの予定のようなことは、遠い背景となっている。設計図=人生の設計図ね、と読者にぱっと思われるようならば、比喩として失敗。

近藤かすみ  (気まぐれ徒然かすみ草)
線路ぎはにタチアフヒの花五、六本すつくと伸びたり夏片設けて
「かたまけて」は短歌ではよく使われる言葉だが、こんな字を書くのね(無知をさらす…)。
これは言葉の選択で、難しい題もうんと詠みやすくなるという好例。
最近の都会の線路は高架等で、どんどん、こういった風景が失われているだけに、郷愁を感じる場所ともなっている。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
今しばしバス停に名を留めたる公設市場はビルに変わりぬ
この歌も「設」を含む言葉の中でも短歌になじみやすいものが選ばれている。
スーパーが一般的になる前の時代は日常の買い物といえば公設市場に行く人が多かったと思う。しかし、個人商店は経営の難しい時代となって、多くの場所では、消えてしまったり、スーパーを軸とする市場に変わってしまった。
この歌の公設市場はもう、存在しない。(ビルの中に入って残っている可能性もあるか、と考えてみたが、それならば「今しばし」とはいえないだろうから、その可能性は消える。)今はバス停には名前が残っているものの、それもそのうち消えてしまう運命なのだ。

鑑賞045「楽譜」 [百題百日2008]

本日の題は「楽譜」です。
楽譜なんて、縁がないなあ、と困った人も多いのでは。親しい人には馴染みのあるものだけれど、学校の音楽教科書に載ってたあれね、といった程度の記憶しかない人もいるだろうなと思います。馴染みのないものは比喩にも使いづらいし、困られたんではないかかと思います。その困った挙句の歌、というのが結構ありました。

まずは、実際の楽譜を詠み込んだ歌から。
このタイプの歌は、作中の人物の動作が歌のリアリティを生むものが多かった。

斉藤そよ (photover)
とんとんと楽譜のかどを揃えるとぽとんぽとんとオルゴール鳴る
紙をそろえる動作はコピー用紙だって同じはずなのだが、楽譜をそろえるときには心の持ちようが違う。
なるほど、「ぽとんぽとんとオルゴール鳴る」は納得できるなあ。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
君が弾く楽譜をそつとめくりたいきみの左にしづかに立つて
楽譜をめくるなんて、大した仕事じゃなさそうに見えるが、実は、かなり神経を使う仕事のようだ。
演奏者にとってベストのタイミングでめくるには、相当のスキルが要求される。演奏者とぴったり呼吸を合わせているんだろうなあ、と思う。それも、自分の呼吸に合わせることは全く要求しない。そして、まったくスポットライトの当たらない仕事。
下句からあらわれてくる作中人物の様子が、いいなあ。

夏椿 (夏椿)
いつせいに飛び立つ鳥の音させて体育館に繰らるる楽譜
一枚だけめくる時には小さな音しか立てない楽譜だけれど、大人数ともなると大きな音がする。しかも、人によってベストなタイミングがちがうので、その大きさも微妙に変わる。その音に注目すれば、そうだ、鳥が飛び立つところが見えるようだ。

楽譜から広がる幻想の歌。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
ダル・セーニョまたダル・セーニョ永遠に楽譜を廻る金管楽器
楽譜の檻に閉じ込められた音楽。
金管楽器でなければならないか、ということが問題となるだろうが、眩暈のような感覚は金管楽器だからこそ。

こはく (プラシーボ)
トレモロで紡ぐ楽譜がハルニレの森にひかりをこぼすのだろう
ハルニレのの森には行ったことがないし、群生しているところの実際の姿を思い浮かべることもできないのだけれど、この歌のハルニレの森はイメージできる。
細かい木漏れ日が降るのだろう。

続いては逆に幻の楽譜を想起する歌。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
戻れない路地をのぞけばバイエルの楽譜の上の赤い花丸
昔のピアノのお稽古といえば、バイエル・ブルグミュラー・チェルニーなどと決まっていた。
一つの曲に「合格」したら、次の曲に進めるのだけれど、その時に花丸をもらったのだろう。
たぶん、ピアノを習っている近所の子がみんな通うような、庶民的なピアノ教室
路地の向こうに、ふと、そんな子供時代が見えるような気がしたのだろう。

我妻俊樹 (vaccine sale)
ペディストリアンデッキに立てば交差点は波に裏がえされた楽譜よ
ペデストリアンデッキって何だろう、と思って調べてみた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
駅前などによく見かける、歩道橋が大きくなったようなものね。これにはそんな名前があったのか。よく知っているものでも、名前を全く知らないことがあるのだなあ。
名前の中の「デッキ」が呼びこむ海のイメージ。そして、交差点の横断歩道が楽譜のようにも見えるのだ。イメージの広がりが心地いい。ちょっとリズムが悪いのが気になるが。

鑑賞044「鈴」 [百題百日2008]

今日の鑑賞は44番目の「鈴」。リンリンとなる、「鈴」自体、よく目にするものですし、鈴の字を含む単語もいろいろあり、おまけに、人名にもよく使われているものですから、わりと詠みやすい題だったのではないでしょうか。そのうえ、ぱっと思いつく、決まり文句もないので、各々が自分の得意な土俵での歌を詠みやすかったのではないでしょうか。
今日は、たくさんの歌をピックアップしました。

まずは、「鈴」の歌から。

船坂圭之介 (kei's anex room)
今宵またいづれともなく鈴の音(ね)を羞(やさ)しく鳴らし迷ひ犬来る
「また」とあるので、何度目かの出来事。まず、鈴の音に気付いて迷い犬を見つけたのだろう。別の世界からこちらへ迷い込んできた生き物のように思えるのは、鈴のせい。
鈴には、そんな不思議なところを思わせるものがある。

猫 (ことばあそび)
駄菓子屋の十円くじで当てた鈴鳴らして帰る 小二の夕方
ランドセルにでも付けているのだろう。懐かしい風景。「十円くじ」がいいですね。
ただ、五句は、それまでの部分でおおよそのところが分かるので、 もう少し工夫があってもいいと思う。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
老衰に最期の日々をねむりゐる猫の鈴の音なき五月闇
「鈴の音なき」が、身動きも出来なくなった猫の姿をよくあらわしていて、また、心に迫る。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
川のうへに振る鈴のおと耳たぶをもたざるうをは何と聴くらむ
えっ、大きいのがあるじゃん、と一瞬思ったが、それは鰓だったと気付いた、という私のお馬鹿は、さておき。
魚の聴覚は人間とは全く違う構造のようだ。われわれとは違うシステムによって伝えられるものを想像しようとするとき、人はその対象との距離を縮める。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
いつの間に飲み込んだ鈴 諍いの予感のたびにちりちりと鳴る
鈴の音は前触れの音。実感としての予兆と鈴の象徴的な意味とがクロスした地点に着地している歌。

佐藤紀子 (encantada)
ご褒美の金の小鈴の音がするテルテル坊主お手柄の朝
テルテル坊主の歌では、晴れたら金の鈴をあげるんだった。が、実際にあげたという話は聞いたことがない。
この歌の場合、実際にあげた鈴が鳴っているのか、鈴の音の幻聴なのかは不明だが、存分に感謝されているテルテル坊主だ。
小さな子供がいる家の雰囲気が伝わってくる。

続いては「風鈴」の歌。

七十路淑美 (七十路ばば独り言)
チリチリと江戸風鈴が歌います嫁ぎし娘の部屋の窓辺で
吊るされたまま、忘れられている風鈴はさびしげなものだが、嫁いだ娘さんの部屋の窓辺となると、それも一入だろう。
ただ、三句の「歌います」という擬人化的な表現は、ちょっと過剰な感じを受ける。

富田林薫 (カツオくんは永遠の小学生。)
ゆつくりとひとみをとじる また夏のうたごえをきく風鈴職人
風鈴職人は一年中、夏の物音のまぼろしを聴き続けているのかもしれないと、思えてくる歌。

ジテンふみお (雲のない日は)
風鈴の昼寝しているベランダで爪を匂えば小さいトマト
無風の夏の日の午後の風景。トマトの匂いがいかにも夏で、胸がきゅんとなる。

内田かおり (深い海から)
風鈴の硬き音ふと冷たくて夏のさなかに芯を携う
風鈴の音に一瞬感じたもの。自分では経験がないが共感できる歌。
下句がいい。ただ、二句三句はちょっと伝わりにくいように思う。

村上きわみ (北緯43度)
様々なみどりを抜けてきた風がさいごに触れる風鈴の舌
なるほど、風鈴に到達するまでの風のことは考えたことがなかったが、このようにもイメージが広げられるのだなあ、と思う。
そして、到達点が風鈴の「舌」だという。風鈴の舌そのものには肉感的なイメージはないのだが、「舌」という言葉の持つ肉感的なものを思わせ、そこでぐんと色合いが変わる面白さがある。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
投函を終えてひろがる晴天に馬鈴薯ほどのさみしさを抱く
手紙を書こうと思い始めてから、書いている間、そして封を閉じてからも投函までは、その思いを手に持っている実感がある。そして、それをいざ、手放した時の寂しさ。
馬鈴薯ほどの、との表現で拳大のものが胸の中に生まれる。
しかし、これは馬鈴薯だからこそ、さみしさが実感できるのね。これをジャガイモにしてしまうと、さみしさが伝わらない。言葉は大事だ。

最後に人名に使われている「鈴」の歌から。

小早川忠義 (ただよし)
「目立たない方の鈴木」と呼ばれゐる同窓会の常任幹事
鈴木という名前からして、ありふれた名前の代名詞みたいなものなのに、「目立たない方の」とまで、ダメ押しされる存在。
いつも幹事をしてくれて、お世話をかけているのに、ちっとも偉ぶらなくって、とプラスの評価になりそうなものなのに、なぜか、どうしてもマイナスに読めてしまう「目立たない」。個性という幻想に支配されている時代だからなんでしょうかね。
ところで、私事なのだが、5年ほど前の同窓会で「B君と同じで、いつもオール5をとっていたのに、何故だか地味で、目だたなかったAくん」と、数十年後のA君の前で言ったところ、ご本人が、とっても傷ついた表情をしたのが実は、忘れられません。わたしは褒め言葉のつもりだったんですが。やっぱり失言だったんでしょうね。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
こずえ鈴の弟アンナの元夫JOSHUAに道綱母のかなしみ
JOSHUAさんって、亡くなったニュースで初めて知ったが、だいたい、こんな風な紹介だった。確かに「道綱母」だよなあ。
そのように伝えられる死は、少し、かなしい。

~~~~~~
今回の題では風鈴の歌が多くありました。夏の風物詩ですね。
ところで、わたしが住む街は陶器の産地で、夏になると、駅や市の建物など、あちこちに、吊るせる限りの陶器製の鈴が吊るされます。
陶製なので、濁った低い音で、大音量。しかも、一つ一つの風鈴は音程が微妙に違っていますから、風が吹くと、ぐわ~んと鳴ります。
多く吊るせばいいってもんじゃないだろうがっ!

不愉快で暑苦しい音だと思うんですが、これ、涼しそうに思う人、いるんでしょうかねえ。
このところ、夏が来るたび、市街地に出かけるのが苦痛になるのです…。

以前にもぼやいたことがあるんですが、風鈴って目にするたびに、このことが言いたくなってしまう。
素直に風鈴の音を楽しみたいものだわ!

鑑賞043「宝くじ」 [百題百日2008]

今日、43番目の題は「宝くじ」。
籤にも売り場にも。こう書いてあるので、これで定着しちゃっているんだけれど、漢字と平仮名の混ぜ書きなのね。日本語の表記として、どうなんだろうなあ。
この題も、意味がよく分からない歌の多い題でした。イメージを共有している部分が案外少ないんじゃないかなあ。
特に、宝くじ売り場はには大小いろいろありますが、作者は宝くじ売り場とはこんなものと作者が思うものを比喩に使ったりしているようで、このあたり、比喩って難しいな、と思いました。
とはいえ、あまり歌にされることのなかった題じゃないでしょうか。保持している期間やその後の宝くじとの様々な付き合い方や、その風景と出会うことができました。残念なことに、歌として面白いと思えるものはあまりなかったんですが。

では、個々の歌の鑑賞に行きます。

たちつぼすみれ (花・鳥・風・月)
宝くじ外れし後も仏壇に鎮座ましますお守りのごと
外れ籤の扱いは人によりそれぞれ。この歌では、さっさと捨ててしまうこともできずに仏壇に置かれ続けている。なんとなく、捨てられないという気分は分かる。
ところで、はずれても、くじの日の抽選があるので、9月2日まではとっておいた方がいいかも。わたしはこれで、中華鍋セットが当たったことがあります。

小早川忠義 (ただよし)
宝くじかつては夢を分けくれしハート銀行消え失せにけり
実際のところは、別に「夢を分け」てくれていたわけじゃないけれど、かつては第一勧業銀行といえば宝くじで、ハートのマーク、と頭に刷り込まれていた。
ハートのマークがいかにも夢を分けてくれそうな気もするのである。事務的な業務を担当しているだけにしても。
しかし、昨今の銀行の合併により、第一勧銀はみずほ銀行に。
ところで、今、たからくじの換金はどこの銀行が担当しているのか、知らないってことに気づいた。高額の当たりなんて、縁がないからなあ。
ということで、調べてみると、まあ、予想通りというか、みずほが引き継いでいるようだ。

岩井聡 (あと100年の道草)
桜桃忌の619でナンバーズ宝くじを買った、雨が匂った
いかにもあたりそうにない、太宰の忌日(といっても、正確には亡くなった日ではなく、遺体の発見された日で、誕生日)のナンバー。
当てようという気はもとよりなく、ただ、太宰を思い起こすような、雨の日だったのだろう。
この題の歌では一番いいのではないかと思った歌だけれど、この題で詠む、ということでなければ、この「宝くじ」は推敲の過程でカットされる部分って気がする。

寺田ゆたか ( “たまゆらのいのち”)
玻璃窓の箱に笑まひて宝くじ売るをみなあり金魚にも似る
この売り場はたぶん、都心部の宝くじ売り場。並んでまで人が買いに来るような。
こういうところでは、素早く仕事をこなす事務能力が必要とされることに加えて、宝くじを明るく健康的なイメージにしようという意図が働いているのか、比較的若い女性の売り子が多かったようなきがする。金魚のような、は確かにそんな感じも受ける。
あまり人気のない店の、生活感あふれる、おじいさん、おばあさんの売り子さんじゃ金魚のようには見えませんから。
最近の宝くじ売り場のイメージの主流はこっちになってきているのかな?

ジテンふみお (雲のない日は)
宝くじ一等が出た売り場にはそうとは見えぬ売り子鎮座す
大型の売り場は販売量が多いので、当たって当然だと思うのだが、うらびれたって感じの店にも「この売り場から××回○○○くじの1等が出ました」なんて張り紙がある。
その、大金を手にした人とは無関係な地味さで今日も宝くじを売る売り子が座っている。
当たった人とそれを売る人には雇用関係はないのだけれど、この構図はどこか、金持ちとその生活を維持するために働く労働者を思わせるところがこの歌の面白さだろう。だけど、本当に儲かっているのは別の所なんでしょう? 平等といったところで、元手を潤沢に持つ人たちはこんな割の悪いゲームはしないだろうなあ。手持ちのお金がない庶民が、ほぼ平等にお金を失うシステムになっているんでしょうね。
なんてことを言いつつ。こういう小さい店にたくさんの張り紙が出ていると、購買意欲がそそられる。こっちの方が大型売り場より当たりやすい感じがしない? まあ、冷静に考えれば、いずれにせよ、当たる確率はほとんどないってことは分かってるんですけどね。


鑑賞042「鱗」 [百題百日2008]

42日目です。今日取り上げる題は「鱗」。
鱗を持つものといえば「魚」「蛇」「竜」、こんなところか。
麟粉になると「蝶」「蛾」がいますね。
決まり文句としては「目から鱗」が多かった。この決まり文句では、単純に使われた歌よりも、決まり文句を面白く展開しようという試みのものが目立ったが、なかなか、膝を叩くような歌には出会わなかった。たいがいの展開が、何を今更、なんですよね。

まずは、日常の中の鱗を詠んだ歌から。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
鱗少し付きたる皮を選り分けて食えば魚の目の虚ろなる
鱗の残った魚料理の歌はたくさん見かけた。その中でも、それを言わないでおく、と詠んだ歌がいくつかあったが、こちらは、より具体的な表現をしている。
そして、下句から伝わってくる作中の人物の心情。説明を避けることにより、余情が感じられる。

続いて、鱗を持つ人の歌。
このタイプの歌も多かった。このファンタジーは多くの人に好まれているようだ。
人間の心理の中でひんやりとしたものと対応するのだろうが、同じパターンに嵌りこむと、類想ってことになってしまう。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
雨の日は怖かったんです母さんが蛇の目でお迎え うなじに鱗
この歌は日本の怪奇譚に基づく歌。こんなお母さんは怖いよぅ。
母と娘の関係の、ある部分が、このような話を生むのだろうか。
ただ、歌の初めに怖かった、ということを出してしまうのは歌の広がりを限定してしまうように思ったが。

次は空の鱗。鰯雲から発想されたファンタジーの歌2首。

kei(シプレノート)
いわし雲泳いでみんないなくなる忘れていった鱗いちまい
鰯雲を鰯と見ると、その鱗は相当小さい。点にしかならないだろう。
点として光るものを考えると、この鱗は遠い飛行機が、光を受けて一瞬輝いたところかもしれない。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
クレーンが空の鱗を指さして 昔ここらは海だったんだ
空を海にしちゃうだなんて、大胆。クレーンおじいさんの昔語りという童話的な世界が面白いと思った。
推敲をもう少し重ねれば、もっと魅力的な歌になりそうな気もする。

続いて比喩に「鱗」が使われている歌。

はらっぱちひろ (テクテク)
脱走を試みながら整然とタイムカードは鱗のように
半ば重なりつつ並んでいるタイムカードはそのようにも見える。
整然とした場所に閉じ込められるのは、さぞや居心地が悪かろう。
タイムカードも、働いている人も。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
ろくぐわつの川面を風のわたるとき鱗のごときひかりは走る
見えたのは鱗ではなく、「鱗のごときひかり」。しかし、比喩によって、幻の魚が現れて、川面を走るのだ。

砺波湊 (トナミミナト2008)
錆びついて針をなくした画鋲とはもはや鱗のひとひらだろう
思いがけないものが、思いがけないものと出会う。
そして、その比喩をなるほどと思うとき、に読者の中を抜けていくものがある。
これも歌を読む楽しみの一つだ。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
鱗のない魚のような人だねと言われて風になびくストール
う~ん。あまり聞きたくはない言葉だな。
普通に言えば、つかみどころのない人、というぐらいの意味なんだろうけれど、こんな風に言われたら、自分が細長くってヌメッとした、ちょっと不気味な魚になってしまったような気がしてしまう。
作中の人物はあまりのことに呆然として、ただ、ストールの尾鰭を風になびかせているばかりだ。

鑑賞041「存在」 [百題百日2008]

きょう、41日目の感想は「存在」。これは難しい題だったと思われたのではないかと思います。
抽象的で固い言葉ってだけでも詠みにくいのに、それプラス、自分の手には余るような、偉そうなことを詠みたくなる題ってこと、ないですか。
よく見かけた歌に、とるに足らない存在、というのがありましたが、それをそのまま言ってしまったら、説明であって、短歌にはなりにくいと思うのですよ。その内容を他の言葉で表すのが短歌だと思うのですが、どうでしょう。
今日ピックアップした歌は5首のみとなりました。

南 葦太)(「謙虚」という字を書けぬほど)
「今回は俺の手柄」と言う人の存在よりも大きな態度
たまにいますね。こういう人。
存在と態度を比べてしまったところから、あたかも人間の身体からはみ出してしまって、それよりも大きい「態度」って感じがしてしまい、面白い。

虫 (次郎)
カタツムリの存在頬に感じつつ紫陽花のなか紫陽花でいる
他人として、この場面の絵を思い浮かべてみると、頬にカタツムリを這わせている変な人が浮かぶが、立場を変えて、自分が紫陽花と同化しようと試みると紫陽花と向き合ってる時には そのように自分をイメージするだろうなって気がする。目の前の紫陽花の葉を這うカタツムリを、あたかも自分の頬を這っているように想像するのは、決してギャグではない。しかし、紫陽花になりきろうと、ほんとうにカタツムリを頬に這わせると、ギャグだろうなあ。他に並ぶ歌との関連で、どちらとも読めそう。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
ささくれのひとつでこんなに意識する小指のような存在もいい
頭にも心にも、よく分かる比喩。普段、そんなのがいいと思ってなくても、思わず、それもいいなあ、と思ってしまいそう。

村上きわみ (北緯43度)
存在をぜんぶひらいて夕立を待っている 草もわたしも犬も
本来は形のないものを「ひらいて」と、具体的なもののように詠んでいいる。散文では説明不足となるところだが、韻文では、了解可能。
単に「わたくしの」とするよりも、自己のより深い部分から、オープンにされている感じがする。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
存在が気にいらないと女生徒が担任教師に悪罵を放つ
何が気に入らない?といった問い対する答だろうか。現場を知らない私たちにとっても、テレビドラマなんかでおなじみの場面だ。
「おめ~の存在が気に入らねぇんだよ!」なんていうんですかね。お前が気に入らない、というよりも強くって、お前がこの世に生きていることがもう、それだけで不愉快だ、という表明。必ずしも本心だとは限らなくって、強がりだったりもするんだろう。先生はここからが大変なんだろうな。


鑑賞040「粘」 [百題百日2008]

40番目の題は「粘」でした。
みなさまの歌を読んで思ったのは、人がどういう心理にいるかによって、あるものに粘り気を感じたり感じなかったりすることが結構あるようです。

まずは、粘る人。
この使い方は、わりと決まり切った場面が多く、難しかったのではないかな。
そんな中からはこの一首を選んだ。

絢森 (夢の名前を呼んではいけない)
粘られると君は弱い・左手を繋いだままで頬張るアイス
「左手を繋いだままで」というのがまさしく粘っていることの一つなんだけれど、その粘っていることの中身がたくさんあるよ、ってことが感じられるつながりとなっている。甘えん坊の女の子可愛い
ところで、二句と三句の間の中点はどういう意味なんだろう。ふつうに一字空けでもいいように思うが。

粘るもの。

船坂圭之介 (kei's anex room)
春の夜のおぼろに霞むひと夜さはひとりひつそり酔ふ粘き酒
普段は感じないものでも、その粘り気に注意が向く時がある。
この歌の酒の粘り気も春の夜の気分がそうさせているのだろう。

カー・イーブン (ほぼ31音)
あといくつあなたに増えていくだろう付箋は弱い粘着力で
ラインマーカーで引いた線は消えないけれど、付箋は簡単にはがせるし、時によっては勝手に剥がれる。
彼女に付けられた付箋の場合は忘れ去ることがあらかじめ準備されている。しかも粘着力の弱さがわざわざ言われているのだから、すぐに。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
死にちかき猫の泪をぬぐひしに粘性かそかありてかなしき 
愛猫の看取りの歌。
泪の粘性にわずかにまだ、この世と繋がっているのだ、と感じたのだろう。
  
吉浦玲子 ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
音信なき一人(いちにん)を嘆く夜なれば粘度持ちたるごとく雨降る
気持の重いときには雨も粘度を持つ。

ゴキブリホイホイの歌2首。

磯野カヅオ (その時の主人公の気持ちを三十一文字で述べよ。)
御器齧り嵌りし仮の棲み処なる粘る台紙の餌食み芳し
ゴキブリの古名の「御器齧り」の麗しげなる字面を生かした歌。
ところで名古屋の駅に「御器所(ごきそ)」というのがある。由緒正しい地名だと思うのだが、「御器」なんて御器齧りしかなじみのない私は通過するたびに目の隅にゴキブリを探してしまう。

市川周 (ミルミルを飲みながら)
屋根つきの粘着シートに架かる橋わたしのしかばねをこえてゆけ
死して子孫を守るというのがゴキブリ的である。
ところで「わたしのしかばねをこえてゆけ」という大袈裟なセリフはゲームのCMで聞いた記憶があって、検索してみた。
PSの「俺の屍を越えてゆけ」、これですね。
微妙に頭いたくなるような内容で、ちょっとやりたくなったぞ。

続いて粘土の歌。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
樹脂粘土を透くまでうすく引きのばし薔薇生む姉のゆびを妬みき
器用な姉の指先。きっと形も細くて白くて、美しい指なんだろうな、と思わせる。
きっと、何でもできる優秀な姉だ。
妹が姉に嫉妬するのって、こういう場面なんだろう。
わたしは姉だけれど、嫉妬されるような姉じゃなかったので、現実にこういうことに遭遇したことはありませんが。

斉藤そよ (photover)
おさがりのあぶら粘土をまるめたらトロイメライがあふれでてくる
形を作っては崩し、また作る粘土はそうだった、油粘土と言った。
懐かしい響きだ。「おさがり」平仮名表記の「あぶら粘土」「トロイメライ」と幼い日の幸せがいっぱい詰まっているような歌だ。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
粘土板にねんどの臭い 彼岸花よけつつほそい畦を歩めり
そうそう。油粘土には匂いがあった。
嗅覚が懐かしい時代の畦道へと連れて行ってくれる。

鑑賞039「王子」 [百題百日2008]

本日の鑑賞は39番目、「王子」。
世間で最近話題になった王子といえば、「ハンカチ王子」「はにかみ王子」「王子製紙」か。
これらを詠んだ歌は思ったよりも少なかった。
ところで王子製紙、ニュースで名前が出て、私もそれをもとに歌を詠んだのだけれど、今となっては、その事件が何だったのかは思い出せない。しかし、ティッシュの商品名のみが知名度のあった王子製紙の名前をこれで覚えた人も多かっただろう。してみると、企業名を認知されるという点においては、効果があったのではないか。皮肉なことに。
また、身近なあこがれの人を「王子」と呼ぶ歌は思った通り多かった。読みながら思ったんだけれど、これってすごく昔って感じがする。わたしたちの時代としても、少女マンガの中にだけ残っていた言葉だと思うのだけれど、今の若い人でも、こういう言い方に抵抗ないのかなあ?

では、感想に行きます。
まずは、一番基本的な意味で使われた王子の歌から。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
しろき魚、しろく光る魚泳ぐらむ廃嫡されし王子の耳に
政治的闘争に敗れた王子だろう。殺されなかっただけでもましといったところか。
しかし、本人の思惑と無関係に、王子・皇子をやめることのできない現代の彼らとどっちが不幸だったか、などということも考えてしまう。

つばめ (ツバメタンカ)
王子、王とならず妻子も顧みず仏陀となりぬ。妻は帰依せず
そういえば、ブッダも王子であった。
五句が鋭い。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
結局は脇役なので劇中の王子様にはお名前がない
確かに、童話の王子様はみんな名前がなくって、脇役。
発見だなあ。また、そのまとめ方もうまいと思う。
おとぎ話を別の視点で見ようとした作品はほかにも多数あったのだが、だいたいが他のメディアですでにおなじみのものがほとんどだった。

我妻俊樹 (vaccine sale)
冷蔵庫の明るさが変わる真夜中と朝では王子と乞食みたいに
こちらは王子の登場する童話が比喩につかわれている歌。
比喩は瞬時にイメージが湧くものが多いのだけれど、この比喩はゆっくり考えて、なるほど、と思うタイプ。

続いては固有名詞に「王子」が含まれる歌。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
しづくする緑の傘をつぼめつつ雨の王子の駅に別れつ
上句、「緑」があるために瑞々しい植物のイメージが入り込んでくる。

虫 (次郎)
王子行きの電車に朝焼けのTシャツを着て眠る姫君
地名の中に「王子」を使いながらもプリンスの意味を利用している歌。
八王子といえば住宅地の方なので、朝帰りの姫君である。
ところで、この姫君を見ている人物と姫君との関係は何なんだろう。
王子様ではなさそうである。ナイト?

暮夜 宴 (青い蝶)
やわらかな天使の羽を積み込んで王子製紙のトラックは飛ぶ
別に王子製紙はティッシュばかりを作っているわけではないが、王子製紙と言えばネピアのティッシュがまず思い浮かぶ。
メルヘンチックになってしまいそうなところを「王子製紙のトラック」がうまく抑えている。

王子と玉子の字が似ているところに注目した歌からは次の1首をピックアップした。
ほんとにこれは紛らわしいですね。

行方祐美 (フーガのように)
昔からわが家の玉子は王子焼き黄色い王冠光っています
ものすごくおいしそうな卵焼きに思える。「黄色い王冠」がいいんだなあ。
この作者の家ではほんとにそう呼んでいたのか、創作なのか、短歌を鑑賞する上では関係のないことだが、好奇心がうずうず。どっちなのか知りたいって思ってしまった。なんとなく、事実であったらうれしいような。

~~~~~~
この題も意味の分からない歌が多かったのですが、何でなんでしょうね。
この題に関しては、全く理由がつかめません。

鑑賞038「有」 [百題百日2008]

今日の題は「有」。動詞の形より、名詞の一部として使われた歌が多かったです。
その名詞もバラエティーに富んでいて、いろいろな形で用いられていました。

今日は、投稿順に読んでいきます。

天国ななお (お月様は許さない)
有頂天になっていたから恋愛も有料だとは気づかなかった
デート商法の歌だと取った。まあ、そうでなくても、相手にとっては恋愛ではなかった状況。
他人から見れば単に騙されたってことでも、それを認めたくない当事者にとっては「有料」の「恋愛」。

萩 はるか (Betty's second Bar)
正しくはないしつけでもしあわせで犬と共有している枕
最近はペットの飼育もマニュアル化しているようだ。マニュアル化した人間関係が詰まんないように、マニュアル化したペットとのお付き合いなんてね。
もっとも、迷惑なペットは困るが。

青野ことり (こ と り の ( 目 ))
「古賀さんの畑でとれたトマトです」有機野菜にちいさなカード
生産者の名付きカードが販促に有効だということが知れ渡ってから、どこに行ってもそんなカードが付けられている。
だけど、販売戦略とわかっていても、信頼できそうな気がしてしまうのね。
この歌のように、生産者があたかも知り合いのように親しく感じられてしまうのだ。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
ゆうぐれの有人島の桟橋に真水を積んだ船は寄り添う
人は住むけれど、人が暮らしてゆくに足りる水が島内で供給できない島の桟橋風景。
母の里も、今では本土からパイプラインで水が送られてくるが、かつてはそんな島だった。
たぶん、日本国内では水道が引かれていて蛇口をひねれば水の出てくる生活ではあるだろうが、当然高価な水で飲用専用となる。
石鹸の泡の立たない井戸水で風呂を沸かし、洗濯をする。
そんな生活を想像して、もういちどこの歌の船を読んでほしい。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
どうしても崩壊させちやう担任の座右の銘は有言実行
学級崩壊。彼が担任になれば、必ずその学級は崩壊するということが、もう(少なくても)先生たちの間では知れ渡っている。
そんな先生の座右の銘。それを実行しているのかどうかは分からない。また、有言実行が崩壊させないために有効なのか無効なのかも読者である私には判断するすべがない。
しかし、彼の成果と座右の銘には距離を感じる。面白いような悲しいようなギャップである。
「させちゃう」という軽さがまた、そういうことがもう珍しくはない職場であることを示唆していて現場の雰囲気を伝える。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
有人の駅がきょう無人駅になり風の乗車率すこし高まる
私の利用する駅は有人の駅なのだが、昼と夜には休憩があり、夜も10時ぐらいになれば駅員さんはいなくなる。だけど、いない時間帯も人の気配はある。
ところが、一つとなりの駅は無人駅で、こちらはまったく受ける感じが違う。がらんとしていて、人の不在を強く感じさせられるのね。
この歌を読んで、そうだ、風の抜け方が違う、と納得する。「風の乗車率」というのが言い得て妙だと思った。

夏椿 (夏椿)
流産歴有に丸つけふたたびを孕まぬやうに入れたるIUD(リング
                     (IUDとは避妊の目的で子宮の中に入れる小さな器具のこと)
世の中には絶対避妊するべき時にも避妊をしない男というのがいて、そんな男と付き合う女は大きな決意をしなければならない。
たぶん、この歌の作中人物は、そんな男との付き合いで妊娠したものの、産むわけにもいかず、人工中絶をした。しかし、彼とは別れられない状況だと思う。
そんな男とは別れた方が、というのが世間一般の見方だろうが、当事者としてはそう簡単に割り切れるものでもなく・・。
たぶん、もう少し上の世代の人たちは泣いたり喚いたり、と感情たっぷりの歌を詠むのだろうな、という場面だろう。
しかし、わたしたちの世代あたりからは周りを見渡してみても、こんな感じで淡々と受け止めてしまうのがむしろ普通って感じを持つ。感情を押さえているというよりも、どこか、自分の周りの出来事であっても遠い世界の出来事のようなのだ。
私はこの淡々とした詠み口にむしろリアリティを感じる。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
秋の水ふくみて重たき有りの実を両手につつむ(きみには逢わぬ)
梨の実の中の充実を両手に感じながら、恋人(?)とは逢わない決心をしている作中の人物。
梨を「有りの実」と普段使わない言い方をしているのにも必然性がある。
満ち足りた気分が背中あたりまでは回ってこない寂しさが滲んできている。


みち。 (暴走シンドローム。)
内側か外側なのかもわからずに見上げる銀の有刺鉄線
人間は多くの場合、有刺鉄線を見る際、自分が内側にいるだとか外側にいるということを疑わないのだが、考え込んでしまうと、どちらが内なのかはどんな場合も自明のことではない。
そんな時に見上げる有刺鉄線は単に他者と自分とを分断する線としてある。



鑑賞037「V」 [百題百日2008]

今日の題は37番目、「V」です。アルファベットの題も今年の題詠からの登場です。
横文字の固有名詞に使われたものが結構あって、鑑賞を書くために、いつも以上に、検索をフルに活用した題でした。自分の無知を実感します(ためいき)。
また、ネットで文末に使われるVがハートマークの代わりだなんて、初めて知りましたよ。Wはさすがに知っていましたが。
多く詠まれた場面をあげてみると、まずは、写真を撮るときのピースマーク(Vサイン)。
若い子たちがする行為だった時代があって、子供だけがする世代があって。わたしの場合はどうだろう、とふと思ってアルバムを探してみたんですが、自分の子が物心つくまでは、写真の片隅でもこのポーズをとっている人がいないことを発見しました。地域差もありそうだけれど、年代がわかりそうな事実だなあ。
Vネックの歌も多くありました。これはだいたいその間の肌が注目されるんですね。このどきどきにはもう、いろんなメディアで何十年も付き合わされていますからねえ。ちょっと食傷気味です。

それでは、感想に行きます。
まずは形に重点のある歌から。

丸山太一 (短歌 Before Sleeping)
それほどではなかったけれどしかたなくVにしておく顔文字のくち
自分の感情を記号化するわけだから、当然、ほとんどの場合はぴったりとはいかない。
言葉ですらそうなのだから、もっと選択肢の少ない顔文字の場合は使う側にしてみれば相当無理をしないといけない場合もある。
ましてや、日本人は感情の起伏の少ない民族なので、相当感情を増幅しないことには単純なマークに当てはまらない気がする。
この作中の人物もそうなのだが、こういう場面は案外多い。

藤野唯 (Sugarmint)
でたらめな鼻歌に笑う散歩道 繋いだ手と手でつくるVの字
Vの字を世界に探してみたら、こんなVも見つかった。って感じ。
二人の距離もよくわかる。

続いてはVの音の歌。
日本語にはない発音なので、意識が音に集中する機会も多い。

ちりピ (ちりちりピピピ)
Vの音出すときみたく甘やかに君の唇かんだ始まり
みんな、英語を習い始めたころ、さんざん練習させられた。
そのことが、こんな時にふと頭をよぎるのね。
五句、、名詞どめより、もう少し余韻のある結び方のほうが良かったような気がする。

勺 禰子 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
ベルリンもベンツもBで始まれど、モンゴロイドのVの幻聴。
発見の歌。確かにそうだ。

続いてVの字を含む普通名詞・固有名詞の歌から。

ほたる (ほたるノオト)
Volvicのボトルに挿したガーベラはゆうべの事に口を噤んで
フランス産のミネラルウォーターにガーベラなんて、こじゃれた雑貨屋のような場面だが、Volvicの音はくぐもった響きがする。その音が下句と繋がっているのだ。
ところで、歌とは関係のないことだが、わたしは遠くから水を輸入するってどうよ!と思ってしまいます。その水のためにどんだけオイルを使うんだよ、と思っちゃうんだよな。で、Volvicのサイトを見に行って発見したのが
>お客様のお買い上げ1リットルあたり、10リットルの水がアフリカの井戸から生まれるのです。→1ℓfor 10ℓ
こんな活動。なんだかなあ、と思ってしまった。

村上きわみ (北緯43度)
朝帰りばかりしていたあのころの、チカの Vivienne Westwood
Vivienne Westwoodの名前は知らなかったのだが、ウィキペディアによると
>反逆性とエレガンスを兼ね備えたアヴァンギャルドなデザインで知られる。
とのこと。セックス・ピストルズのプロデュースともかかわっていた人なのね。
「愛好者」の項目でおお!こういうのか、と一発で分かった。
その中の一人でもある矢島あいのコミックなどが頭に浮かぶ。「チカ」って名前にも、時代の雰囲気があるなあ。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
Virginia Woolfあるいは桜狩り、解き放たれて雨、朝のかげ
ヴァージニア・ウルフは人間の意識の流れを、途切れたり、ふと割り込んできたりしたものをそのまま、分断されたり移ろっていくままに描く手法で描いた小説家。(昔読んだけど、覚えてないし、このへん、間違っていたら、指摘してください)
この作品は、その流れを意識して構成された短歌だろう。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
Voyageの発音があまりにVoyageでVoyageとあだ名されたる教師
若い学生の間に教師のあだ名が共有されていく場面を生き生きと描いている。
「あまりにVoyage」が乱暴といえば乱暴な表現なんだけど、逆によく分かるんだよな、これが。

伊藤なつと (やわらかいと納豆2008)
中指と人差し指を目一杯開けよ乙女だいじょうV
きゃー!と言いながら指の間からしっかり見ている女の子、という古典的なパターンをうまく使っていると思います。
ただ「だいじょうV」が音が足りないし、いまどきVはなあ、とも思う。
もともとはVの字を入れて上句の状況を詠みたかったのではないかと思うし、このVをうまく配置して、視覚的にだめ押ししたりできないかなあ。

~~~~~
ただいま~。

えっと、お知らせです。
この感想を書かせていただいている、おおもとの五十嵐きよみさんの「題詠Blog2008」給水ポイントに来年の開催についてのお知らせが載っています。
開催時期の変更なども考えられていらっしゃるようですから、ぜひご一読を。
また、「お題についてのアンケート」も集めていらっしゃいます。こちらも、ぜひ。


鑑賞036「船」 [百題百日2008]

鑑賞第36日目。本日の題は「船」です。
まずは水に浮かぶ「船」ですが、短歌では「舟」の方がよく使われているような気がしますが、違うかな?
不安定な小型の「舟」の方が短歌に詠みやすいんでしょうかね。

村上きわみ (北緯43度)
春の手が波をなだめる あと少し船のつもりでいていいですか
船という閉ざされつつも開かれた空間。閉ざされていることにより、別の回路ができるのだろうか。
船がわたくしならば普段とは違う外界との通路が開く。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
船の名を右から読んで六月の晴れ間に水のボトルを翳す
横書きの日本語を右から左に読む機会は今では非常に少ない。乗り物ぐらいだろうか。
雨の続く日々の中にぽっかりと明るい日差しの届く日がある。
常識的に考えれば、そんな日も当然あるのだが、作中の人物がその日をまるで奇跡のように受け取っているような気がするのは、その右から左に文字をたどっていることを、ことさらに歌にされているからかな。
梅雨の晴れ間ではなく「六月の晴れ間」がいいなあ。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
考えて分かることでもないらしい 午後の入り江を行く船がある
関連がありそうでなさそうな上句と下句のバランスがいい。
この船は永遠に入り江の中に居続けることになりそうだ。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
川船を漕ぎ出ださんと噺家は扇子の棹をぐいと回せり
噺家が扇子の動き一つで情景を表す場面にはしばしば驚かさせられる。
その想起させる力は短歌と少し似たところがあるような気がする。

船坂圭之介 (kei's anex room)
卵黄のあはれ黄なるを崩されて夕餉乏しき二等船室
飛行機のクラスはサービスの程度の差だと思うけれど船旅のクラスの差は(映画ぐらいでしか知らないが)、同じ船に乗っていても、まるで別の旅のようである。
しかし、そこにはそこでの楽しみがあって、この歌の作中の人物もどこか、自分がノンアッパークラスに自分が格付けされている状況を楽しんでいる風情がある。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
船べりにさやげる夜の水ありて押し殺されしものの声ごゑ
夜、船べりに寄せる波は、ちょっと不気味。

船の字を含む名詞を詠み込んだ歌から。

こはく (プラシーボ)
伝わらぬことに疲れて手放した風船 冷えた菜の花を抱く
「冷えた菜の花 」がいい。
ところで、手から離れた風船は、どこへ行くか?
わたしたち、旧世代の人間は間違いなく、空に消えると思うが、もしかして、若い人たちは違うかもしれないと、ふと思った。
というのも、もう20年ぐらい前から町や公園で手に入る風船は普通、飛んで行ってしまわないように重りがついているのね。
そんなわけで、地面から数10センチ上のあたりをゆらゆら揺れている風船というのもありか、と思ったってわけ。

カー・イーブン (ほぼ31音)
ホルマリン漬けの胎児の夢だろう春の湯船が見せているのは
合理的に読むとすれば、夢の内容がホルマリン漬けの胎児だということになるかと思うのだが、倒置のせいで別の解釈を思いついてしまう。
浴室でうとうとしている作中の人物の頭に、湯船がまるで何かの装置のように働いて、ホルマリンの中に浸かっている胎児の見ている夢が侵入している、と読めるのである。
この解釈、捨てがたいように思うんですが、どうでしょう?

~~~~~~
明日、明後日とパソコンから離れることになるので、鑑賞は2日休みます。
次回は9日の火曜日にアップする予定です。どうぞ、よろしくお願いいたします。

鑑賞035「過去」 [百題百日2008]

35日目。今日の題は「過去」。
一見詠みやすそうな題ですが、けっこう難しいところがあるように思います。
「過去」から歌を考えようとうすると、具体性を欠く表現になりやすいんですね。
たとえば、自分の体験のことを「過去」と言ってしまうより、具体的に何があったか、何をしたかに関することを歌にした方がいい場合がよくあるとおもうんですよ。

では、感想を。

振戸りく (夢のまた夢)
「君にどんな過去があっても気にしない」とバイクに話しかけてる兄よ
上句は決まり文句ですね。これを使った歌はほかにもいくつかあったが、人間対人間の中では、この後いかに展開しても面白いものにするのは難しいかな、と思うが、この歌で語りかけられているのはバイク。中古バイクを手に入れる場合、事故車かそうでないかは重要なポイントであろうが素人が見分けるのは難しい。その不安を打ち消すかのように語りかけてるお兄さんなのね。妹の見る兄という種族って側面もあるようで、面白いと思った。

椎名時慈 (タンカデカンタ)
1時間前は過去だと思い知る 母に5度目の説明をする
記憶の保持が難しくなってしまったお母さん。子にとってはやりきれない時間だろう。「5度目」がせつない。

岩井聡 (あと100年の道草)
新宿に花たちばなは香る夜の回転ドアのその先の過去
歌を読んでいて軽い混乱を覚えるのは「その先」が前を思わすのに対し、「過去」が後ろを思い起こさせるせいだろう。もちろん、その前と後ろは別のベクトルであって事実関係に混乱はないのだが。
「新宿」「回転ドア」ときわめて現代的な風景の中に紛れ込む古今集の「五月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする」の歌のイメージのあって、魅力的な歌だと思う。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
過去をひさぐかに歌詠み出だす皿のぶだうに夜満つるころ   過去 = すぎゆき
下句がいい。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
さんさんと過去からしっぽに降るひかり ずいぶん猿と雉に会わない
桃太郎の鬼退治の後日譚。いちばん身近な犬になりかわり詠まれているところがいいな。そのあたりで昼寝をしている犬のつぶやきのよう。

我妻俊樹 (vaccine sale)
だんだん過去が廊下になって磨かれている迷いとぶ蝶も映して
過去というものを視覚化した歌。こういう歌は読者がイメージを共有できるように細部を描かれることが重要なのだろう。

寒竹茄子夫 (Sing Me Back Home Before I Die)
鯖の腹割けば内部(うち)より過去の舟のなまぐさき帆に放てる炎
ミクロコスモスの歌。「なまぐざき」がいい。

吹原あやめ (ちいさくひかりかがやくもの)
ぬくもりはここにあるのに過去と鳴く鳥が予感をはこびくる森
カッコウの歌はほかにもあったが、そのなかでこの歌はそのアイディアだけにおわらず、抒情性に富んだ歌となっている。

柚木 良 (舌のうえには答えがでてる)
五時までに電車はちゃんと着きますか?それから「きみ」の過去形はなに?
謎が謎のままで心地いい歌。「過去形」の歌はたくさんあったが、効果的に詠みこむのは難しい言葉だったと思う。
比喩として使われたケースが多かったが、つかい古された比喩になってしまっていたものが多かった。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
過去形がひどくあかるく裂けていて一輪挿しにさす女郎花
「裂けていて」で一挙にイメージが広がる。

あおゆき (メソトリウム)
ようやくに近過去習うイタリア語過去もいろいろ種類あるらし
そういう過去を表す語形があるのですね。
人の思考は言語に支配されるんだそうなので、近過去を持つ言語を話す人の頭には私たちの知らない種類の概念の過去があるのだ。


鑑賞034「岡」 [百題百日2008]

今日の鑑賞は34番目の題「岡」です。
ぱっと見た時には簡単そうな題に思えたのに、いざ、歌を詠もうとしてみると、なかなか手ごわい題だったように思います。
というのも、「丘」と並べてみたときに、岡が表すものが何なのかよく分からないように思えるのです。
私自身、なかなか歌にならなくて困っていた時にちょっと書いたのですが、http://kirikoro.blog.so-net.ne.jp/2008-04-05
うまくイメージが結べませんでした。
それは、他の皆様も一緒だったのではないでしょうか。普通名詞で詠まれた「岡」の歌は非常に少なく、多くの方が地名や人名の形で詠み込まれていましたから。

では、鑑賞に行きます。
まずは、この題で一番インパクトのあった歌から。

ほきいぬ (カラフルダイアリーズ)
大発見ッ!『岡』って漢字をじっと見てッ!! なんかアザラシの顔に見えないッ!?」
これはもう、世界を変える大発見です。
だって、この歌に出会ってから、「岡」の字を見るたびにアザラシに見つめられてしまうんだもの。
隠し絵に隠された画像をひとたび見つけてしまったら、ずっと見えてしまうのと同じだ。

野坂 りう (のーずのーず)
焼きついて夢に出てきた岡(アザラシ)の後ろのファスナーちょっと気になる
この方も上記の歌のアザラシに取りつかれてしまった一人だろう。
この歌は「後ろのファスナー」に注目することにより、「岡(アザラシ)」は2次元でのイメージを保ちつつ3次元でもあるという、イメージの不思議へと深化されている。

ワンコ山田 (歩道を走る自転車のこども)
泣くことで波形の岡は均されて体内は凪ぐ そう信じてる
こちらは普通名詞の「岡」のうた。
山ではなく丘ではなく「岡」。すんなりと腑に落ちる。
波形グラフが実際の肉体の内部とうまく繋がれている。

続いて人名・会社名の歌。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
九十歳の岡井隆をおもほへばおぼおぼと闇に溺れゆく枝
近い方の近い将来。想像ではなく、予想の範囲か。
「枝」の一本は作者自身でもあるだろう。

天国ななお (お月様は許さない)
初めてのデートに持っていくための初めて買った岡本理研
備えあれば憂いなし。
「いくため」「に」、ではなく、「の」なのがいい。

地名の歌。

さかいたつろう (流星文庫)
「桜井君、岡山駅をすぎるまでこっちを見ないようにしてね」
桜井君て誰?だとか、なんで岡山? というか そもそも何で見ないでといっているの?といった疑問が生じるはずなのに、それがふしぎと歌を読む上での障害とならずにすんなりと歌の世界に入っていける。歌に流れる気分をそのまま受け取っているのかなあ。

虫 (次郎)
静岡に行ったらしいよ 時計草のつぼみばかりを庭に残して
この歌も上記の歌と同じ。意味を超えたところを読んでいるのかもしれない。

鑑賞033「すいか」 [百題百日2008]

今日の題は「すいか」です。
すいかといえば、西瓜をまず思い浮かべますが、なじみのある果物であるのに加え、いろんな側面があるので、わりと詠みやすかったのではないでしょうか。
ただし、現代仮名遣いの人は。
というのも、歴史的仮名遣いでは「すいくわ」なんですね。なんか仰々しいでしょ。普通思い浮かべる「西瓜」とはイメージのギャップが大きいように思います。そのせいか、歴史的仮名遣いで「西瓜」を詠んだ歌は少なかったように思います。
でも、幸い、同音異義語があるうえ、語の一部や文の一部として「すいか」を詠みこむことは、比較的楽だったように思います。そういう工夫をされた歌が数多くありました。

では、鑑賞を。
まずは季節外れの西瓜の歌から。

船坂圭之介 (kei's anex room)
旬に未だ及ばぬすいか寧ろ佳き 水したたるをそと口に当つ
一般的には旬のものが一番おいしいといわれるが、おいしさなんて、個人的なもの、世の中に決めつけられたくはない。
まだ甘味の乗りきらない西瓜を作中の人物はさも美味げに啜っている。

原田 町 (カトレア日記)
死の際の祖母食べたしと言うすいか真冬の街に母は探せり
作者の実体験なのではないかと思う。
死の間際に食べたいものは、きっと思い出と深く結び付いている食べ物なんだろうな、という気がする。

西瓜にはいろんな意味が付加されている。

萩 はるか (Betty's second Bar)
重そうなすいかぶら下げ祖母が来る夢ばかり見た初七日あたり
おばあさまは作中の人物にぜひ、伝えたいことがあったのでしょうね。
ぶら下げているのが「すいか」なのが、妙に納得されられてしまいます。

しろうずいずみ (花と石ころ)
ぼくたちはどうしてだろういつだってすいかばかりをわりたくて割る
「わりたくて割る」がいい。
また、「どうしてだろう」の回答を探してしまわないところで立ち止まっているところもいいと思った。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
産科医の絶滅しつつある街に切られたすいかばかりが並ぶ
少子化と西瓜の関係。目の付けどころがいい。

永時 (Holy Noises)
8月の都会の優しさで生きる 知らない誰かと分け合うすいか
結果的にはそうなっている。発見だ。

続いて、西瓜の何か。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
うすあかいすいくゎの汁を拭いてやるさつきいぢめた従弟のシャツの
歴史的仮名遣いによって結んだイメージ。

夏椿 (夏椿)
まどかなる光のなかに受胎せしすいかの蘂の黄の膨らめり
喜ばしい風景のはずなのに、どこか屈折した心理を感じるのはなぜ?

暮夜 宴 (青い蝶)
甲虫とすいかは同じ匂いだと言い張る正也、4才の夏
子供はよく、こう言いますね。私は匂いを嗅いだことはないけれど(アレに鼻を近づけるなんて!)食べ物が西瓜の汁みたいなもんだから、そんな匂いがしてもさもありなん、と思う。だが、「言い張る」とあるのでこの歌の中でその言葉を聞いている人物はそうは思ってないようだ。認めてしまえば西瓜が嫌いになるのかもしれないな。

お気楽堂 (楽歌三昧)
蚊遣り炊くついでに少し身のついたすいかの皮を虫かごにやる
歌の中に時間が流れる。
短い時間の出来事をうまくまとめられていると思った。

穴井苑子 (猫のように純情)
来年のひるねまくらをつくるためすいかの種はとっておきます
幸せな夏の一日を繰り返し見るために、かな。
ハマゴウの実を集めて枕にすると頭痛に効くそうだが、西瓜の種もリラックス効果ぐらいはありそう。思わず、来年の夏はやってみようかと思ってしまった。

富田林薫 (カツオくんは永遠の小学生。)
高橋名人すいかほじりてあつめたる種をふくみて連射してをり
高橋名人は一昔前のこどもの崇拝の的であったファミコン界のスーパースター。特技はコントローラのボタンを1秒間に16回押すという16連射であって、決して西瓜の種の連射ではない。しかし、そのいずれもが小学生男児にとっては非常に重要なことであったわけで、その価値観がこの歌を支配している点が面白いと思った。

新井蜜 (暗黒星雲)
十四の夏にあなたと寝転んだすいか畑にコンビニが建つ
思い出の場所はあちらもこちらもコンビニに侵食されているようだ。

比喩としての西瓜。

kei (シプレノート)
これが夏これがすいかの食い方と言ってるような男の背中
これが~これが~と繰り返されるくどさがこの男にふさわしい。
こんな人、いますね。

桑原憂太郎 (桑原憂太郎の短歌Blog)
頭髪をまだらに染めし女生徒にすいか頭と名付けてやつた
「やった」がいい。先生の人間としての一面がのぞいているようで。

西瓜以外の歌。

文 (f_blueな日々 題詠blog2008 )
すいかずらはつか黄ばみてゆくときのかをりを知るや少女をさなし
すいかずらの歌が多かったのは「忍」の題の時に一度は 頭にのぼっていたせいでしょうか。
終わりに近づきながら香る花とこれから、の少女。まだ、知らなくていい香りもある。

勺 禰子 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
すいかけのつつじがいきをふきかえしすいかえすようなくちづけをする
おもわず、うらやましい!と思ってしまいそうなくちづけだ。
「すいかけ」「すいかえし」の音にもくらくらする。

~~~~~~~
ピックアップする歌の数が題によって、相当変わりますね。
今年は去年以上に題によって、少ないか多いかにはっきりと分かれるように思います。

では、また明日!


鑑賞032「ルージュ」 [百題百日2008]

鑑賞、32番目の題は「ルージュ」です。
フランス語で赤、ですが、いちばん一般的なのは口紅の意味でつかわれるルージュでしょうね。
この場合に難しいのは、口紅やリップスティック、リップという言葉ではなく、この言葉を使う必然性のある場面が限られている、という点ではないでしょうか。
ちょっと前に、おしゃれなイメージで使われた言葉というのは難しいですね。

まずは、その、昔流行した、という側面から詠まれた歌を。

夏実麦太朗 (麦太朗の題詠短歌)
笑わせてくれる最後の最後までルージュで書いた別れの言葉
ルージュといえば、まず思い浮かぶのがこのシチュエーション。
もともとは映画の『モロッコ』あたりかな、と思うのだが、松任谷(荒井)由実の「ルージュの伝言」で日本人の頭にしっかり植え付けられた場面だと思う。それだけに、実際にこれをやると、ひどく滑稽で痛々しいことに…。
単なる好奇心ですが、じっさいにこれをやられた経験のある人がいたら、ぜひ、感想をお聞きしたい。

矢島かずのり (蟲短歌)
携帯が水のルージュを歌ったら夜中だろうときみは出かける
「水のルージュ」は知らなかったので調べてみた。1987年の小泉今日子のヒット曲のようである。21年前ですね。
「携帯」とあるので、当時のことを現在形で歌ったのではなく、現在が舞台の歌だろう。
となると、作中の「きみ」はいわゆるアラフォー、40歳前後ではないか。携帯を持つようになったが、着うたは20年前のもの、その当時から抜け切れない女性が浮かび上がる。化粧法も髪形も、その当時のままなのではないか、なんてことも想像される。で、20代のころと同じように、行動したがる女。けっこう痛いと思うけど、この世代の女って、多かれ少なかれ、こういう部分があるんだよな、と思う。
こうなりたいと思うモデルが不在の中で、この年代になってしまった女を見ている男の歌。この時代の男も、また、年甲斐もなく、なんて女をたしなめるのは少数なのかもしれない。男たちにもまた、モデルがない。

続いては、「ルージュ」が似合う女たち。
共通項は昔・古い、こんな感じか。

水都 歩 (水都blog)
をんななら死ぬまで紅をと言ひし女(ひと)白髪に赤きルージュ似合ひし
いまどき赤い口紅が似合うのは老齢の女しかいないだろう。こういう色・こういう人なら「ルージュ」という言葉も自然だ。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
ヒロインが白黒映画の中で引くルージュはきっと野ぶどうの色
実際には、白黒映画の時代には、紫がかった口紅はつけなかったのではないかと思うが、いかにもそんな気がするヒロインがいる。「野ぶどう色」は言葉としては世代に関係なく、イメージとして受け入れられると思うが、もしかして、実際に紫系の口紅をみんなが付けていた時代を知っているかどうかの、世代によって思い浮かべるイメージが違うのかもしれない、とも思う。
紫系の口紅が流行ったのは80年代初めごろだったか。

吉浦玲子 ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
少女なりしわれの妬心のまむかひに叔母のルージュの鮮やけき色
昔、私たちの母親世代は(現在70代以上ぐらい?)の自分が良家の夫人と信じている女性たちは皆、当たり前のように結婚をしたら地味な装いをした。それに対し、未婚の叔母たちは次々と華やかな化粧品で装っていたのだった。それは明らかに母とは別世界で、子供達はその鮮やかさに目を奪われたものった。そんな時代に子供時代を送った人の叔母なるものへのアンビヴァレントな感情。

岩井聡 (あと100年の道草)
手鏡に押しつけて折るルージュどれも母を刺すにはやわらか過ぎて
やわらかすぎるものだけれど、母を刺すのに選ぶ凶器は「ルージュ」なのである。
オイディプスの話など想起する。
この歌の場合、日常的な「口紅」より、赤という意味を持つ「ルージュ」がふさわしいだろう。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
鏡台の奥のルージュは干からびてシャネル印のクレヨンみたい
油が多いので、ほんとは「干からび」はしないのだけれど、感じとしては許容できる。
「シャネル印」がいい。シャネルだから「ルージュ」も不自然じゃないし。
個人的にはクレヨンよりクレパスの方が近い気がするのだけど。

口紅以外の「ルージュ」。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
死なば春の化粧(けはひ)のままに焼かれたしルージュオンルージュ桜襲(さくらがさね)の
「願はくば花の下にて春死なむその如月の望月のころ」。
男は偶然を願うことしかできないが、女には顔を春のさなかのように装うという手があったか。
「ルージュオンルージュ」「桜襲(さくらがさね)」というだめ押しに近い重なりが効果的。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
ムーランルージュの風車描きし絵皿一つ少し汚れて片隅にあり
昔の洋行の土産物といった風情。家の片隅には歳月が積み重なってゆく。


鑑賞031「忍」 [百題百日2008]

鑑賞の31日目。「忍」の歌です。
圧倒的に多かったのは、忍ぶ恋、人目を忍ぶ逢瀬だったのですが、現代の生活で忍ぶ恋というのは嘘っぽくなることが多いように思います。
もちろん、人目を隠さなければならないこともあるでしょうが、どっちかといえば、人目を避けてぐらいの感じじゃないかなあ。「忍ぶ」なんて言ってしまったら、たいがいの場合、「私は悲劇の主人公!」的になっちゃって、こっぱずかしいものになるように思います。
その中で、成功していると思ったのは、次の1首。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
忍び逢う夜のせつなのくちづけも記録されけり監視カメラ
下句が自己陶酔を打ち砕いているからでしょうね。この冷静さが上句の古風な「逢瀬」とうまく釣りあっている。
それにしても、監視カメラなんて、いつからどこにでもあるようになったんだろう、とちょっと心配になってしまいました。私が若い頃には、そうそうなかった、と信じたいのですが…。

伊藤真也 (クラッシュボク)
ポケットに忍ばせといた紙切れの丸文字の匂いこっそりと嗅ぐ
文字の匂いを嗅ぐというのが、何とも動物的でいい。紙切れやメモだったら、コロンか何かかな、と思うのだけれど、文字なんで、彼女(?)の体臭か何かを求めているような。直接的な匂いって気がする。

砺波湊 (トナミミナト2008)
ペンケースのすきまに忍ばせておこう ひどくこんがらかった糸くず
絡まった糸を人間関係の比喩などと、公式のように置き換えて読むと途端に面白くなくなる。
どこかでできてしまった糸くずの塊を、どうしたもんかと思って、とりあえず、ペンケースに押し込んだ作中の人物に素直に寄り添って読めばいいのだと思う。押し込んだ糸くずを見ていると、あれ、何だろう、という感じで、ちょっとひっかるんでしょうね。

村上きわみ (北緯43度)
あれは蛇 あなたの森に忍びこみ深いみどりとまじわるいのち
作中の我が決して近づけない「あなたの森」にやすやすと入り込み、根源的なところとかかわりを持つものがいる。私はいつまでたっても外側にいるのに。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
忍び入るまろきちひさきけものほど男はわれをやさしくさせぬ
前の歌で、忍び入るのを外側から見ている者にとっては蛇と思えたものも、忍び入られるものにとっては「まろきちひさきけもの」。
やすやすと懐に入ってくるものには優しくなれるのだ。

紺乃卓海 (作品小箱)
忍び寄る月へ伸ばしたあしくびにしみこんでいる窓枠の影
月光はどこか水に似ていて、その中にできる影も「しみこんで」来るような気がする。
「あしくび」「窓枠の影」が何気ないようでいて、選ばれた言葉だと思う。

夏椿 (夏椿)
忍の字をゆびさきに持つ心地せり線香花火の玉落つるまで
「忍」から恋を描くと嘘くさくなるが、この歌は「忍」から、ほのかに恋の気配が立ち上る。
忍ぶ、ということを丁寧に追った一首。

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