So-net無料ブログ作成

鑑賞030「湯気」 [百題百日2008]

鑑賞30日目は「湯気」。
この題はいいなと思う歌がとても多く、選んだ歌も多いです。
「湯気」自体が焦点のようになって、詠まれている場面が鮮明になった歌が多いように思いました。
そのためでしょうか、自分の身近なところを歌材にされている方の歌に素敵なものが多かったようです。
また、場面により、湯気の表すものが優しさであったり、怒りであったり、熱であったりと様々なんですね。
一方、幻想的な歌や空想的な歌、抽象度の高い歌を詠まれる方は逆に苦労なさっているように見受けられました。
そのなかで、定番化している場面と思われるものには「湯気の向こうのあなた」の歌がありました。正直なところ、私も最初に思い浮かべたのがこの場面でした。どこで植え付けられたイメージなんでしょうね。

それでは感想に行きます。
まずは、湯気をたてているものの歌から。

草蜉蝣 (草蜉蝣)
春を呼ぶ釘煮イカナゴ母の味 白めし山の湯気は香りて
「白めし山」が楽しい。
ところで、急速にイカナゴを炊く人の住む地域が拡大したが、この「母」はどこの人なんでしょうね。
というのも、わたしの母は北大阪在住ですが、ここ10年ちょっとは「母の味」になっています。
昔は神戸市西部あたりの名物だったと思うのですが。

赤城尚之 (うたかた)
鍋中の湯気にやさしくつつまれてブロッコリーに眠るビタミン
目に見えないブロッコリーの中のビタミンが「眠る」と表現されることにより、感覚的に存在するものへと変化している点が面白いと思った。
ただ、「やさしく」は言わなくても伝わるし、説明的。

梅田啓子 (今日のうた)
冬のあさ松の幹より湯気立ちてしづかに空へ吸はれてゆきぬ
「松の幹」と表現されているので、見たことがない情景でも読者ははっきりと再現できる。

伊藤真也 (クラッシュボク)
夕立が過ぎるのを待つ斉藤の肩からのぼる湯気を見ている
男同士だと思うのだが、この斉藤を見る目に恋愛感情のようなものを感じる。たぶん「見ている」と、一瞬のことではなく、しばらく視線が そこにとどまっているのが感じられるせいだろう。

西原まこと (羽根があること)
コーヒーの湯気は消え去り生ぬるい液体としてのわたしが在った
コーヒーカップから自分の内部へとゆるやかにスリップしていく感じが魅力的。

流水 (流水(るすい)の短歌Caf'e)
唐突に忘られぬよう湯気を噴く電気ポットは空気読めない
よくある状況だけれど、すぐに忘れてしまう状況。それを歌にすると、発見の歌となるんだなあ。

天国ななお (お月様は許さない)
肌色の影ゆらめいて折り戸から「タオルかして」と伸びる手に湯気
手からあがる湯気にリアリティを感じる。

斉藤そよ (photover)
けんめいにこの白樺が汲み上げた水だ やさしく立ち昇る湯気
木や草と親しい人の見る湯気。
わたしたちの知らなかった白樺を教えてくれる。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
誰からもさわられないのに体からしあわせそうに湯気がでている
気持にはかかわりなく、体からは湯気が出てきて、湯気はなんだか幸せそうで。困ってしまう。
「湯気が出ている」のあとに本人の気持ちまで詠んでしまうと歌はとたんに面白くなくなる。

小早川忠義 (ただよし)
頭より湯気たなびかせ笑ひ合ふ校庭脇の水飲み場にて
「たなびかせ」がいい。

矢島かずのり (蟲短歌)
こちらからあちらを目指す男子から隠すあちらの湯気になりたい
めちゃくちゃ回りくどく詠んでいるが、簡単にいえば「女風呂の湯気になりたい」。
その屈折こそが、覗きの本質なんですかねえ。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
真夜中の排水溝から立ち昇る湯気は路上に影をひろげて
黒い影から免れている部分にも広がる白い影。

FOXY (ぎゃらりーFOX通信)
湯気立ちて鰻蒸す香のする辺り 白衣姿のひそひそ話
厨房の無駄話は感じが悪いものだ。いくらうなぎがうまそうな香を立てていても。
「ひそひそ話」はもう少し具体的な描写ができると思うのだが。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
湯気あがる排気口よけ歩み去る黒のやせ犬ふり返りつつ
人気のない真夜中の町。「排水口よけ」がいい。

水野加奈 (水の中)
美容師に耳もきれいに洗われて湯気たてているやよいさんがつ
人に耳を洗われるのって、すごく心地いいのだが、その気分はまさしく「やよいさんがつ」だなと思う。

現実の湯気以外の歌。

小籠良夜 (《冥の逸脱》)
さも魔女の鍋に湯気たつ心地してハーブだらけのバスタブに入る
バスタブを「ハーブだらけ」にした人が魔女ということになるか。
ハーブから魔女の鍋までは容易に思いつくけれど、自分が鍋に煮られているところはなかなか想像しない。

やましろひでゆき (短歌とか短歌とか短歌とか)
湯気の波線を頭上に描いてやる怒った顔がわかりにくいから
昔は想像上の行為であったが、最近では、写メールなんかに、実際、普通に書きいれたりするようですね。


行方祐美 (フーガのように)
湯気となり包んでくるる人だからたまにはうんと言ってもいいか
湯気に包まれると、思わず油断してしまう。よく分かる比喩だ。

みずき (空)
湯気たてて土鍋に落とす怒り癖あしたの見えぬ箸つつきあふ
湯気を立てているのは土鍋ではなく作中の人物だというつながりの面白さ。「怒り癖」がいい。

市川周 (ミルミルを飲みながら)
フランス語で「湯気とメガネ」という意味のカフェがつぶれてコンビニになる
いかにもフランスって感じの店の名前。店も多分、独特の雰囲気があったのだろうな、と思う。それが画一的なコンビニの店舗へと変わり町はまた、一つ個性を失う。






鑑賞029「杖」 [百題百日2008]

29番目の題は「杖」。
歩くときに補助として用いる棒、という意味ではなじみのない人も多いだろうなと思います。
幸いに、「頬杖」「松葉杖」「虎杖」など、「杖」の字を含む単語を探せば、身近なものも見つかりそうですが。
まずは、もともとの意味での「杖」の歌から。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
道端で拾いし枝を杖としてせせらぎの音辿りつつ行く
山歩きの歌。山では老若にかかわりなく、杖を持つ。沢沿いの道を行く作中の人物。山の爽やかさの伝わる歌だ。
杖として使いやすい枝がすぐに見つかる場所に落ちていた場合、誰かが使ったものであったり、このあと誰かに使われることも多い。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
ガレージに置かれしままの父の杖白く乾ける泥も残りて
お父様はもう、杖をついても歩けなくなられたか、あるいは。
歌の感じからして、よくなられて、というふうには読めない。
愛用の品には持主の痕跡が残る。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
御杖とてきよく朽ちゆくひめみこの御肌膚やあきづ羽に似る   御肌膚 = おほんはだへ
美しい。

カー・イーブン (ほぼ31音)
偽装だと言う人もいる整体院忘れ物ボックスの杖三本
あまりにもありそうというか、現実に応用可能だな、これは。

次に、比喩として使われた「杖」の歌。

青野ことり (こ と り の ( 目 ))
決定的になにかが変わってしまう気がするのでしょうね 杖をゆるせば
「決定的に」が、この歌をきりっとしたものにしている気がする。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
君の骨いっぽんはずし作る杖 空(くう)を切るときかなしげに鳴く
「君」をいくら理解しようとしても「君」には触れえない作中の人物、と読んだが。

続いて、虎杖の歌。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
虎杖の茂みを分けて呼びながら行けばはるかな痛みがかえる
大きく育った暗い虎杖の茂みに分け入れば、虎杖はぽきぽきと音を立てるだろう。「はるかな痛み」を思い出すような。

村上きわみ (北緯43度)
もう遠いこころになってわたしたち虎杖の茎くわえてあるく
前の歌では「はるかな」この歌では「遠い」という形容詞が用いられている。
私自身は大人になってから親しむようになった植物なのだが、虎杖を見て子供の頃の話を語る人には何人も出会った。喉が乾いたら、折り取って噛んだりしたものらしい。味覚と結びついていて、子供時代を強く思い出させる植物なんだろう。

頬杖・松葉杖。

永時(Holy Noises)
禁煙をしたので君を待つことが少し苦手になって頬杖
禁煙で手持無沙汰になった手。こんなところから、人間関係が崩れていくのかもしれない。
「したので」のところがちょっと理屈っぽく、散文的な感じを与えているようにも思うが。

小野伊都子 ( cahier bleu)
ずるすぎる 松葉杖だとさらにまた学生服がかっこよくなる
こういう時代もあったよなあ、と思い出す。松葉杖をついた子をかっこいいと思ったことはなくっても。
「ずるすぎる」がその時代の気分に連れて行ってくれるのね、きっと。
もう少したつと、こんなもんでかっこよく見えてしまう自分が嫌になって、その後にはそんなものには全く心を動かされない時代が長く続く…。

鑑賞028「供」 [百題百日2008]

今日、28日目の題は「供」です。
この題もなかなか難しいですね。
「供える」ことは現代の生活ではまれなことになっていますし、この字を含む言葉にしても、事務的な言葉が多く、歌によく出てくる言葉としては「子供」ぐらいでしょうか。その子供も、漢字表記で使われることは少ないように思います。そのせいか「子ども」表記問題についての歌が多かったですね。
あとは「お供」がありますが、この言葉も使える場面が少ないですね。彼女の「お供」って感じの歌が多かったんですが、似たり寄ったりの歌が多かったように思います。

まずは「供える」歌から。

泉 (つれづれ亭)
持分を呑み干してより行きしゆゑ彼岸の父に供ふる甘味
亡くなったお父様の墓前に酒を供える歌は多かったのですが、この歌では「甘味」が供えられている。
しかも、甘党だったというのではなく、生前はかなりの量のお酒を飲まれた方のようだ。そういう方に対しては、あの世出ぐらいは好きなだけお酒を飲んでと、お酒を供えることが多いのだと思うのであるが、この作中の人物は、もう、「持ち分を呑み干した」たというのだ。生前の愛憎を整理した潔さを感じる。

続いて供花の歌。

行方祐美 (フーガのように)
供花抱きのぼる坂道からからと壊れてゆけるあなたがこわい
誰かの死を契機に「壊れてゆ」く人なのだろうか。「坂道からからと」が前後を橋渡しする枠割を果たしている。
「こわい」は「あなた」がというよりも、見守るしかなくて止めようのないものに対する怖さだろう。
どうかいい方向に、と願うのみです。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
供花朽ちて訪うひとのなき墓ひとつふたつ数えて晩夏を歩く
晩夏は蝉をはじめとする昆虫の死骸を多く目にする季節だ。
墓は普通、数えるということはしない。それを数えるのはどの死も等価としてとらえられている、ということだろう。どこか、蝉の死骸を数えることと近い感じがする。
盆が特定の死者を身近に感じる季節としたら、晩夏は死そのものを強く意識させられる季節かもしれない。
そして、数えるという行為からは、整然と並ぶ大規模な霊園の墓ではなく、山のふもとなどに、いくつか固まってあるような小さな墓地だろう、という風景も見えてくる。

春畑 茜 (茶話なごやん)
供花とぞ運ばれ来たる花々の匂ひはひとの死後をはなやぐ
供花は菊や百合など、香りの強いものが多い。「死後をはなやぐ」言われてみれば、そうだなあ、と思う。
主役亡きあとの華やぎは一層さびしい感じがする。

供養の歌。

橘 みちよ (夜間飛行)
廃院に供養されざる手術器具棚に並びゐる光放ちつつ
こんな廃院が舞台のホラー映画がありそうだ。

お供の歌。

陸王 (Always Walking with Yu)
きびだんご欲しさにキジがお供して 見ると背中にネギをしょってる
お供といえば彼女のアッシー君(もはや死語だな)的なお供か、桃太郎。桃太郎の歌を下敷きにした歌も多かった。
この歌はキジがネギをしょっているところにひねりがある。
キジもカモと同じく食用の鳥なので、いざという時にはそういう役にも立つのか、と。
そして、犬・猿も食べるよなあ、と思う。
注文の多い料理店的転換が可能な物語だったのか。

野良ゆうき (野良犬的)
そうだなあお供しますと言われても猫の君には…でもありがとう
児童書の中の少年と猫のよう。
会話が自然なのが魅力。

最後は「子供」の歌。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
赤い字の子供料金うらやましい 大人ですから黙ってるけど
どこが大人やねん!と言いたくなる作中人物が魅力的。
「赤い字の子供料金うらやましい」なんて狙おうとしてもなかなか出てくるもんじゃないと思う。

鑑賞027「消毒」 [百題百日2008]

鑑賞27日目。「消毒」です。
今年は苦労する題が続きますね。
でも、うまくいけば自分の歌の幅が広げられそうな気がします。

今日の題では機智の歌を得意とする人や鋭い社会批判を歌にする人の得意とする題じゃないかと思っていたのですが、読んでみると、あんがい不発だったかな、といった印象を持ちました。

では、感想を。
まずは病院か、あるいは何かの施設の歌から。

柚木 良 (舌のうえには答えがでてる)
ぼくはまた遠いところに来たらしい消毒液の匂わぬ白衣
「消毒液が匂わぬ」とはどういうことか。病院にはあまり行かないので知らないが、もしかしたら、消毒の方法が変わって、無臭か、従来の消毒液とは違う匂いとなっているところもあるのかもしれない。
あるいは、作中人物の心理的なものなのか。
いずれにせよ、実際には医者や看護士の白衣がみな、消毒液の匂いがするわけでもないのだが、一般的には消毒液は医者の白衣の属性とされている。その属性を失ったものと接する落ち着かなさを「遠いところ」と感じたのだろう。その遠さは自分が希薄になるような感覚を伴っていそうに思う。

椎名時慈 (タンカデカンタ)
大切なひとを世話した指と手を消毒液につけた冷たさ
「大切なひと」との関係や、場所に関する情報はすべて捨てられている。
残された内容は、大切な人を世話し、その後で、自分の手を消毒した、ということのみ。
しかし、大事なところはすべて残されていると思う。
心をこめて大事な人に触れた指を、手を、消毒する。頭では必要なこととは分かっていても、心がついていかないのだ。
「指と手を」をどっちも手じゃないか、といってしまえば歌は成り立たないわけで、まずは指先を漬け、しばらくのためらいののち、手の全体を浸すという心の動きが読み取れる。ただ、「冷たさ」は言いすぎの感あり。

家庭の中の消毒。

村上きわみ (北緯43度)
肉体は国土にも似て傷口に朝の消毒薬は泡立つ
この方の歌はどんな題でも自分の歌にされるのだなあ、と感嘆してしまう。
大胆、独自でありながら、実感として理解できる比喩が一つの力なんだろうな、と思う。

春畑 茜 (茶話なごやん)
両の手を消毒液に浸したり怒りはいまだ昼を燃ゆれど
鎮めようとしても鎮まらない怒り。
「昼を燃ゆれど」が照りつける日のようで、怒りに実感を与えている。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
哺乳瓶煮沸消毒ドクのなか母のいるのをたしかめながら
毒と薬は表裏一体。母もまた。
発見としてはそうオリジナルではないが、哺乳瓶との取り合わせが母の像を一層強固にして効果的。

吉浦玲子 ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
たどきなき夜の記憶に哺乳瓶の消毒の湯の滾(たぎ)るを待ちき
こちらの母は毒までは意識していないが、幸せ一辺倒の母ではない。
子を育む幸福感を感じながらも、どっぷりと疲れ、満たされない気分をも持つ、母が一番母であった時代を思い出しているのだろう。

町の消毒。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
時雨ふるまひるさびしい路地裏に消毒液のしるく匂える
雨の日は匂いのあるものはその匂いをますます強くする。
しかし、その匂いを嗅ぐ人の心理状態によってもその強さは変わってくる。
上句の音の流れが心情に沿うかのよう。

勺 禰 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
毒を消す、菌を殺す、と並べみて消毒液はやさしと思ふ
なるほど、と思った。
消毒をしてくれる人のことを思ってやさしく感じるのかと思っていたが、そうでもないらしい。殺菌してくれる人はやさしいとは思わないものなあ。

~~~~~~
歌の作者名とブログ名の表記がころころ変わって、ごめんなさい。
わたしの作業のしやすい方式で、なおかつ見栄えがそう悪くないように、と試行錯誤してみたのですが、やはり、この形に落ち着きました。今後はこの形式で行きますね。

鑑賞026「基」 [百題百日2008]

26日目。本日の題は「基」。
どのように歌に詠み込もうか、迷う題なのではないでしょうか。
いろいろな使い方は考えられるものの、なかなか難しい題だったのではないかと思います。
この題の歌には、意味がよく分からない歌が多く見られました。
塩基や基板など、私がよく理解していない言葉がたくさんあって、という理由もありますが、それ以上に説明不足なのでは、と思われる歌が多くありました。
使いなれない言葉を歌に取り入れることに腐心しているうちに、抜かしてはいけない情報がどっかに行ってしまったのかもしれませんね。

先ずはたぶん一番多く詠まれたのではないでしょうか、子供の秘密基地の歌から。
「最近どんどんなくなってしまって寂しいものランキング」でも上位にランクインしているものなので、やはり懐かしく思う人が多いのだろう。

我妻俊樹 (vaccine sale)
虫にやるために殺した虫を置くぼくらにとっての基地のように
基地とは何であったのか。
肉食性昆虫に餌をやっているのではなさそうだ。それならば生きたまま差し出さねばなるまい。
では何か。
どこか贄を捧げる儀式のようである。となれば、基地は贄のようなものだったのか。
よくは読み解けないが、子供の残酷さの中の神聖さを思い起こさせられる1首だ。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
あけがたのにおいがしてるダンボールぼくらの基地の霜注意報
意外な物の放つ季節の匂い。上句がいい。

続いて、一番基本的な意味になるのかな。しかし、あまりなじみのなかった言葉。(わたしにとっては)

久野はすみ (ぺんぺん100%)
鷺草のさぎ飛ぶごとき夏の宵くらき基をふみしめて立つ   (ルビ 基=もとい)
周りのものがすべて、頼りなく感じられるときには足元を固める。
夏の宵とはそういう時間だ。

単語や人名の一部に使われている歌から。

村上きわみ (北緯43度)
基準値をはるかにこえる夕闇をからだにいれて持ち帰るひと
固い言葉を歌に取り入れるのはなかなか難しいのだが、詩的に詠み込まれている。

砺波湊 (トナミミナト2008)
梅雨去りしのちの夏空濃かりけり松村雄基の眉よりもなお
松村雄基 の顔なんて、あまり詳しくないので名前だけではたぶん、思い出せなかっただろうが、この歌を読んで一発で思い出した。
そうだ、こんな顔をした俳優さんだ。
眉の濃い俳優はたくさんいるだろうが、この歌に似合うのはこの人という感じがする。

岩井聡 (あと100年の道草)
鉄火場で啜る紅茶のほろ苦さかつて基督なる舎兄いて
基督と鉄火場・舎弟。意外なようでいて、そうでもない感じがする。
どう読めばいいのか、何通りもの読みの中で迷うが、そのすべてが重層的に重なり、油絵の重厚さが漂う。

一基二基と数えられるものがある。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
いばら姫、ふとも思へり水ふかぬ噴水一基藻のいろを湛ふ
噴水が城、藻がいばらという連想だろう。
眠り姫ではなくいばら姫と表現されていることから、囚われているもの、という側面が強く意識される。
あるいは作者自身の投影もあるのかもしれない。

寒竹茄子夫 (Sing Me Back Home Before I Die)
一基の墓碑銘輝き満ちしくれなゐの俗名ながめて帰る青年
墓碑に刻まれた赤い文字は生者を表しているはずなのだが、どこか禍々しい印象を持つ。

~~~~~~

今日選んだ歌は難解なものが多くって、なかなか苦労しました。
誤読していると思われたり、別の読みをなさった方は、教えてくださると、ありがたいです♪

鑑賞025「あられ」 [百題百日2008]

鑑賞25日目。きょうは「あられ」です。

まずは空から降る「あられ」があります。
「雹」と「霰」はどう違うのか。気になった人も多くって、それに関する歌もいくつかありました。氷の粒の直径が5ミリ以下のものを「あられ」と呼ぶんですね。
この意味で詠まれた歌はあまり多くはありませんでした。めったにお目にかかれない天気だけに、記憶の中で何かと結びついているものが、あまりないのかもしれません。

田丸まひる (ほおずり練習帳。)
くもりのちあられあめゆき困ります困っていないひとのゆびさき
この歌の「あられあめゆき」は実際の天気というより、語感で選ばれているように思える。
確かにちょっと困ったお天気なのだけれど。
その「困ります」はお天気のことなのだが、序詞的な使い方といっていいのかな、こちらは主に気分を表わしていて、内容的には指先が困る、っていう(ほんとは困ってなさそうだけど)方が中心となっている。

砺波湊 (トナミミナト2008)
雪玉に積み木を隠しているごとき天気記号の《あられ》見上げる
この歌では天気記号の《あられ》が詠まれている。
円とその円に接した正三角形の形だ。あれ、武田薬品のマークと似ている。(中の三角が霰は白抜き、武田は赤色)
ところで、天気記号を見上げるとは、どんな状況だろう。街角の大型スクリーンに映し出された天気予報だろうか。いずれにせよ、屋外って感じがするなあ。それだからこそ、雪玉なんて連想が働いた感じがする。

続いて、菓子のあられの歌から。この使い方ではひなあられが非常にたくさん詠まれていた。それも全期間を通して。
これは「あられ」って、立ち止まって考えると、おせんべいやおかきとの差が分かりにくいことから来ているんじゃないか。ちなみにせんべいとは原材料が違い(あられはもち米、せんべいはうるち米他)。おかきとの違いははっきり決まってないようで大きさの小さいものをあられというという説が有力のようだが、関西人はあられもおかきの一種だと思っていないかなあ。少なくても私の中ではそうで、海苔巻あられなんて、どう考えてもおかきだ。

此花壱悟 (此花帖)
桃色のあられひとつぶおしいだき懐紙に畳む喜寿の雛君
血色がよく、つるんとした感じのおばあさんって、そういえばお雛様に似ているかも。
雛君が人間のおばあさんのようでもあり、長く家にあるお雛様のようでもあり、不思議な感じがする。
この感じは初句の「桃色」がどうも作用して生じているような気がする。

史之春風 (はちぶんめblog)
ばあちゃんが(あられかきもちかりんとう)いつも持ってた(しんなりしてた)
おばあちゃんというものは孫が来るのを楽しみに、お菓子を買いだめて置く。で、老人の時間は自分が思っている以上に早く過ぎ去るので賞味期限などはあっという間に過ぎ去ってしまうのである。「しんなりしてた」はおばあちゃんが孫を待ちわび待ちくたびれていた時間なんだろう。

ろくもじ (タンカコタンカ 題詠篇)
チーカマを買 ってこいって言ったのにあられが無駄にくれるしあわせ
「無駄にくれるしあわせ」というのが何ともねぇ。もう、40年ぐらいこんな時代が続いてるんだなあ。
幸せっていやあ幸せなんだろうけれど、無力感と不全感を伴う時代の幸せである。
それから、買ってきてくれた人がいるはずなのに、「しあわせ」をくれるものが人ではなくあられというものであるという点にも時代を感じる。

~~~~~
あと、「あられもない」という使い方の歌もわりにあったのですが、なかなか使い方の難しい言葉だな、という感想を持ちました。

では、また明日♪

鑑賞024「岸」 [百題百日2008]

今日、24日目の題は「岸」です。
一番多かったのはやはり川岸・海岸など、水と陸の接しているところ、という意味で使われた歌でした。
この意味で詠む時には漠然とした言葉なので、イメージを絞る必要があると思うのですが(必ずしも歌になった時に鮮明にする必要はないと思うのですが、作者の中では鮮明にしておく必要があると思います)ぼんやりとした印象の歌が多いように思いました。
(なんて、偉そうに言ってますけど、私自身も失敗してます・汗)
あとは魚河岸の歌がちらほら、「河岸を変える」の形で、また人の名はいろいろ出てきましたね。
彼岸の歌は2度ピークがあったんですけど、きっと、春秋の彼岸の時期に投稿されたものが多かったのでしょう。
秋には彼岸花の花の歌が増えました。やはり、その時期でないとあまり思い出されないものもあるようですね。

遥遥) (たんかのきりかた)
住の江の岸による波ひるだけはモーターボートとぐるぐる回れ
百人一首の歌の本歌取り。ところが、関西の人間は「住之江」と聞けば即座に「ボートレース」と続けてしまう習性がある。
それはすべてテレビCMのせい。刷り込まれてしまっているのね。
ある年齢以上の人間は別だが(私はこちら側…)、それ以下の人たちは百人一首に初めて接したとき「ボートレースの住之江や!」とみんな思ったのではないかしらん。
百人一首を読みながらもついつい頭の中をモーターボートが走っているってところを正直に詠んでいるんだと思います。
ところで、この百人一首の住之江とモーターボートの住之江は同じ場所なんでしょうかね。ちょっと知りたい。

本田鈴雨) (鈴雨日記)
向かう岸が異国となつてしまつたら イムジン思(も)ひつつ渡る江戸川
川を渡るということは橋をわたるということだが、この「はし」を日本人は境界として意識してきた民族のようだ。
そのため、少し大きな橋をこちら側から向こう岸へと渡るとき、自ずと違う世界に入るような感覚を少し覚える。
その感覚があるため「イムジン河」との連想が頭での知識を超えて、体感としての断絶を呼び起こす。
 
桑原憂太郎) (桑原憂太郎の短歌Blog)
対岸の火事にて3学年のクレエムを2学年教師がぼんやりと知る
「対岸の火事」は成句だが、簡潔にスタンスを伝えるという点でうまく使われていると思う。
先生は一丸となって対処しているのかと思っていたのだが、そうではないらしい。
もっとも、切り離して考えないことには、身も心も持たない仕事なのだろう。

近藤かすみ)   (気まぐれ徒然かすみ草)
宵闇の向かう岸なるビストロは黄金(きん)のひかりを撒きつつ浮かぶ
下句、川面に映る光の様子がうまく表現されていると思う。
「向かう岸」という遠さも味がある。

夏椿) (夏椿)
銀杏の実のごと岸に散らばりて老ら無心に陽を集めゐつ
無個性に散らばっている老人たちを見る目がどこかクール。
ちょっと突き放したような感覚がシュールレアリズムの絵画を思わせる。

ひぐらしひなつ) (エデンの廃園)
どこまでを流されながら六月の岸にやさしく沿う紙の舟
「紙の舟」の頼りなさげで、やがて沈むものというところからの連想だろうか、オフェーリアを思い出す。
初句の「を」が二句と三句の間に軽い断絶を生み、転調のような効果を生み出していると思う。

大辻隆弘) (大辻隆弘 題詠100首のために)
ひとはたれも岸を抱くとぞ葦のうへにあしたの雪を薄く積む岸
抱くのは葦でも海や湖でもなく岸そのものなのである。
う~ん。難しい。

沼尻つた子) (つたいあるけ)
わたしには渡れぬ岸に立つきみの髪かきむしるためのモンスーン
モンスーンがセクシーじゃないか。
 
小椋庵月) (みのたけのしぃの実)
春からは都会で学ぶ従姉から彼岸参りのお誘いメール
従姉が故郷で暮らす最後の彼岸の一日を共に過ごそうという歌、と思い、いいな、と思ったのだが、よくよく読んでみると、従姉はもう既に都会で暮らしていて、帰省で帰ってくるともとれるか。

春畑 茜) (茶話なごやん)
この秋の彼岸の日々も過ぎゆきて午後石みちに日が差してをり
暑かった日々も終わり、彼岸を境に日差しは長くなってゆく。
そして、陽が恩寵のように感じられる季節となる。
静かな歌だ。

鑑賞023「用紙」 [百題百日2008]

23番目の題は「用紙」でした。「紙」だけならば詠みやすい題だったのでは、と思うのですが、「用」の字がつくと、とたんに難しくなりますね。非常に限定されてしまう。
一番多く詠まれていたのはコピー用紙などの事務用紙。身近といえば身近なんでしょうが、イマジネーションが広がりにくい素材って感じがしました。
次に目立ったのが画用紙ですが、昔はみんなお世話になったものですが、すっかり忘却のかなた、って人も多いのでは。ぼんやりと思いだしたぐらいじゃ歌にならないんですよね。せめて、きっちりと思い出さないことには…。

では、感想に行きます。
まずは用紙の製造過程に思いを巡らせた歌。

池田潤) (神様、ぼくは。)
必要とされるものになるためにどれほど端を切ったの?用紙
今の生活の中で用いられる「用紙」というものは寸分の狂いもなく、同じ大きさでなければならない。
そのために、製品となる時には端の部分がすっぱりと切り落とされることになる。
そこに人間に関連のある何らかの暗喩を読みとって詠まれた歌。
視点が面白いと思った。
ただ、二句六音なのが、ひっかかった。たった1音なんだけど、全体のリズムを狂わしてしまっているような・・。

次に、紙詰まりの歌を2首。

村上きわみ) (北緯43度)
ふくらんだ春の用紙を噛んだまま深くねむってしまう複写機
まるで猫のようなコピー機。
春以外の季節では成り立たない歌だ。あたかも動物の腹部のような機械内部の熱へと想像が及ぶ。

吉浦玲子) ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
コピー機に詰まりし用紙除かむとむきになりゆく午後のゆびさき
似た状況の歌はいくつかあったが、上手い方のうたはやはり違う。
初心者は初句二句のあとに自分の真情吐露などをやりがちだ。しかし、それでは具体が足りない。状況説明でしかないのだ。この歌では場面を丁重に書くことにより、心情を描くことに成功していると思う。
「むきになりゆく」「ゆびさき」と指へと焦点が当てられることにより際立つ苛立ち。また、午後という時間の限定も、作中人物の心情を想像するのに大きな助けになっている。

柚木 良) (舌のうえには答えがでてる)
ざらざらの用紙の上を眼が滑る 丙(へい)の過失を許せずにいる
訴状か何か、裁判関係の書類だろう。
事件の内容については全く分からないが、その書類を読む作中人物の視線がきっちりと追われて「丙(へい)」という文章上の文字まで読者を導いているので、場面の具体性を感じる。

紺乃卓海) (作品小箱)
筆先で含ませるみず 画用紙の奥底へ垂らす梯子のように
わずか1ミリにも足りないような画用紙の厚さの中で起こる世界の変化である。
肉眼では確認できない事柄も、心の眼で見ればこのように見られるだろう。

萱野芙蓉) (Willow Pillow)
手すさびに雨を降らする男ゐてわが髪ぬれぬ画用紙のうち
上句の謎の余韻を味わううちに、作中のわれが、一首の短歌の中の画用紙の中、と入れ子世界の中に閉じ込められていることに気づく。謎が新たな謎を呼ぶような心地の中で今いる世界自体がまた別の世界の一部のような頼りなさを感じてしまう。

~~~~~

びっくりしたのは、締め切り前の用紙切れや紙詰まりでパニック!という歌の多さ。
実際に体験した人も多いんでしょうね。
急いでいる時に限ってトラブルを起こす、というよりも、それだけトラブルを起こしやすい機械だということなんですよね。それぐらいの時間的余裕は持っておけよ、と他人だから思えるんですけど、自分が当事者ならば、やっぱりやってしまう失敗なんですよね。困ったものだ。

鑑賞022「低」 [百題百日2008]

鑑賞22日目。本日の題は「低」です。
使用頻度も高い言葉ですし、単語の一部としても、なじみのある言葉がたくさんある、詠みやすい題だったのではないでしょうか。
その中で、なかなか歌にするには難しそうなのに多いなあ、と思ったのは、「水は高きから低きへ流れる」という言葉を詠み込んだ歌でした。
「低」から連想しやすいことばなのでしょう。でもやはり、決まり文句のようなものですから、なかなか魅力的な歌にするのは難しいと思います。
その中で、いいと思った歌は次の歌。

西巻真) (ダストテイル-短歌と散文のブログ-)
低いところに水は流れるあなたからわたしのほうへ仕事がまわる
初句二句と、その後とのつながりがゆるやかで、想像を呼び込む余地がある。
「あなた」より「わたし」の方が仕事をこなす能力が低いのかな、と一応は読めるのだけれど、そう限定してしまわないところがいいところなのだと思う。

続いて低いところにあるものたちの歌。

たちつぼすみれ) (花・鳥・風・月)
木漏れ日をあまねく吸ひて下草は低きところに棲む術を持つ
植物は自ら動くことができない代わり、その場で生存していくための戦略を持っている。
初句二句が具体的な描写となっており、説明的な歌になるのを逃れている。

大辻隆弘) (大辻隆弘 題詠100首のために)
低き陽が机のしたに這ひ入りて暖めてをり脛のこぶらを
舌を持っている陽のような気がする。触覚的。
「脛のこぶら」は一瞬、同語反復的な感じを受けたのだが、思い出してみれば昔、その部分のことを「すねこぶら」とも呼んでいたような気がする。

丸山汰一) (短歌 Before Sleeping)
きみがさす相合傘はいつだってあたまがつかえるくらい低くて
自らの経験の中を探して見つけた「低」だと思う。
身長差のあるカップルだろう。背の低い人が背の高い人に傘を差しかけると手をいっぱいに伸ばさなければならない。がんばっていても、ついつい傘は下方へと降りてきて、頭すれすれのところにとどまる。男の方は快適ではないのだが、女の子の差しかけてくれる優しさを保っていたくてそのまましばらく歩く。そのやさしさを堪能した男の子はきっと女の子の傘をさりげなく自分の手に移すのだろうな、などとその後も想像した。
 
沼尻つた子) (つたいあるけ)
背の低い男のつむじを思いだす真夜中まわす洗濯槽に
洗濯槽に生じる渦に思い出されるつむじ。
思い出は変なところばかりを残してしまうことがあるのだが、これもそんなところだろうか。
真夜中というのは変なことばかり思いだされる刻だ。

次は声の歌。
声に関する歌は多かった。低い声というものは長く心に残るもののような気もする。

船坂圭之介) (kei's anex room)
背に寒き春の木枯らし遠来の亡友(とも)か呼ぶのは 低き声音で
人生のある時期に来ると、亡くなる友人が一気に増えるものらしい。
こちら側に呼び止めてくる声と、向こう側から呼びかけてくる声と、そんな声の交差する中に生きているような気がするのだろうか。

小早川忠義) (ただよし)
落ち着きと余裕を見するためなりき指示は半音声低くして
他の歌から、学校の先生をなさっているのではないかと思うのだが、効果を考えた上での発声、なるほどなあ、と思う。
なかなか新鮮な職業詠だ。

レベルが低い?

遠藤しなもん) (忘れちゃった。)
明確な表示がなくて勢いでレベルが低いままボス戦へ
最近はゲームなどしなくなってしまったが。
昔やっていたころの記憶をたどると、こんなこと、あったなあ、と思う。
油断して踏み込んでしまうといきなり、あれ、私ボス戦やってるよ~~、準備してないぜ!ってこと。
良質なゲームは人生を考える、大きな契機となるというところで書物に近い。
なのに、なぜ、ゲームばかりが悪者とされるのだろう。
いや、その昔は本を読むことも有害だとして制限されていた時代があった。

拓哉人形) (銀鱗歌)
低酸素運動強化月間にスロー再生で見るAV
作中の人物は持久力のアップという点が頭にあるのだろう。
ただ、見ているだけなのか、他の運動を伴っての鑑賞なのかは分からないが、いずれにせよ、あまり効果がなさそうなところがミソ。

低気圧、低血圧に低血糖の歌も多かったが、西高東低の歌もわりにあった。

橘 こよみ) (aglio-e-olio)
じわじわとおしよせてくるなみゆゑに西高東低やさしかるべし
西高東低といえば厳し寒さを思うが、この作者は「やさしかるべし」と詠む。
なるほど、等圧線を眺めていれば、波紋のようにも見える。
ユニークな視点を独自の叙情へと展開させており、いい。

佐山みはる)再投稿 (月待ち人の窓辺)
天気図に西高東低著(しる)ければ柿の実色のスカーフを選(よ)る
木枯らしの吹く日に胸元にともる柿色の光。ぼんやりとそこから温まっていきそうだ。
ところで、スカーフやショールは色によっては着用して自然な期間が非常に限られるものがある。
この、柿の実色のスカーフもそうなんじゃないかな。
やっとこのスカーフが巻ける日だという喜びもあるように思う。

鑑賞021「サッカー」 [百題百日2008]

21日目、今日の題は「サッカー」です。
誰でもが知っているのは球技のサッカー、その意味での歌がやはり多かったです。とはいえ、生地の織り方のサッカーの歌もけっこうありました。
サッカーの生地は昔の夏服素材の定番。私は普段着の代表格だと思っていたのですが、みなさまの歌を読んでいると、外出着あり、パジャマあり、とあまり限定されていなかったようですね。郷愁以外には、あまり思い出の共通項はなかったものなのかもしれません。
そういうこともあってか、選んだ歌はなく、結果的にピックアップしたものはすべて、球技のサッカーに関連する歌になりました。

まずは、学校のサッカーの歌から。

西中眞二郎) (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
「先生邪魔」とサッカーする子に咎められ体育教師うろたえている
最近は学校以外のサッカースクールに通う子も多く、機敏な動きを身につけているのだろう。
一昔前の技術しか身につけていないと、体育教師といえども、彼らの動きにはついていけない。
先生が絶対であった時代はもう遠い昔だ。

桑原憂太郎) (桑原憂太郎の短歌Blog)
放課後にグラウンドでするサッカーはスポーツじゃなくブカツドウという
「ブカツドウ」のカタカナ表記がいい。「部活道」あるいは「武活道」という字を当てるのでしょうか。
なぜか別物のようなんですよね。
サッカーはまだスポーツと切れないところがあって、「ブカツドウ」とギャップを感じるが、野球に至っては、それさえ意識されない。
「高野連」という「ブカツ道」を司る機関があって、生徒教師はもとより親に至るまで支配の手を伸ばしているからでしょう。

続いてはサッカーと家族。

はらっぱちひろ) (テクテク)
サッカーの観戦中は娘から息子になって父と語らう
男兄弟のいない作中人物ではないかと思う。
その父親が夢に描いていた、父と子の構図を演じてやる娘。
一時でも父親の息子となりたいと願う作中人物なんでしょうね。

近藤かすみ) (気まぐれ徒然かすみ草)
夜更けても茶の間でサッカー観てをりし子は背中から大人になりぬ
こちらは青年期を迎えるころの息子を見る母の歌。
男というのは不思議なもので、たいがいの男は普段スポーツに全く関心がなくても、突如夜中にサッカー観戦をするものらしい。
母親の属していない世界の掟なのだろうか。
そういう息子を見る母は少しさびしい。
息子の背中に萌しているのは母の生きる世界との距離なのではないだろうか。

サッカー観戦をする男は多いが、休みになるとサッカーボールを蹴りに、という大人の男はそう多くはない。
  
川鉄ネオン) (今週の俺が俺が)
とりたててやることもなし五月晴れ庭に潰れたサッカーボール

どういう経緯で潰れたサッカーボールなのか、そもそもそれが作中人物のものかどうかも分からないが、庭に転がっているサッカーボール。
五月晴れといって体を動かそう!という気分にもなれない作中の人物なのだろう。
むしろ作中人物は潰れたサッカーボールに自らの姿を重ねているのだ。

サッカーの試合に関するいくつかのこと。

砺波湊) (トナミミナト2008)
土産にもいまや見かけぬペナントを交換してのち始まるサッカー
サッカーの「ペナント交換」というのを見て、?と思った人も少なくないだろう。
すっかり忘れられていたものがぬっと現われた感じ。
昔土産物の定番だったペナントなど、誰も買わなくなって長い時代が経ち、再び出会ったのがサッカー。
その時の変な感じを思い出した。

yuko) (31文字の風景@BLOG)
絶対に負けられないと言われつつ負けてどうってことないサッカー
確かに!
このフレーズ、サッカーに関心のない私ですら、何度も聞いている。
しかし、負けて全員解雇なんて話も聞かない。
…どうってことないじゃん。

サッカーボールに世界の現状が見えることもある。

髭彦) (雪の朝ぼくは突然歌いたくなった)
幼子の細き指もて手縫ひ強ふサッカーボールの酷(むご)き歴史は
こちらは児童労働の話。サッカーの公式試合は手縫いのボールと決まっているようで、それが児童労働の温床になっていたそうだ。
華やかな舞台の裏側の現実。
発覚後、大手のメーカーは対応をとったようだが、現状はどうなんだろう。
食べていけるだけの収入が得られないのだから、見つからないように続けているか、チェックの甘い他の労働に従事しているということが考えられる。


感想020「鳩」 [百題百日2008]

感想20日目、今日の題は「鳩」です。
身近な生き物なんですがね、いざ、歌にしようとすると、難しい題だったのではないでしょうか。
見ているようで、案外見ていない生き物かもしれませんね。
また、鳩といえば平和の象徴、ということですが、これがまた、難しい。象徴と言うよりまるで記号。イコールで置き換えられるような、ふくらみのない内容になってしまいがちなように思います。

松下知永) (題詠ショコラ)
春の胸やわらかく反りとこしえに女神のポーズ鳩のポーズ
ポーズは2つともヨガのポーズ。胸を反らす、気持ちよさそうなポーズだ。(できたら、ね。)
冬の間縮こまっていた身体も春がきて、緩む。
吸う息、吐く息もも心地よく、少しそらした胸はただそれだけで、ヨガのポーズをとっている時のような晴れ晴れとした感じがあるのだろう。まさしく春そのもののような胸である。そして、その時間は実際には長く続かないのだけれど、あたかも永遠がそこにあるような感じを作中人物は味わっている、という風にとった。
春を喜ぶ歌。

梅田啓子) (今日のうた)
伝書鳩を飼ひてゐしいへ廃屋となりて息子はタイに住むらし
昔は家族が出入りし、鳩が出入りをしていた家の現在。
息子は家どころか、日本からも離れたところで暮らしている。
もう戻らない時間はなんとも、せつない。

カー・イーブン) (ほぼ31音)
自転車で近づいたって逃げねえし平和ボケの象徴だな鳩は
言えてるなあ、と思う。
こちらの比喩の方が、ずっとしっくりするのが現代だろう。

萱野芙蓉) (Willow Pillow)
動くたび虹の輪ひかる鳩の首 やさしいものは少しおもたい
鳩の首の部分に注目して詠まれた歌は初めて見たような気がする。
虹の輪は少しおもたい首輪なのである。さて、その鳩を見ている人の首には何がかかっているのだろう、という想像が働く。

春畑 茜) (茶話なごやん)
皇帝の描きし鳩のしづけさよ桃の花咲くあかるさのなか
徽宗の「桃鳩図」だと思う。(以下、検索結果の受け売りです)日本にあるものの個人蔵なので、なかなか目にする機会がないのだとか。
徽宗は北宋の皇帝で、芸術方面で名高い人物、というか、こちらの方にお金をつぎ込んじゃって、国を滅ぼしちゃったような皇帝のようである。
まあ、それを知らなくても皇帝といえば血生臭いものを想像するわけで、その人の絵の中の「しづけさ」「あかるさ」は現実から切り離されているために、いっそう輝く。

~~~~~
今日の題では5首のみのピックアップになってしまいました。
明日は、もう少しピックアップできるといいのですが。
感想を書いている私にとっては、歌の数が少ない方が楽は楽なんですけど、楽しみも少なくなってしまうんですよね。
みなさまの歌からいろいろと考えたり、知ることが楽しくってやっているようなものですから。
明日の歌を楽しみにしています♪

感想019「豆腐」 [百題百日2008]

豆腐は四角くって、その角でぶつけて死んじゃうもので、豆腐屋はラッパと夕日の3点セット、あるいは、豆腐屋が角にあれば曲がるものらしい。
というのがみなさまの歌をざっと読んでの感想。
とはいえ、豆腐はいろんな側面から詠めるもののようで、いい歌も多いと思った。

感想に行きます。
まずは豆腐屋さんの店先から。

梅田啓子 (今日のうた)
冷水に豆腐一丁掬ひたるおじさんの手のまだらのむらさき

豆腐屋さんも、少なくなった。
豆腐屋さんではお客さんが注文するたびに、店の人が水槽に手を入れて豆腐を掬い出してくれたものだった。
手には従事している職業の痕跡が残りやすいが、この歌では冷たい水にさらされている豆腐屋さんの手に注目している。

最近では、豆腐を買うのはスーパーで、という人が大部分だろう。

春畑 茜 (茶話なごやん)
しろたへの豆腐はいづこ長月の午後のイオンにカートをぞ押す

表面上はスーパーで豆腐を探している、というだけの歌なのだが、言葉の選択によって、精神的なものへの希求が感じ取れる。

野良ゆうき (野良犬的)
こだわりの豆腐の棚のその横にこだわりのない豆腐が並ぶ

「こだわりのない豆腐」と書いてあるわけではないけれど、「こだわりの豆腐」の棚があれば、そのほかの豆腐は「こだわりのない豆腐」ということに…。
しかし、そのことを意識しだすと、なんだか「こだわりのに豆腐」っていいかもしれないと思えだしてくる。
作者の意図は違うのかもしれないとも思うのだが、雑種犬のようなたくましさを感じてしまうんだなあ。

あおゆき (メソトリウム)
にっぽんの純情集め真白にぞ富士の高嶺のように、お豆腐

豆腐というのは何も日本だけのものではないのだが、あのきりっとした形と色のせいなのか、日本人の精神性と関連付けたくなるところがある。
この歌のように。
少しオーバーすぎるぐらいの比喩が逆にいかにもそれらしい。

村木美月 (うたりずむ)
「男前」自分で名乗る豆腐あり それなら食べてやろうと思う
豆腐に感じる精神性を別の形に展開したのがこの商品のネーミングだろう。
ちょっと前に話題になった「男前豆腐店」の商品。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E5%89%8D%E8%B1%86%E8%85%90%E5%BA%97
ネーミングに踊らされるなんて、と思いつつもついつい試したくなるのがつらいところ。
この歌は「自分で」とわざわざ断っているところに面白さを感じた。

史之春風 (はちぶんめblog)
半額の値札でじっと待っているジョニ男なる名の豆腐がひとつ
「ジョニ男」は前の歌の「男前豆腐」の兄弟分。
半額になっているのが「ジョニ男」ってところが、味がある。

豆腐といえば木綿か絹か、に対するこだわりも人それぞれにある。

村上きわみ (北緯43度)
崩されてなおもとどまる実直も身上なれば木綿豆腐は
木綿豆腐を詠むと、どうも、歌まできりっとしがちだ。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
朱漆の箸もてくづす絹豆腐つめたいねつて何をいまさら
こちらは、絹。手ごたえのあるようなないような感じがこんな歌へと導いてくれる。
「つめたい」が豆腐と作中の女の人を評する言葉への橋渡しにもなっていて、そんなところも絹豆腐的。

絹・木綿のみにはあらず。
全国にはその地方独特の豆腐があちこちにある。
概して木綿より固い豆腐、ということが多いように思うがどうだろう。

中村成志 (はいほー通信 短歌編)
肉厚き沖縄豆腐めろめろと炒まる脇で缶、汗をかく
チャンプルーだろうか。南国の夏って感じだ。
肉厚きが存在感があっていいが、「沖縄豆腐」ではなく「島豆腐」の形で詠みこんだ方が現地の感じが出る気がする。

豆腐入り加工食品。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
お豆腐でできたかまぼこ噛みしめる 昨日のことは昨日のことだ
かまぼこなのに妙にふにゃっとした、豆腐かまぼこの食感。
スパッとは割り切れない思いが続くから、わざわざ「昨日のことは昨日のことだ」と自分に言い聞かせなければならないのだ。

豆腐を料理しているところを詠んだ歌では掌にのせたお豆腐を切るという動作が多かった。
私自身、掌の上の豆腐を詠んじゃったけど、感じることってみんな近くって、同想の歌のひとつって感じになりがちだ。

ezmi (語りえぬことを。)
真四角の部屋夕方が遠くなる手のひらの上でお豆腐を切る
四角い豆腐の歌はたくさんあったのだが、この歌で四角いのは部屋である。
しかし、掌で切られている豆腐も四角くて、賽の目に切られていくのだろうと思う。
大きな四角の中に小さな四角があり、その四角も、より小さく分割されていく、という構図。
コスモスの中に小さなコスモスがあり、そのコスモスの中にも…という入れ子の世界が連想される。
中へ中へと意識が向かうその感覚を「夕方が遠くなる」と表現されているのだろう。

続いては料理された豆腐。
メニューで人気だったのは冷奴と湯豆腐だが、豆腐料理はバリエーションが豊富。
ここで取り上げるのはスープに入れられる豆腐の歌だ。

青野ことり (こ と り の ( 目 ))
あたたかなスープに豆腐くずし入れ名のみの春のただなか泳ぐ
季節はまず、食卓から始まる、というのが都会に暮らす人たちのパターンではないかと思っている。
「スーパー」という便利な商店が、顧客がニーズを感じる前に「季節」を全国から仕入れ、宣伝して売ってくれるから、季節の先取りなんて簡単簡単。
しかし、この歌にある季節は買ってきた「旬」ではなく、想像力で先取された季節なのだ。
豆腐という、変化自在の食材によって作り出された、2か月ほど先の風景。
こうしてみると、まこと短歌というは豆腐と相性が良い。
「泳ぐ」の具体的な動作があることにより、読者は歌の中の春を「泳ぐ」ことができる。

そして、使い残された豆腐は保存される。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
余らせた豆腐を深い皿に入れかぶるくらいの水を張る夜
おおかたの人は器は違えども、だいたいこのようにして冷蔵庫に入れるだろう。
その、何の変哲もない保管方法を説明しているような歌である。
最後の句を「張ります。」とすれば、料理の本の一節といっても不自然さがない。
なのに、短歌として成立しているのはなぜか。
「夜」が置かれたことにより「深い皿」「かぶるぐらい」「水を張る」が何かの暗喩のように感じられ、夜の豆腐の存在がぬっと現われてくるように思うのだが。

最後は比喩として使われた豆腐の歌を。

斉藤そよ (photover)
お豆腐の匂いがするね雪解けの水の流れる道を歩けば
雪国に住む人しか知らない匂いである。だが、雪解け水を知らない読者も、「お豆腐の匂いがするね」という呪文のようなキーを受け取って、雪国の春の道を歩むことができる。

宮田ふゆこ (ソーダ・ファウンテン)
はつなつの消毒槽へ腿はまだ豆腐のように静かに沈む
中高年の水泳教室では決して見られない光景。若い人のまだ、たくさんのことを拒否する腿が沈んでいるのだ。
「消毒槽」によって、より強められている豆腐のイメージのある部分が比喩として有効だと思う。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
湯豆腐のようなたたずまいのひとなので壊さぬように過去をたずねた
こんな人って、いると思う。
で、作中の訪ねる方の人物が、精一杯気を使っているのだろうけれど、どうにも力不足で、訪ねたとたんに壊してしまいそうな感じがあって、はらはらする面白さもあるように思う。

白辺いづみ (Iduming☆World)
白線は主役の場所で演劇部頭に豆腐を乗せるように立つ
ステージの上で開幕を待つ演劇部員達。意外なところで豆腐の比喩が使われているのでインパクトが強い。
しかし、演劇部員たちの心が分かるような比喩だと思う。

感想018「集」 [百題百日2008]

18番目の題は「集」。この題は、いいな、と思うものがたくさんありました。
選んだ歌も多かったですし、選ばなかった歌にしても、作者の実感に基づくのだろうと思われる歌がほとんどでした。
詠みやすそうな歌は、これまでにもあったのに、何が、それらの題と違うのだろう、と考えてみました。
思い当たるのは、決まり文句やきまりきった比喩がパッと浮かぶ、という題ではなかったことかな。
ひとつ前の「頭」だと、頭ではわかっているけど…、だとか、どうせ私は頭が良くないですよ、だとか。そんな言葉がすぐに頭に浮かんでそれをそのまま歌にして、といった歌が目立ちました。
それに比べると、この題はちょっと考えないと歌の方向性が決まらないってことがあるんじゃないかなあ。
それがプラスに働いているのではないか、という仮説を思いついてしまいました。
この仮説が正しいとするならば、ぱっと思いついたことを歌にしないで、ちょっと寄り道をして、いくつか方向性を考えてみた方がいい歌が詠めるということなのかもしれません。
ここでいい歌、というのはうまい歌、ということではなく、背後に作者の存在の感じられる歌、というようなことかな、と思うのですが。

では、歌の感想を。
最初は、集まる者、集まってしまう人たちの歌から。。

富田林薫 (カツオくんは永遠の小学生。)
ゆうぐれの黒海にささぐ花束オデッサに集うマチルダ・アジャン忌
マチルダ・アジャンさんって、どなた、と思ったら、「機動戦士ガンダム」の登場人物だった。
虚実ないまぜになった世界なのだが、ガンダムファンだったら、現実に集って集うこともあり得ないことじゃないという感じもあって、面白い。

小早川忠義 (ただよし)
人妻は噂話を好むらし集ふを解きいざ働かさむ
雇用者の側から詠まれた歌、というところに面白みを感じた。

岩井聡 (あと100年の道草)
青空を擦りむくように雲は湧き無痛天使の全校集会
上句の比喩が新鮮で、なおかつ、こんな雲ってある、と思う。

春畑 茜 (茶話なごやん)
秋の日の通夜に集へるひとびとの手に手に数珠のふさ垂れてをり
小さなところに注目した歌。
一人の手にだけあるものならば、ただの数珠の房なのだが、参列者のあの人も、この人も、ということになれば、意味を帯びてくる。

集まる生き物、光。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
集ひ来るひかり花びらほどかれてしまふもろさを許しておくれ
集まることと、ほどかれてしまうことはどこか相通じることでありながら、逆のこと。
そこにも、この歌の面白さを感じる。

斉藤そよ (photover)
庭先に集う野鳥に高みからしだれざくらは過去を話せり
高いところから鳥たちの方へと枝垂れてくる桜の枝は、なるほど、過去を語っているようにも思えてくる。

新井恭子 (MINI'S LIFE blog)
集まってしまうのだから仕方無い白い花片が舞う行き止まり
なんにせよ、集まってしまうところはある。集まるものが美しいもので、よかった。
でも、作中人物が、もっと気にしている「集まってしまう」ものはどうなんでしょうね。

集めてしまうもの。

本田あや (明晃晃)
青春の後日談だけほろほろと集めてしまうロッカーを置く
ロッカーって、そういうものかもしれない。
最中のものは出たり入ったりして、結局残るのは…。

カー・イーブン (ほぼ31音)
二十一世紀に巨大建築が得た旅客機を集める力
こんなことを茶化しちゃっていいのか?と、まず思うのだが、茶化しているわけではない。
結局はそういうことだったのだ。

月原真幸 (さかむけのゆびきり。)
右耳は集音マイク 知らなくていいことばかり拾ってしまう
耳というものは、聞きたくないことには特に感度が上がる装置のようだ。

集まらない・集めない。

勺 禰子 (ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山)
廃村の集会所には鍵がなく、黒板にかすれた「新住所」二つ
もう人の集まることのない集会所。「新住所」を伝えられた人たちもどこかに去ったのだろう。
「鍵がなく」は外部の者が入れたことを言いたくて入れられたのだろうけれど、不要だろう。理屈っぽい印象を与えるように思う。

矢島かずのり (蟲短歌)
離婚した妻の香水瓶はゴミ収集車にもおいていかれて
分別をちゃんとしないと置いて行かれる。
句跨りと句切れでたらたらと続く文体もまた、作中人物の未練を表現している。

書物の歌。

泉 (つれづれ亭)
紫の立子(たつこ)全集古書店にひらけばうすきルビ振られあり
鉛筆書きだろうか。前の持ち主とふと触れ合うような気がする瞬間だ。

砺波湊 (トナミミナト2008)
蟻、埃、そしてチンピラ 辞書のなか「集(たか)る」の項に並ぶ例文
偶然に並んでいるものを取り出してみれば、新たに立ち上がる意味がある。
ただし、この方法は何度も使うとまたか、と思われる弱点がある。

夏椿 (夏椿)
遺歌集は現在形でつづられて行間にけふも秋の雨降る
遺歌集は常に、作者の死というものを意識して読まざるを得ない。
したがって、一般の歌集ではひっからないところに心が向かうのだ。

なゆら (リッスン・トゥ・ハー)
「感情の流れ淀んでまあそれは万葉集のせいだ」と義弟
初句から義弟の言葉になっているのだけれど、初句二句はあまり会話的な表現じゃないところに逆におもしろさを感じる。

その他の歌。

吉浦玲子 ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
薔薇色のちらし沈めておのおのの扉(と)は朝翳る集合ポストに
集合ポストに入れられたチラシは、自分のものしか見えなくても、上下左右、すべてに同じものが入っている、ということが想像される。いくつものポストの内側に、すべて薔薇色のものが沈んでいる、という発見により、今いる場所の風景が変わるのだ。
下句の助詞の使い方が歌の味わいを増している。

はせがわゆづ (迷走ランドセル)
色褪せた集合写真で出していた舌があなたの睫毛を撫でる
こどもだった頃の舌とは同じ自分の舌でも今の舌は確かにそのころとは違う。そういう風に昔の自分の写真に今の自分を見ることもある。

宵月冴音 (銀星亭~Villa Argentee D'Etoile~)
集金の少年今日も現れず茶菓子をしまい口紅落とす
ちょっとした期待と落胆。年齢を重ねると、ほんの小さな出来事に一喜一憂することが増える気がする。

~~~~~

前置きの部分で、すぐには歌にならない題のプラスの部分を書きましたが、マイナスもないとは言えません。
この題の歌には意味がよく分からないもの、というのも実は多かったんですね。
借り物の言葉を使わないとなると、自分の歌を一から組み立てていかなければいけないわけで、その上での苦心があり、失敗もあったのだろう、と推測します。
よく分からないけれど、魅力を秘めた歌はたくさんありました。
この題で苦心してどうもうまくいかなかったかも、と思われる方にはもういちど、詠まれた歌に向き合うことをお勧めします。

鑑賞017「頭」 [百題百日2008]

今日は17番目の題、「頭」です。
人間をはじめ、頭を持つものは多いですし、頭の字を含む言葉もたくさんあるので、詠みやすい題だったのではないでしょうか。
ピックアップしなかったのですが、多かったのは、頭ではわかっているけれど、という歌。
そういうことって、多いですものね。ただし、そのあとの展開が難しかったのではないかしらん? これは、という歌には出会えませんでした。

それでは、感想に行きます。
まずは人間の頭の歌から。


船坂圭之介 (kei's anex room)
春風にそよめき初めし頭葉を宥めつつ詠むわが百歌選
前頭葉・後頭葉など、脳には葉の字が付いている。普段はそのことに気付かないが、「そよめ」けばそこに叙情が生まれる。

文(f_blueな日々 題詠blog2008 )
オブラートのやうな薄膜おりてきて前頭前野をおほひつくしぬ
オブラートに包まれているのだと心に引っかからないのだけれど、「オブラートのやうな薄膜」がおりて来るとあれば、心の中にイメージが浮かび上がる。

やましろひでゆき (短歌とか短歌とか短歌とか)
頭蓋骨の音聴くために頭突きする大木金太郎対ボボ・ブラジル
プロレスはほとんど知らなくて、どうにかボボ・ブラジルの名前を聞いたあるって程度なのだが。昭和期のプロレスラーで、石頭対決と呼ばれたようだ。
で、少年たちはこぞって真似したんでしょうね。
男の子たちのロマンが分からなくって、でも、分からないことが面白いんだな、女から見て。

近藤かすみ (気まぐれ徒然かすみ草)
頭頂の百会にあるは旋毛なり夫のつむじに触るるべからず
男も女も頭頂部あたりは中年期以降、危険区域に入ることが多いのだが、男の場合は壊滅的な被害に及ぶことがあるだけに、女よりも神経質にこの辺りに生え残るものへの愛着を示す。
「べからず」の世界である。

帯一鐘信 (シンガー短歌ライター)
空豆がはさまっている頁には頭よせあう僕らの写真
空豆が意外であって、「僕ら」との類似を感じさせるのね。
若かりし日の写真だろう。

FOXY (ぎゃらりーFOX通信)
まこともて見慣れし図柄に候へど、社長頭(づ)を垂るいつもの茶番
なんだか、デジャブーのような会見の様子。
あんまり多いと、ねえ。

続いて、人間以外の何かの頭の歌。

わたつみいさな。(乱切りくじら)
しあわせのかたちはここに先頭の頁にバカと書いたアルバム
馬鹿さ加減を思いっきり発揮できるのは幸せな時代。
そういった痕跡を「しあわせのかたち」と認識できる頃にはもはやその時代の人間ではなくなっているのね。

幸くみこ (わらびもち食べたい)
地下鉄の始発電車の先頭で東京に今日をねじ込んでいく
昔のアニメで、頭がドリル状になって地面を進む人間が出て来たのを思い出した。
なかなか元気いっぱいの朝で、うらやましくもある。

市川周 (ミルミルを飲みながら)
ネジ一つなんか知らんがあまりけり しれっと竜頭をまく時計技師
どういうわけか、解体したものを再び組み立てると、たいがいの場合、ネジが1つか2つ余るって経験をする人は多いと思う。時計技師はまさかとは思うけれど。
思いっきりくだけた会話調の中の「けり」が効いている。

平岡ゆめ (le petit cahier)
季(とき)来れば零れた種から芽吹き出し父のお墓に絶えぬ鶏頭
二度、がないものと、季節が来るごとに繰り返すものと。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
籐椅子を桃源郷の舟として糖衣のような頭韻をふむ
頭韻を織り込んだ頭韻の歌だけど、無理がない。
上句、特にいいなあ、と思う。

鑑賞016「%」 [百題百日2008]

16番目の題は「%」。今年から題として採用されることになった「記号」の歌の第1番目でもあります。
自然に歌の中に記号を詠み込んだことはあっても、記号をまず頭において歌を詠む、ということが初めてだった参加者も多いのではないでしょうか。
この「%」、読みが規定されていないので自由度は高いはずなのですが、効果的に使うのはなかなか難しい題だったような印象を持ちました。

まずは、百分率という意味は保ちつつも具体的な数字の出てこない歌から。
このタイプの歌では「%」という表記を使わない方がよかったのでは、と思われる歌が、わりに目立った。記号が目立ちすぎるのかなあ。

こはく (プラシーボ)
あとおしをしたのは海に吹く風と%(パーセンテージ)に練りこんだ嘘
数字に嘘を練りこむのは簡単。そんなことでも、後押しをする力になることも、ある。

夏椿 (夏椿)
五年後の%(生存率)を告げきたる医師の名を見るお悔やみ欄に
%では測りえぬ人の生死と、その皮肉。
「告げきたる」にちょっと違和感があるのだけれど、時制はこれでいいのかな?

続いて、具体的な数字とともに使われている「%」の歌。
世の中はパーセントで溢れているのだな、という感想も皆さまの歌を読みながら持った。

水須ゆき子 (ぽっぽぶろぐ)
春の夜成分のうち少なくとも20%は猫である
ちょっと前に流行った「成分解析」が下敷きになっているのだろう。
もともとの成分解析自体、突拍子もない「成分」が入りながらも、どこか、なるほどと思わせるところが人気の素だったのだろうと思うのだが、その変な気分をうまく歌に取り入れていると思う。

カー・イーブン (ほぼ31音)
インド式九九が役立つ日が来たぜ消費税率17%
こちらは最近話題のインド式の九九と消費税アップが読みこまれた歌。
5%だと、九九を覚えていない私ですら、何とかなっていたけれど、17%なんて天文学的数字(わたしにとっては)を処理するにはインド式ぐらい必要だろう。
作中の人物のキャラがいいなあ。

市川周 (ミルミルを飲みながら)
袖触れしあなたがそっとさしだしたティッシュの金利は13.5%(じゅうさんてんご)
どんでん返しのある歌。サラ金のティッシュ配りの歌だったとは。

水野加奈 (水の中)
わき腹に100%のタグ触れて振り向くたびにちくちく痛い
何が100%なのかは書かれていないがたぶん綿。あるいはシルクもありだな。いずれにせよ肌に優しい天然物の衣類だ。
なのに、タグが刺激となるのね。わりによく経験することである。
「振り向くたびに」が具体性を持っているため、単にタグの話であるだけではなく、暗喩の歌となっている。

次に「%」の形に注目して詠まれた歌から。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
%(パーセント)、その下部に立つ零の字の足もとおぼつかなきイースター
たまごだった。
が、卵とは書かれていないのがいいんですよね。

村上きわみ (北緯43度)
文字化けのメールの庭にてんてんとつづく%の水たまり
文字化けの文字のうちの%の%はかなり高い。
なるほど、水たまりですか。


ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
「%」並べて天気予報図がウルトラの星めく日曜日
何?と思って、もう一度歌をまじまじと見つめて……爆笑!
まさかひぐらしさんの歌で爆笑させられるとは!
ウルトラマンの顔に見立てた歌はほかにもいくつかあったが、そこからの広げ方が抜群だと思った。ウルトラマンの星めく天気予報図が見える。

宵月冴音 (銀星亭~Villa Argentee D'Etoile~)
%みたいに向かい合っててもきっとこえられないものがある
壁を隔てて向き合っているところ、という見立てもほかにもあったのだが、そこで終わってしまっては、はいそうですか、ということになる。
「こえられないものがある」という作者にぐんと引き寄せた見立てによって、歌に感情が入り込んできている。

~~~~
これはちょっと、と思った歌についても少し。
わりと目についたのが、1%の奇跡だとか可能性とか希望とか。
こういう、使い古された言い回しで、歌にするのは難しいですね。
100%についても同じようなことが言えると思います。

鑑賞015「アジア」 [百題百日2008]

鑑賞15日目。今日の題は「アジア」。
地理区分としてのアジアは明らかなのですが、それぞれの人の頭の中にあるアジアの領域にはブレがあるようで、みなさまの歌を読みながら、縮んだり膨らんだりするアジアの、さまよう境界線を追って、くらくら目眩がしました。

まずは地図の中のアジア。

こはく (プラシーボ)
まっさらな地図をひろげてevianをこぼすアジアの果てのみどりに
西アジアの砂漠地帯だろうか。evianとアジアンの音の類似が効果的に使われている。

平岡ゆめ (le petit cahier)
アジア地図広げておれば黒猫が行きたいらしい国を齧りぬ
何かをかじったり、引っ掻いたりするのがペットの習性ならば、ペットの行動に、あたかも人間であるかのような理由をつけたがるのが飼い主の習性だろう。

続いて、アジアってどこなんだろう、と悩みながら読む歌から。

水須ゆき子 (ぽっぽぶろぐ
アジアンはいつも日本の外にあり奥歯に沁みる酸奶シ氷菓(スワヌナイピンクオ)
アジアンスウィーツには白玉ぜんざいは含まれないのが普通。
ところが、あら不思議、そこにココナッツミルクをかければたぶんアジアン。
もともとはアジアンエスニックなんだろうけれど、アジアンで語られてしまうと日本が抜け落ちてしまう心地悪さがある。

野良ゆうき (野良犬的)
毛穴まで砂と花粉に塞がれてアジアの夢は視界不良だ
この歌のアジアは中央から極東地域のあたりが特に意識されているのだろう。
「視界不良」が、なるほど、と思う。
ところで、以前、中東の砂漠地帯の砂が風に乗って日本まで来たということがニュースになったことがあったが、この風をアジアの風と認識するかどうか。
中国奥地や中央アジアあたりだったら、間違いなくアジアと認識するんですが。

吉浦玲子 ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
スコールの町を歩めるムスリムの少女よアジア的カオスをまとふ
インドネシアあたりの風景か。アジアって何、と思いながらも、「アジア的カオス」はなんとなくわかるような気がする。

佐山みはる (月待ち人の窓辺)
楼蘭に有翼天使の絵はありきアジアに紅き砂嵐起つ
有翼天使の起源はメソポタミアあたりだと言われている。
楼蘭という地名だけでもシルクロードが強く意識されるのだが、有翼天使によって点ではなく、線としてのシルクロードが、そして、中近東から西へと向かった流れも同時に思い浮かぶ。

小早川忠義(ただよし)
何処までも真ん中に行かぬ人種なりアジアの隅に膝を抱えて
確かに日本人に多いタイプだと思う。
空いたトイレの個室が並んでいれば、まず真ん中は避けると言うのが日本人的行動パターンだそうだし。
何につけ、真ん中はよく言えば譲り合い、悪く言えば押し付け合いになってしまいがちだ。
地図の日本列島が膝を抱えた人のようにも見えてくる面白さがある。

最後はアジアって何、とは悩まなくてもすむ歌から。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
分からないことがあまりに多すぎてアジアンサラダを二人で分ける
アジアンサラダを食べることが解決にはならないのだけれど、アジアンサラダを選んでしまう。
そういう心理状態にはぴったりの食べ物って気がする。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
二人して東南アジアに凝っていたころに覚えたフォーの茹で方
熱が去ってしまったのちも覚えていることがある。
たとえばフォーの茹で方のようなこと。それから…。

宮田ふゆこ (ソーダ・ファウンテン)
あのひとのアジアンタムが作り出す酸素は私をやわらかくする
わたしを柔らかくするのは酸素で、その酸素を作り出すのはアジアンタムで、そのアジアンタムはあの人のもので、という関係。
あのひとから、「私をやわらかくする」ものが徐々に広がってくるのだ。
「私をやわらかくする」という表現もいい。

鑑賞014「泉」 [百題百日2008]

今日の題は「泉」。この一字だと、地中から水が湧き出るところやその湧き出た水のこと、だと知っているのだが、私の場合、映像的にどうも、それと泉がイコールでは結びつかない。この場合だと湧水や湧水地の方がしっくりするような気がしてしまう。それはたぶん、「~の泉」というヨーロッパのものとして表現されたものの方がよく目に触れるからではないか、と思っている。なんか、泉を思い浮かべようとするとヨーロッパ風の建造物が一緒に浮かんでしまうのね。皆さんはそんなことないですか? 投稿歌を見ても、同じように感じていらっしゃるのでは?という漠然とした印象を受けたんですが。
短歌にもわりに使われていて、もっとなじみがあってもよさそうなものなのに。
上田三四二の「死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日(ひとひ)一日はいづみ」なんて、好きなんですがね。

それでは、鑑賞に行きます。
まずは、泉の意味するものを伝統的な象徴を踏まえて詠まれた歌から。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
泉とはつひに触れえぬ聖域かわれを拒みし少年のごと
泉の本質のひとつとして、よく言われる処女性だが、今日では少年の方がよりふさわしく感じてしまう。

これは、泉?という疑問を含む歌からは次の2首。

海子 (歌)
漂白剤入りの泉はしんしんと底まで透けてホームセンターにある
まがい物の泉ですね。循環させているので漂白剤が必要なのだろう。

水野加奈 (水の中)
空つぽのボトルに泉移しをり金の柄杓を短く持つて
湧水を汲んでいるところ。最近は湧水を汲みに行く人も多く、場所によっては列をなしていることもあるとか。一首目のイメージと遠くなってしまった「泉」だ。
この歌は「泉」と「金の柄杓」という語の選択が西洋風の風景を想起させる。女神のイメージが入ってくるように思うのね。
女神といえば、投稿歌には「金の斧銀の斧」のお話を下敷きにしたものがかなりあった。泉からまず連想するのはこのあたりなのかもしれない。

続いて直喩に「泉」が用いられている歌。

橘 みちよ(夜間飛行)
午前三時いたみどめ切れ目覚めれば泉のやうな闇にひたる身
泉を直喩に使った歌の数は多かったのだが、使い古された比喩では、実感が湧かない。
この歌の場合は「闇」の比喩として用いられているのが新鮮で、闇の触感が感じられる。

続いて暗喩として用いられている歌から。

村上きわみ (北緯43度)
ぜんぶみてほしい邪悪なこめかみも泉がわいているてのひらも
これだけは絶対に見られたくないものだから見てほしい、ということがある。
わたしの掌の泉は、死ぬまで私だけの秘密にしておきますが。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
濁ったら薄めればいい 私にもそんな泉がありますように
泉は絶対的に良いものとして語られることが多いのだが、この歌の泉はどうも複雑。マイナスの要素が入りながらもやはりプラスのイメージがあって、魅力的だ。

星野しずる (タンカdeシズル)
五線譜の泉の底で銀色のつめたい猿に教わった歌
猿というのはどこか、神話的な生き物だ。

寒竹茄子夫 (Sing Me Back Home Before I Die)
冥府の処女のステップ踏んで真夜のこゑ泉のこゑと相聞をなす
この歌は、リズムが不思議で、この歌をより魅力的なものにしている。普通、初句の七音は重厚に響くのだが、この歌では違う。初句二句はそれぞれ、四音三音と数えるべきなのだろう。
4・3・4・3・5・7・7。
初句二句とよろよろとしたステップを踏んだリズムが、三句以降、漢詩の読み下し文のようなリズムにつながる。

次は泉の語が単語の一部となっているもの。こちらの方が、現代の私たちには使いやすいかもしれない。

矢島かずのり (蟲短歌)
耳たぶは鉄鉱泉の味がした ピアスホールが二個増えていた
鉄鉱泉の味はピアスホールという肉体的な傷のことというより、心理的な傷を感じての比喩なのだろう。


最後に固有名詞の歌から。

(題詠100首blog-あいっちのうたあそび。)
はつなつの路面電車はわれを乗せ道後温泉前までゆけり
「はつなつ」「路面電車」「道後温泉」どれものびやかで味がある。
こんなゆったりした気分で行く温泉、いいなあ。

原田 町 (カトレア日記)
マラソンをともに走りし青泉さん恙なきやと問うすべもなく
このイベントも「題詠マラソン」の時代からすると6年目。何年も続けていると、会ったことはなくても気になる人たちがどんどん増える。知った方の歌が見当たらないと、この歌のようなことを思う。
川内青泉さん、どうなさっているのでしょうか。

駒沢直 (題詠blog参加用。)
泉屋のクッキー缶の蓋ゆがみ封じた昭和すでに湿気たり
泉屋のクッキーは堅焼きで、昭和の中ごろにはもう、ちょっと古風なお菓子といった感があった。
まさかクッキーがずっとはいっていたわけではなく、何か、思い出の品をしまうのに再利用されていたのだと思うが、蓋がゆがむ→昭和が湿気る、はうまい流れだ。

鑑賞013「優」 [百題百日2008]

鑑賞13日目。本日取り上げる題は「優」です。
訓読みすれば「優(やさ)しい」「優(すぐ)れる」「優(まさ)る」ですが、圧倒的に「やさしい」の歌が多かったようです。

まずは、優しい人の歌から。
だいぶ前だが、小学生の作文を目にする機会があった。その子は自分の性格を分析していて、その中に「私は優しい」という一文があり、驚きながらも羨ましく思ったものだった。まず、優しいということに対して疑いがない。そして、それを自分に適用できるというまっすぐさ。大人はなかなかこうはいかない。一見優しいと思われることの裏側を見ようとするし、自分に美質を当てはめるということに、ためらいがる。大人とは、厄介なものだ。しかし、そのギャップが歌の素でも、ある。

水須ゆき子 (ぽっぽぶろぐ)
結んでもすぐにほどける靴紐のように優しい 男の人は
「結んでもすぐにほどける靴紐のよう」な優しさを分かりやすく言い換えて説明することは、ある程度できる。でも、説明して残る部分こそがこの比喩の魅力だと思う。
単純に男の人は優しい、と手放しで言っているわけではないのは、もちろんのことである。

わらじ虫 (楽園 by わらじ虫。)
優しさに甘えるための理由まで優しいひとにつくってもらう
韓国ドラマを見ていると、よく、こういうシチュエーションが出てきて、正直なところ、ええなあ、とうらやましく思う。日常生活では、まずないことだしね。だいたい、現実に出会う優しさのようなものは、たいていの場合、積極的に優しくしているのではなくって、消極的な行為の結果としてあたかも優しいような外見をしていることが多いですからね。投稿された歌にも、優しいのではなくて弱さや優柔不断なのだ、ということを詠んだ歌が多くあった。
歌に戻るが、この作中人物は「甘える理由まで」作ってくれたことを知っているんですね。とすれば、そのことにまた甘える必要があるわけで、下手をすれば無限連鎖を起こしそうな危うさがある。そうならないとしても、甘えさせてもらっているという心地の悪さはいずれにせよ、引き受けねばならない。

平岡ゆめ (le petit cahier)
優しさの薄皮めくればはさはさと君は睫毛を靡かすばかり
薄皮をめくるだけで見えてしまうもの。
下句が具体的な像を結ぶことにより、理の勝ちすぎない歌となっている。

沼尻つた子   (つたいあるけ)
ばあちゃんの風呂敷は別に地球への優しさとかは包まなかった
「地球にやさしい」というフレーズに気持ちの悪さを感じる人は多いと思うが、歌にするのはなかなか難しい。
この歌は「ばあちゃんの風呂敷」を詠むことによって成功していると思う。

続いてやさしいものの歌。
物が優しいと言うのは、その物の思惑を気にせずに済むので簡単。自分が優しいと思えば優しいのだ。
短歌にもよくつかわれている言葉だ。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
ひんやりと湿りてやはらかく沈む優しき椅子をかたはらに置く
椅子を横に置いたってだけのことを言っている歌なのだが、長い長い椅子の修飾を読みながら、読者は椅子の触感を確かめる。

吉浦玲子 ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
出会ひとはあるとき無残 あさがほの芽を濡らす今朝の優しき雨も
雨に遭った「あさがほの芽」も無残だが、作中人物が遭った無残は(何かはわからないが)より大きい。

次に「優」の字を含む単語の歌を。

橘 こよみ (aglio-e-olio)
まどろめる優先席の学生の肩にも春のひかりは満ちて
ひかりは善悪にかかわらず、平等に降り注ぐ。
歌の感想からは外れてしまうが、学生などの若い人ほど、責められますねえ。
私も若い頃にはいつもくたくたで、座席の確保に苦心していた。ラッシュ時にのってくるお年寄りには怒りすら覚えたものだ。
そして、中年の女性を見て、なんて元気なんだろう、と思っていたのだが、その年代になってみると、あっちこっちよくないところは増えてくるものの、全体としてやっぱり元気である。電車で立っているぐらい、たいていの場合、そう大したことじゃない…。
若い人ほど元気というのは、ほんとにそうなのか、ちょっと疑問なんだよな。
責められる若い人に、ちょっと同情を覚えちゃう。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
日盛りに車を駆れば行きあたる「この先ひつじ優先道路」
「ひつじ優先道路」なんて標識を見たら、違う世界に迷い込みそう。
これが創作だったら、さして面白くはないのだが、どうやら実際にこういうところもあるらしい。

ワンコ山田 (歩道を走る自転車 のこども)
自転車のサドル優曇華(うどんげ)揺れていて「孵化を見てて」と小さな声が
長らく使われていない自転車なんだろう。
曲線を描くサドルから、ひょこひょこと伸びだしている優曇華。可愛くてユーモラスな絵が見えてくる。

あおゆき (メソトリウム)
さみどりの軌跡を描くつばめたち優柔不断の似合わぬ五月
そうだなあ。そう言われてみれば五月に優柔不断は似合わない気がする。


鑑賞011「ダイヤ」 [百題百日2008]

11番目の題はダイヤ。ダイヤモンドか電車のダイヤグラムの略というのが一番一般的なとらえ方でしょう。
単語の一部として詠まれたものではダイヤルの歌が多く見られました。

では、感想です。
まずはダイヤモンドの歌から2首。

紺乃卓海 (作品小箱)
ダイヤモンドを潜るみたいだ揺れやまぬ波のかたちのひかりだらけで
じつはわたし、宝石のダイヤを美しいものとして歌に詠みこむのは無理じゃないかと思っていた。ところが、この歌である。驚いてしまった。こんなにも美しくダイヤモンドが描けるなんて!
「ダイヤモンドを潜るみたいだ」と、水に潜ることの喩の形をとっているが、私たち読者はダイヤモンドの内部へと誘い込まれる。幸福な酩酊感に襲われる歌だ。

文 (f_blueな日々 題詠blog2008 )
アンティークピアスは模造ダイヤなり ひえひえとして耳たぶをまつ
模造ダイヤは数あるまがいものの代表格といえるような存在だろう。しかし、代表格といえるものだけに、偽物や価値のないもの、という意味で使われると、だいたいが言い古された比喩のようになってしまい、魅力的な歌になりにくいのだろうと思う。
しかし、この歌の場合、「模造ダイヤ」は、あまりマイナスのイメージを纏っていないように思える。
アンティークが新品を頂点とする価値体験とは別の価値体系にあるということを考えれば、天然を頂点とする価値体系の中にある「模造ダイヤ」ではなく、別の価値体系の中の「模造ダイヤ」といったところだろうか。
時間の作り出す渋みと人の手によって生み出されたやさしさを纏うピアスなのだと思う。

続いて、ダイヤルの歌を2首。

天昵 聰 (きりはりなりけり)
ダイヤルの0が回って戻る間のようなあなたの大きなあくび
ダイヤル式の電話機を見かけなくなって長い時間の経った今だから、より、面白く思える比喩の歌だと思う。
0が戻ってくるまでの時間には、ダイヤル式電話機が作られなくなってからの長い時間をも、含んでいそうな、そんな錯覚も生じるのだ。

カー・イーブン (ほぼ31音)
ダイヤルを回したことのない指にきらめくネイル爪を隠して
平成生まれともなれば、生まれてから一度もダイヤル式の電話を見たこともない人たちがほとんどだろう。
昭和生まれには昭和生まれの素顔の隠し方があるように、平成生まれには平成生まれの素顔の隠し方がある。
その一つがデコレーションされたネイルなのかもしれない。

ダイヤグラムの歌からは次の3首を選んだ。

村上きわみ (北緯43度)
たくさんの冬の足首ひやされて臨時ダイヤで運ばれてくる
乗客の増加を見込んでの「臨時ダイヤ」だろう。足首に焦点があてられることにより、雑踏が感じられる。

宮田ふゆこ (ソーダ・ファウンテン)
会えないひとがいる週末をを瀬戸電のダイヤていどに忙しくして
「瀬戸電」とは名古屋電鉄瀬戸線のことらしいのだが、それを知らない人にとっても字面から、「瀬戸電のダイヤていど」がどの程度か想像できる。
生活の忙しさをダイヤに喩えられているのが、新鮮で面白いと思った。

原 梓 (題詠blog百首を走る。)
出来の悪い抒情が線路をゆるやかに捻じ曲げ休日ダイヤが狂う
自分の感情をうまく制御できない休日の様子を電車に仮託して歌われているのだろうと思った。
この気分はわかるな、と思う。
具体ではないものは別のものの形をとって人に伝える、ということもできる。

最後は商品名の一部に「ダイヤ」を含む歌から。


本田瑞穂 (おなかの前で歌をかかえて)
そのにおいブルーダイヤにちがいなくわたしは黙ることができない
ブルーダイヤはほかにも何首かあったのだが、他のものは「金・銀・パール」との絡みで詠まれていた。
メロディ付きで「金銀パールプレゼント」と刷り込まれていますからねえ。
この歌は、香りに注目した歌。洗剤の匂いというのはけっこう強烈で、押しつけがましいようなところがある。
(私はそれを利用して、買い置き商品をトイレにおいて、消臭剤替わりにしている)
しかも商品ごとに個性があり、人により、好き嫌いも大きいだろうと思う。
それゆえ、商品名が有効だと言うことができると思う。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
両うでにダイヤ毛糸を巻かれた日、その日より母の毛糸が解けぬ
毛糸を腕に巻き取る作業は追憶の懐かしさや温かさを詠まれることが多いと思うが、この歌では母性愛にがんじがらめになった作中人物がいる。
そんなとらえ方もあるなあ、と面白く思った。
ただ、この毛糸は「ダイヤ毛糸」でなければならなかったかなあ、とちょっと思う。
「スキー毛糸」はあかんと思うが、他の毛糸に置き換えられるというか、もっとふさわしい毛糸がありそうにも思うのだが。 

~~~~~
今年の感想を書きながら、今年は「美しい」という言葉をよく使っているなあ、と思う。
心を奪われたような状態を表す言葉の中で、この言葉に傾く心というのはどういうものなのだろう。
どういう変化が起こっているのか分からないけれど、今年は「美しい」ものにより心惹かれているようです。

鑑賞011「除」 [百題百日2008]

鑑賞11日目の題は「除」です。
わたしは動詞活用できるものは動詞の形で歌にすることをまず、考えることにしていたのですが、「除く」「除ける」とも、結構強い言葉で、なかなか難しく思いました。
この字を使った名詞を用いた方がいい場合や、他の動詞に置き換えた方が自然に感じられる場合が多いみたい。
でも、「除」の字を含む単語はたくさんあるうえに、バラエティに富んでいますからね。いろんな「除」の歌に出会えました。
みなさまの歌を見ると多かったのが「削除」。これは、と思う歌には出会わなかったので、ここでは取り上げませんでしたが、メールの削除の歌がかなりたくさん見られました。時代ですかねえ。

それでは、感想の入ります。
まずは動詞形で使われている歌から1首。

村上きわみ (北緯43度)
ぼくたちは荒れた裏庭 たくらみを除くすべてを繁らせながら
「荒れた裏庭」なので決して健やかで明るいものを繁らせているのではない。
「すべて」と言いつつも、それはすべて「たくらみ」にきわめて近いものばかりなのだろう。

続いて、「除」の文字を含む単語を詠んだもののなかで、悪意やまがまがしさを感じる言葉を読み込んだ歌から5首。

船坂圭之介 (kei's anex room)
除外例ある筈もなき死へ向かひ辿るこの道平らかならず
斎藤茂吉の「暁の薄明に死を思ふことあり除外例なき死といへるもの」から発想された歌だろう。
茂吉は一瞬のひらめきの瞬間を歌ったが、ひとたびやって来ると「除外例なき死」はその後の伴侶となるのだ。
そして、それを受け入れたからといって、悟りすましていれるわけもなく、やはり、いろいろ躓きながら死に向かうほかはないのだ。

夏実麦太朗 (麦太朗の題詠短歌)
残酷な未来を予見させぬようまっすぐ白く咲く除虫菊
可憐な花なんですがねえ。(http://nics.naro.affrc.go.jp/hatasaku/mihonen/files/CROP27.html)たっぷり毒を含んでいる。
一時は合成の殺虫成分にとってかわられたが、この頃では、より自然、ということで見直されているようである。といっても、毒は毒。
「残酷な未来」は除虫菊のその後=蚊取り線香、と一応は取れるのだが、それだけではない、大きな未来を言っているようでもある。

和良珠子 (the strange of stranger)
拘うなわたしに構うな 人除けのペットボトルをずらり並べる
猫除けのペットボトルを「人除け」と、単に言い換えた歌ではない。
物をずらりと己が回りに置くという行為が、そこに注目すれば呪術めいて思えるのだ。
ああ、あれは結界であったか。効果がありそうな感じがする。

A.I (Private Window)
湿っぽい安アパートに暮らすため除菌も除霊もファブリーズする
格安家賃の事故物件ってやつですかね。
こちらは一見ユーモラスな歌。しかし、除菌を除霊と同列に並べると、除菌という行為が変な事だって思えてくるようになっている。
「ファブリーズする」ってそういえば、おまじないのような行為なんだな。
ただ、下句は文法的にちょっと混乱があるように思う。「ファブリーズ」の後に「で」を入れるか、「除霊も」の後に一字空けが必要なのでは?

やや (言の葉たち)
移りゆく時の流れに排除されだんご虫となる父の背中は
「だんご虫」がなかなか味わい深い比喩だと思う。彼らは厳しい冬を背を丸め、仲間と寄り添いあって生き抜くのだ。

続いて。「除」かれるものが人間にとって不快なものであれば、それを除いてくれる物には愛情に近い感情を抱くこともある。
そういった道具の歌から4首。

野州 (易熱易冷~ねっしやすくさめやすく、短歌編)
掻い巻の襟を掻きよせ通り見つゆふべ粛(しづ)かに除雪車とほる
北国に暮らしたことがなく、除雪車が道を通るのを見たことがないのだけれど、なんだか温かいものが通過していく感じがする。
「掻い巻」が北国の冬って感じがしていい。(実際には北国でなくても使うし、現に私も掻い巻毛布を愛用しているんだけれど、そんなイメージがある。)「襟を搔きよせ」というのも行動が具体的なイメージを結んで、よいと思う。

水須ゆき子 (ぽっぽぶろぐ)
腕高く掲げたままで錆びている除雪機をつい父さんと呼ぶ
ブリキのロボットのような除雪機が思い浮かぶ。暮らしの中で大活躍してくれた機械なのだろう。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
八月のかどの八百屋の日除け幕 風をはらめばトマトかがやく
風が日除け幕を翻らせてトマトに届く光。たった一瞬の美しさが愛おしい。

春畑 茜 (茶話なごやん)
掃除機とわれと黙して午後四時の廊下のかげに蹲りたり
うちの中で蹲ってしまうことはよくあるけれど、廊下で、というのはあまりない。
作中の人物はよっぽどお疲れなのでしょう。一緒に蹲ってくれている掃除機がやさしい友達のよう。

鑑賞010「蝶」 [百題百日2008]

10番目の題は「蝶」。意外だったのですが、私は苦労した題でした。
蝶は身近な生き物ですが、行動にバリエーションがないのでしょうか。しかも、蝶の歌はけっこう詠んでいるんですよね。
どうしても、自分の歌の焼き直しになってしまったり、人のイメージをそのまま取り入れた感のある歌になってしまったり、とどうにもうまくいきませんでした。比喩にするにしても、使い古された感じの比喩しか思いつかなくって。そのうえ、今年はできるだけ、題のもともとの意味で使うようにしようと決めてましたので、余計そうでした。

さて、みなさまの歌の鑑賞です。
日常の生活の中から歌を生み出すタイプの人は、やはり結構苦労されたのではないでしょうか。実景かな、と思われる歌から選んだのは、次の1首のみでした。

七十路淑美(七十路ばば独り言)
あじさいの花こぼるると近づけばシジミ蝶一羽つと飛び立ちぬ
紫陽花の花びらとシジミ蝶が似ているだなんて、この歌に出会うまで、思ったことがなかった。
どちらも身近なものなのに、不思議。
紫陽花は花の形のままに枯れていくもの。一枚だけの花びらを意識したことがない、というあたりがたぶんその原因なのだろう。
作者も紫陽花の花の下に花びらが落ちているなんて、と不思議に思って近づいたのではないだろうか。

続いて、自分の意識の方にぐんとひきつけて詠まれた蝶の歌を2首。

斉藤そよ (photover)
理不尽につのる自意識 蝶蝶が我を見ている叱りたそうに
擬人法は下手をすると子供の歌のようになってしまう。しかも「叱りたそうに」なんて口語、うっかりしたら、お前は幼稚園児かって歌になってしまうのだが、斎藤さんの歌の場合は優しさと温かさにあふれながらもそうはならない。初句二句の言葉の選択、そして二句切れの強さでうまくバランスをとっているのだろう。

(文 (f_blueな日々 題詠blog2008 )
あをじろき蝶生まれ出ず名をとはばたとへばあなたたとへばわたし
蝶はさなぎの中で自らを再編成する生き物というイメージがあるせいなのか、蝶に変わったばかりの時には存在そのものが生まれた、って感じがする。
「あをじろき」が、生まれたての蝶って、そんな感じだな、と思う。

蝶の形の意外なところに注目して詠まれた歌からは、次の一首。

穴井苑子 (猫のように純情)
(蝶っぽい)フーッと伸びたくるくるがしゅるっと戻るアレないですか
アレは「吹き戻し」と言います。別名、「まきとり」「まきぶえ」「ピロピロ笛」など…。http://www.fukimodosi.org/
確かに「蝶っぽい」おもちゃだ。
初句、カッコでくくられているところがあまりにも分離されてしまっていて、歌の形としては、もう少し工夫できるのではないかと思うのだが。

かわって、幻想的な歌や美的世界を言葉の力で再構成するタイプの歌。
こういうタイプの歌を多く詠まれている方の歌には素敵な歌がたくさんあった。

みずき (空)
蝶死して花とならんか春雨の十粒のなかに木の葉揺れたる
雨の粒の中に揺れる木の葉が揺れるのを見る目があれば、蝶は花へとメタモルフォーゼすることもできるだろう。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
磔刑の蝶を並べた書斎持つひとの訃報を読む木曜日
展翅された蝶の歌はいくつかあったが、この歌は磔刑と見立てられたことにより、広がるイメージがある。木曜日はほかの曜日でもよさそうに思うのだが、ほかの曜日を入れてみると、しっくりこない。

こはく (プラシーボ)
ゆんわりとはぐれてしまうつもりですあなたがくれた蝶をたたんで
はぐれる、という行動を起こす動詞が「蝶をたたむ」という行動を収めるかのような動詞とともに歌われている。そこに生じる軽い混乱のような感じが面白い。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
瑠璃色の星図を背負ふ蝶一頭おもたき夏の午後を飛びをり
この歌のいちばん注目すべき点は蝶一羽ではなく、あえて字余りの「蝶一頭」が選ばれているところだと思う。

紺乃卓海 (作品小箱)
蝶々のふれた花から引火していま春の野は青い渦です
「引火」によって、明るい春の野が「青い渦」に飲み込まれる情景へと自然に導かれている。

続いて蝶の文字を含む単語を読み込んだ歌から2首。
二首とも蝶の意味からは離れた物を詠んでいるが、蝶のイメージを纏ったまま歌にしている。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
泣かないで飛び立たないで扉たち 蝶番には鎮めのくすり
蝶番に蝶の字があることから生まれる世界。油を「鎮めのくすり」と表現したのもいい。

本田鈴雨 (鈴雨日記)
ぼんなうのしたたるなづき身にささへあはれ羽ばたきえぬ胡蝶骨
初句二句、平仮名で書かれているため、一瞬に意味を取ることが難しい。そのことが柔らかな字面とは逆に、引きずるような感覚を引き起こし、効果的。
頭を支える蝶がいるとは、知らなかった。


鑑賞009「会話」 [百題百日2008]

本日の題は「会話」です。案外と難しいように思うのは、具体性の乏しい言葉である上に、固い言葉だからでしょうか。

まずは「会話す(る)」と動詞の形で詠まれている歌を3首。
3首とも現実には、会話の成り立たない相手である、という点が共通しているのも、偶然ではないように思う。

橘 こよみ(aglio-e-olio)
不器用なわたしのことを自販機と会話するとき思い出してね
機械など、人工的なものには「会話」の持つ固いイメージが合うように思う。
最近の機械は話しかけてくれはするが、合成音声。それを定規で引かれた線に例えれば、「不器用」さはフリーハンドで引かれた線のよう。
そんな時には不器用さも愛おしく感じてもらえるかもしれない。

伴風花)(風日記*花日記)
ゆらゆらとわたしの中で暮らしてる小さなひとと会話するひと
胎児との対話。自分が会話しているのでは広がりがないのだが、別の人の出現で広がりが生まれている。

春畑 茜 (茶話なごやん)
それからはまぼろしの父と会話せりをりふしに沈香の匂へば
「それからは」が胸の奥に沈殿する歌。

「会話」の具体性のなさを逆に利用しているように思える歌から2首。

村上きわみ (北緯43度)
さみどりに濡れる会話のなかほどにあなたが植えるいっぽんの楡
「楡」の具体がいい。

宮田ふゆこ (ソーダ・ファウンテン)
手をつなぎ振りかえったら砂浜に残るふたりの会話の波形
上句で一瞬の時間を切り取っているために、歌の場面が明確に感じられる。
下句は少し通俗的な感じ。「ふたり」は省いた方がよくないだろうか。

日常で「会話」が自然に使われる場面を探すと、外国語などの学習の中における「会話」というものがある。
そんな中から3首ピックアップした。

岡本雅哉 (なまじっか…)
返品のきかない英会話チケット マキの気持ちがこの手に余る
この比喩は目の付けどころが、とても面白いと思う。

砺波湊 (トナミミナト2008)
好物を執拗に尋ねられておりチェコ語会話の教本のなか
語学テキストって繰り返しが多いので、意味にとらわれてしまうと、なんだか迷路に入り込んだような気分になることがある。
そんな変な気分をうまく掬い取った歌だと思う。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
かぎかっこかならずとじて教科書の会話みたいに句点でおわる
句読点の打ち方にはいろいろとあるようだ。かぎかっこを閉じるところの句点は(特に短い文では)省くのが普通だが、教科書は確かに律義に句点があったなあ。
「本とって。」「いいよ。」みたいな。
この歌では何が「句点でおわる」のかが、実は書かれていないが、実際の(あまり親しくはない)だれかとの会話が、ととってよいだろうと思う。

その他の歌から2首。

椎名時慈 (タンカデカンタ)
会ってから話をするのが会話だろう メールの文字で土下座されても
今ではもう、ほとんどの人が絵文字の土下座といえば絵が浮かぶだろう。この思い浮かぶというところが大事で作中人物の怒りの原因を再現できるのね。

内田かおり (深い海から)
自転車の少女ら会話を飛ばしつつペダルのリズムをふいに合わせる
上句の「会話飛ばしつつ」がちょっとわかりにくいように思ったが、下句がいい。ふっと息の合うような瞬間が切り取られている。


鑑賞008「守」 [百題百日2008]

8番目の題は「守」でした。
守るということ、守られるということはどうやら単純なことではなく、心理的な綾や皮肉を呼び込みやすい、面白い言葉だな、と思いつつみなさまの歌を読んでいました。
また、「守」の字を含む単語もバラエティーに富んでいて、わりに取り組みやすい題だったのではないでしょうか。
ただ、攻める側と守る側の攻防を描いた歌ではぼんやりとした場面が多かったように思います。もちろん、三十一音ですべてを歌うことはできませんから、取捨選択しないといけないわけですが、焦点がぼんやりとしているというか。出来事の輪郭を描くだけでは、人の心に伝わる歌にはなりにくいと思います。

まずは人を守ること人から守られることの歌から。

水須ゆき子 (ぽっぽぶろぐ)
守ろうと思うそばから守られてじっちゃんにまた野沢菜を買う
守られて私はこんなにも幸せ、みたいな歌が多い中で、この歌には心理的な屈折がある。
守られることは幸せなことなんだけれど、どこか居心地が悪いのね。
短歌はこのような微妙な心の綾を表現するのにほんと、適した表現方法だと思う。

越後守雪家 (越の国)
守られていたような気がしないでもないな最近部屋が汚い
「ような気がしないでもない」という、微妙な認識が面白く、わかるような気がする歌。
気づくところが部屋の汚さ、という自虐的な情けなさも、味があると思う。

続いて何かを守る歌。

赤城尚之 (うたかた)
この国に生まれた男たるものは恋であっても専守防衛
さすが日本男児は弱腰! と一瞬思うのだけど、ちょっと待て、なのだ。
現在の自衛隊の「専守防衛」を考えれば、なかなかしたたかな戦略ではないか。そこでまた、日本男児というは…と納得してしまう。

髭彦 (雪の朝ぼくは突然歌いたくなった)
国守るために民をば冷酷に犠牲となさむ戦といふは
戦で一層明瞭になる、民と国の関係。

カー・イーブン (ほぼ31音)
おまえらとずっと守っていたいのにひとり打席に立てというのか
この歌が面白いのは、徹底的に野球のことを詠んでいるのに、それだけの話ではあるまい、と思わせるところだろうか。

西巻真 (ダストテイル-短歌と散文のブログ-)
何を守って生きるとしてもアイスティーに浮かぶ氷がゆれだすようで
守るはたから逃げてゆく何か。守るということには本質的にこういうところがあるのかもしれない。

守られること、守られていたことの歌。

やすたけまり (すぎな野原をあるいてゆけば)
校庭は鳥獣保護区のまんなかでおおきな春に守られていた
背後に広大な森が広がっているよう。こういう場所で小学生時代をおくれるのは幸せなことなのだろう。

田丸まひる (ほおずり練習帳。)
約束を守りすぎてるこいびとの横顔なんて撃ち抜きましょう
こいびとは嘘つきで約束をしょっちゅう破る人じゃないと、つまんない。だけど、結婚相手には不向きなんだなあ、これが。

ジテンふみお (雲のない日は)
ヘルメット頭守るか知らんけど毛には悪いわ甲斐性無しが
なかなか解決困難な問題だ。でもヘルメットに甲斐性無しって言ってもねえ。
会話調が面白い。

「守」の文字を含んだ語を読み込んだ歌からは次の3首をピックアップ。

夏実麦太朗 (麦太朗の題詠短歌)
衝動で買ってしまった守り札何に怯える衝動なりや
「何に怯える衝動なりや」という疑問にはっとした。意外な認識。

我妻俊樹 (vaccine sale)
守衛室が無人だったの知ってた? とメールで話す背中あわせに
ずっと時間が経ったら、この歌に平成の叙情なんて感じを持つんだろうか。
ちょっと絵になりすぎているような気もするけれど、まぎれもない現在の、まだ幼さの残る人たちの歌。

沼尻つた子 (つたいあるけ)
のどぼとけひとつとして無き女子房に女性看守の点呼の低く
「のどぼとけ」に注目したことで、ものすごく変な風景が見えてくる不思議。

鑑賞007「壁」 [百題百日2008]

鑑賞7日目。今日の題は「壁」。
どこにでも見かけられるものだけに、比較的、詠みやすかったのではないでしょうか。
しかも音読みでも訓読みでも2音なので、自由度も高かったと思います。
この中で気になったのは(全くの初心者ではない方には、またその話、となるでしょうが)心理状態に比喩的に使われた「壁」。
繰り返して言いますが、使い古された比喩や言い回しを使う時には、それを使うことによって、歌が逆につまらないものになるのではないか、ということを考えて詠まれるのがいいと思います。
今日の鑑賞は投稿順に。

~~~~~~

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
岸壁にプレジャーボート並びいて瀬戸内海は穏やかな昼
「プレジャーボート」がいい。印象派風の水彩画のような風景となっている。
「穏やかな」は言わなくてもいいような気も。

船坂圭之介 (kei's anex room)
壁を這ふ蜘蛛ひとつ居り春の陽の際やかに映ゆなかに身を伏せ
作者の心理を表すかのような蜘蛛の姿。
「映ゆ」のあとに「る」が要るように思うんだけれど。

大辻隆弘 (大辻隆弘 題詠100首のために)
砂のふる空を見上げてゐたりしか陽に泡立てる壁に凭れて
「陽に泡立てる壁」がなんともいい。触覚に訴えてくるんですよね。

本田あや (明晃晃)
壊せないものにかぎって壊したい 爪で名前を掻く防火壁
ストレートに感情が伝わってくるような上句。こんな風に思うことってあるなあ、と思う。
今まで防火壁ってあんまり意識したことがなかったけれど、重くってがっしりしていて、どこか拒絶するような感があって、とこの歌を読むことによって、明確なイメージが立ち上がってきた。

空色ぴりか (美利河的題詠百首)
土壁にざらりとふれし指先にまだ残りたるそのひとの声
最初、「ざらり」はお決まりのオノマトペじゃないかと思ったのだが、立ち止まって考えてみると、この「ざらり」がなかったら明確な感覚が蘇ってこなかったような気がする。最近は土壁などあまり触る機会もなく、遠いものとなりつつある。

カー・イーブン (ほぼ31音)
ナガサワを壁掛けテレビで観るために剥がされるヒロスエのポスター
「ナカザワ」と「ヒロスエ」の新旧と「壁掛けテレビ」と「ポスター」の二重の新旧。そのことによってヒロスエのポスターはより色褪せて感じられるのね。それはない、とは思うんだけど、昭和の匂いを感じてしまう。
「ナカザワ」は「ヒロスエ」のところまで読み進まないと何かが分からないようになっている(そこも面白さの一つ)と、私は思うんだけど、最近の芸能人をよく知っている人だったら、最初から、わかるのかなあ。ちょっと、若い人に聞いてみたい気がする。

橘 こよみ (aglio-e-olio)
花びらが空から地から降る春にていねいに塗るゼラチンの壁
ケーキの側面にゼラチンを縫っていく作業をしているところかな。やったことはないけれど、冷えればあっという間に固まるので、塗ったところから固まっていきそうな感じがある。液体から固体へ移るわずかな時間は花吹雪を起こす時間をも限定するかのように感じられる。
「地から降る」の表現はおかしいと思われる向きもあるかもしれないが、わたしは作中主体自体が上下の感覚すらも失っているところを表しているのだと思う。地面から巻き上げられた花びらはそんな感じに「降る」。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
やはらかくわたしを壁のつる草に同化させゆく三月の雨
この歌は「やはらかく」の置かれている場所が面白い。「同化させゆく三月の雨」にかかる副詞なので、一般的には離れすぎているとも言える場所だが、ここにあるために、「わたし」も「壁」も「つる草」もすべてを「やはらかく」変形させてしまうのだ。

佐藤紀子 (encantada)
薄き壁を結界として住み分ける我がマンションの百余の家族
壁があるから、そこまでをテリトリーと認識するのだけれど、もし壁がなくなったとしても、意識が明確にそのテリトリーを再現しそうな不思議な感覚が、集団が固まって住むと生じるような気がする。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
壁打ちは得意なほうだ 何もかも自分のせいにできたらいいな
この歌の場合の壁は比喩的な意味合いが強いが、直喩にしなかったために陰影が生まれた。

寒竹茄子夫 (Sing Me Back Home Before I Die)
赤き壁の蔵の街ゆくみちみちに手折る露草爪染めながら
色彩の対比が鮮やかな歌なんだけれど、赤いのは爪ではなく、壁の方という逆転がある。そして実際の爪は緑に染まりそうだが露草の花の青も明確に想起されて彩りを添えている。

近藤かすみ  (気まぐれ徒然かすみ草)
噴水の影をかそかに映しゐる白壁ありぬ美術館裏
繊細な風景。白壁がスクリーンとなっているのね。影、それも噴水の影というのだから、薄墨で描かれた絵のような像だろう。美術館裏というのもいい。

春畑 茜 (茶話なごやん)
壁としてメッシ、アグエロならびしか否かは知らずはや秋の中
サッカーの「壁」の歌はほかにも何首かあったがこの歌は固有名詞の力を感じる歌だった。
わたしはサッカーには疎いので「メッシ」も「アグエロ」も全く知らないのだが、ラテン語圏の固有名詞かしらん、どこか古代ヨーロッパの明るさのようなものを感じた。
調べてみるとアルゼンチンの選手の名前なのね。なんだか秋晴れの日にはサッカーを見たくなるような歌だ。


鑑賞006「ドラマ」 [百題百日2008]

6番目の題は「ドラマ」。これは難しくなかったですか? この言葉って、よっぽど気をつけて使わないと、強烈に陳腐な匂いを放ってしまうように思うのですが。
わたしは韓国ドラマの感想ブログも別に持ってるぐらいの韓国ドラマ好きを自認していますので、ここは是非とも韓国ドラマで一首、と思ったのですが、断念いたしました。

~~~~~~

まずは、実際にドラマを見ている場面を詠んだ歌から。

川鉄ネオン (今週の俺が俺が)
なにひとつ為さぬ背中に日は暮れて再放送のドラマをみている
夕方の再放送って、始めてみるドラマでも色褪せた感じがあるのだが、その感覚をうまく生かした歌だと思う。

峠加奈子 (青い鳥同盟)
昼下がり再放送のドラマ見て君が何かを思い出してる...
今とそう変わりのない生活をしていたのなら何も思い出さないのですがね。
だから、思いだしているのは作中の「私」ではない人とそのドラマを見たってことじゃないかな。作中の私はそれを敏感に察してしまっているのだと思う。
わたしは再放送を2度見て、そのたびにしみじみしてしまったために、そのドラマ自体を忘れられなくなったというドラマが1本だけあります。

萱野芙蓉 (Willow Pillow)
いまだ見ぬさみしい色がゆれてゐるフィンランド語のドラマのふちに
ドラマの歌ではこれが一番いいと思った。
「フィンランド語」が「ドラマ」の持つ、どろどろしたイメージや重たい感じを一掃しているのね。
うまく作者の世界に持っていったな、と思った。

続いて、ドラマを比喩的に用いた歌から。
ドラマと実際の生活を比較する歌は多かったが、実生活にドラマがあってもなくても、ものの見方が型どおりなのでなかなか面白い歌になりにくいように思う。

文 (f_blueな日々 題詠blog2008 )
さて明日もドラマなき日を生きるらむ ふきんを漂白剤にひたして
「ふきんを漂白剤にひた」すという行為は、日常的な行ないではあるものの、小さな刷新を含んでいる。それが上句とうまく響き合っていると思う。

吉浦玲子 ([湖]湖蓮日日(これんにちにち))
すぎゆきはドラマにあらず茶屋町の路上でふひに口づけせしも
文語の力を感じる歌。言葉の持つイメージの重なりが歌の味わいを深めてくれる。
これを口語で詠まれると、わたしはたぶん、あほらし、と思ってしまうだろう。

穴井苑子 (猫のように純情)
ゴールイン&スタート 祝福のうちにドラマのジャンルがかわる
内容的にはよく言われることではあるが、「ドラマのジャンルがかわる」という表現が面白い。

あまのなづな (ちこつづり)
ドラマならふたりで終わりがみれるけどメオト夫婦の最後はひとり
人生はよくドラマに喩えられるが、なるほど最後は、この歌のとおりである。ちょっとした発見がある。
ただ「めおと」「夫婦」と重ねるのはどうなのかなあ。

我妻俊樹 (vaccine sale)
おとこの子に相談すれば上手くいく悪が滅びるドラマみたいに
そうね。きっとかんたんに「ぼくが殺してあげる」って言ってくれるわ。
…と平井弘の歌を連想します。
おんなの子たちは男の子の、ものすごくやさしい残酷さを知っていて利用するのね。
真っ先に男の子のこういうところに気付くのは「ウォーリーが見つからないのに次へ行く」タイプの子(「次」の題の小林ミイさんの歌)のような気がする。
おとこの子の本質とおんなの子の本質、か。

そのほか、「ドラマ」を避けて詠んだ歌には「ドラマー」など読みこまれているものがあったが、作者があまり「ドラマー」に明確なイメージを持っていないのでは?と思われるものばかりだった。避けるにしても自分の土俵に持っていかないと苦しいように思う。

鑑賞005「放」 [百題百日2008]

読みやすそうな題、だと思ったんだけれど、なぜか、選んだ数はとても少ないです。
きょうは、投稿順に、感想を書きます。

~~~~~~~~
鳥獲 (一ヶ月100冊読書生活)
√から放たれた5は富士山のふもとで鳥になるのだそうだ
類想はありそうだが、初句2句のまとめ方がいいと思った。
ところでフジサンロクの次は何だったか。イチミサンザンでもないし、フジサンロクニ、サンナスビでもないし、たぶん鷹も出てこなかったはずだし・・・。

斉藤そよ (photover)
「ご自由にお取り下さい」ひだまりは春のお空に放たれている
よく、チラシなどに添えられている一文が全く違う意味になって立ち上がる歌。
幸福感に充電されていくようだ。

青野ことり (こ と り の ( 目 ))
裏路地に放置されてる自転車に知らない町が匂うつかのま
この匂い、分かると一瞬思ったのだが、よくよく記憶をたどってみると、そんな経験はなさそうである。それ以前に自転車に匂いがあるだろうか。錆の匂いがしそうな気がするのかな?
しかし、その幻の匂いは「知らない町」の匂いだと言われれば納得するものなので、そういう幻の匂いを多くの人が感じるのだろう。

岩井聡 (あと100年の道草)
貝殻追放などの結果はメールにて午後の給水塔が眩しい
古代ギリシアが現代に紛れ込むと、給水塔が違った姿に見えてくるから不思議。

海子 (歌)
放ちやる魚の身するりと飲み込みてさわさわと揺らぐ春の水面は
三句まで読んだところで小さな魚が喉をすべり落ちるさまを思い浮かべてしまうが、その後の展開で、それは誤読であったと気付く。しかし、一度湧き上がった像は消えることはなく、水面が巨大な喉の入り口のように思えてしまうのだ。そのことで深まる春の情景である。

ジテンふみお (雲のない日は)
「工場長お電話です」の放送に胸張る癖の工場長は
電話がかかってくることが自慢なのかよ、と突っ込みたくなっちゃうんだけど、工場長は思わずやっちゃうんだね。
もしかしたら本人も気づいていて、それでもやってしまうのかもしれない。
だけど、この工場長を笑えないのは、人間誰しも変な癖をもつ生き物だからだろう。この工場長はもう一人の私たちでもある。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今日の題で選んだ歌が少なかったのは、ひとつには、私が「放物線」のイメージがどうやら、他の人とずれている、ということがありそうに思います。
あこがれのようなものを抱かれているのかな、と思うのですが、そこが全く分からず…。
また、物が投げられて落ちてくる様子に「放物線」が使われるのも、個人的に違和感があります。よっぽどいいポイントから見ないと、そんな風には見えないと思うんですよね。そのように物が移動するのって、私はどうも、見た記憶がない…。

鑑賞004「塩」 [百題百日2008]

4番目の題は「塩」。
わたしが塩フリークのせいなのか、いや、塩自体にイメージの広がりがあるせいですね、魅力的な歌がたくさんありました。

塩が自由化されてもう、だいぶ経ちますね。世界のあちこちの塩が歌に詠まれていました。
まずは、そんな歌の中から1首。

原田 町 (カトレア日記)
「桃花塩」とう美しき塩あり営々とチベット女性が川より汲みて
桃源郷を思わせる名前とチベットという土地名。どんな塩なんだろうと思い、検索してみた。
昔海だった地層が岩塩となり、そこに流れ込む伏水流にその成分が溶け込み、地上へ現れる。その塩分を多く含んだ水を天日で乾燥させて今一度塩にしたもののようだ。村の小さな経済活動の基盤となっている塩らしい。
なるほど、歌が想起させるイメージどおりである。
ところで、この塩のことはテレビ番組で紹介されたようである。この村の近くの村ではこの塩を買ってくれるが、近代化の波の押し寄せてきている、ちょっと大きな都市部では売れないのだといった内容が放送されたようである。
この塩が日本にいながら手に入る、なんてことにならないようにと願う。

また、塩スィーツが最近の流行りだったようで、そういう題材で詠んだ歌もたくさんあった。
その中からは次の2首をピックアップ。

秋月祐一 (カピバラ温泉日記)
怖い夢みたと甘えてくるきみの塩キャラメルのにほひのなかで
キャラメルと塩キャラメルの匂いに差異はないだろうと思うのだが(実は、まだ食べたことがないので想像)歌の中ではこの「塩」が大事。「きみ」はおとぎ話のお姫様ではないのだ。

すろー (彼方探訪)
休んでゐたことに気づかずおみやげに塩ちんすこうをもらひてゐたり
おみやげが「塩ちんすこう」なので、行先は沖縄である。行った本人にとってはちょっとしたバカンスだったはずなのに、休暇を取っていたことさえ知らなかった作中の人物とのギャップ。そこへもってきてダメ押しの塩味である。人間関係の中で感じるほのかなしょっぱさだ。

多いといえば、涙と関連させた歌や、傷口に塩を擦り込む歌が多く見受けられましたが、これはどうだろう。
使い古された比喩や言い回しはたいていの場合、歌を陳腐にすると思う。
だが、中には陳腐になりそうなところを利用していると思われる歌もあった。
そんな歌の中から2首。

野良ゆうき (野良犬的)
血圧の高いわたしは塩分を控え目にして時代を食べる
四句まで油断して読んでいると、五句目で「時代を食べる」。食べるのか!
内容自体はさほど新しいものではないのに、表現によって、新しい視界が開けた感じがある。

宮田ふゆこ (ソーダ・ファウンテン)
まっしぐらに来てね メールはさりげなく塩分濃度を高くしてある
たぶん、ちょっと辛口のメール、ということなのだろうが、まったくのイコールではない。比喩の場合、このイコールで置き換えられない部分があることが案外大切なのではないかと思う。

続いて塩と祖母の歌を2首。
祖母と塩は響き合う部分があるのでしょうかね。
そういえば、私も祖母と専売塩の歌を詠んだことがあった。

湯山昌樹 (短歌 富士山麓より)
塩のごとき遺灰となりしわが祖母は一世紀を生き抜いてみせたり
身を粉にして生きていた女性の最後に残したもの。塩に喩えられるのも納得だ。

今泉洋子 (sironeko)
祖母(おほはは)が胡麻で和へたるおくもじの塩梅思ひ菜を刻みゆく
「おくもじ」がいいですね。地方では残っている言葉なのだろうか。
祖母の生き方に対する共感のようなものを感じた。

続いて塩の道の歌を2首ピックアップした。

夏実麦太朗 (麦太朗の題詠短歌)
古の塩の道とふ国道に融雪塩を大量に撒く
道の昔と今。うちの近所でも年に何度か、融雪塩を豪快に撒く。最近では塩化カルシウムが普通だが、ちょっと前は塩を大量に撒いていたのだとか。
かつては大切に塩が運ばれてきた道に消費される大量の塩。石油に頼った生活の一端が見えるように思う。

春畑 茜 (茶話なごやん)
馬の影荷の影ときに揺れながら足助(あすけ)の塩は街道をゆく
こちらはいにしえの風景。
上句が細部にスポットがあたり、明確な像を結ぶので、目の前を馬が行くようである。


続いては、人の身体の持つ塩。

夏椿 (夏椿)
生命をはぐくむこともゆるされぬ子宮しづかなしづかな塩湖

「塩湖」の比喩がいい。
命をつなぐためには必要な塩も、あまりに高濃度となると、その中では生命を維持できない。
「ゆるされぬ」時間が積もりゆくほどに塩分濃度が高くなりそう。
ただ、わたしは「しづかな」の繰り返しはちょっとくどい感じを受けた。

塩によって感情表現をするときもある。

五十嵐きよみ (晴れ、ときどきため息まじり)
つい今日も彼女の好みに茹でていた玉子に塩をおもいきりふる
習慣は簡単には抜けない。そして、その行動を終えたとたんにまたやってしまった、と気づくものなのだ。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
私ったら塩を忘れたおにぎりのような顔して突っ立ってたの
自然な会話体が、比喩で表わされる少女のイメージをより明確にしている。

塩のみなもとは、海。

久野はすみ (ぺんぺん100%)
ヘルシンキの海のことなど思いつつじゅんと脂をこがす塩鮭

北欧の荒々しい海を想起させた後に、こじんまりとした塩鮭の切り身の脂へと収斂される視点が面白い。

鑑賞003「理由」 [百題百日2008]

今回の題は「理由」です。理屈っぽい歌になってしまったり、散文的になってしまったりと、なかなか難しい題だったのではないでしょうか。
恋愛の歌では同じような歌が、かなり多かったように思います。
誰かを好きになる時には理由がなくって、別れる時には理由があるのね。
聞き覚えのある言葉ですけど、ほんとかな?
一般的な言説で括っちゃっていいの?

まずは、何の理由なのかがはっきりしている歌。
このタイプの歌は理屈っぽくなりがちですね。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
右足の靴下だけがずり落ちる理由(わけ)知らぬまま妻と出掛ける
右の靴下のゴムだけ駄目になっているんでしょうね。
でも、そっちに展開すれば失敗で、この歌では、理由といいながらも、理由は二の次で片っぽの靴下だけずり落ちてくる変な感じに注目して詠まれている。日常のちょっとした違和感がうまく出ていると思う。

遠藤しなもん (忘れちゃった。)
バスが来てミンミンゼミのぬけがらをにらむ理由がなくなりました
この歌も理由を生真面目に追求するならば、バスの停留所のベンチに抜け殻があって座れない、とかの状況があるのだろうが、そこは捨てられている。歌にあるのはミンミンゼミをしばらく睨みつけている、たぶんかなり若い女の子と、その凝視がふっと解けた瞬間。作中人物のイメージが膨らむ。

春畑 茜 (茶話なごやん)
理由などなくてよからむ秋麗のけふを矢作のみづのながるる
冒頭から唐突に始まる「理由などなくてよからむ」で、何と言うのかな、心が解かれるような心地がする。
この歌にもし、倒置が使われなくって、歌の末尾にこの言葉が置かれていたとしたら、とたんに説明めいた面白くない歌になってしまう。

志井一 (日記ホプキンス)
出られない理由が特にない時はなるべく電話に出ようと思う
散文的な文体が作中の人物像を浮かび上がらせている。
私もちょっとわけがあって、電話を基本的には留守設定にしている。それまでは、電話に出ることは何とも思わなかったのだが、それ以来、この作中人物のような葛藤(という程のものか?)が。出ようと思うんですがね、決心してもすぐ…。

続いて、何の理由なのかは語られていない歌。

村上きわみ (北緯43度)
それはもう春のあめゆき じゅくじゅくと理由を濡らす春の あめゆき
北国の春。「じゅくじゅく」というオノマトペが妙に明るくて効果的だと思う。
宮沢賢治の妹への挽歌を思い出すのは私の個人的な連想なのだろうか。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
俯いて理由を告げる膝の上に鬱金香の一輪を置く
鬱金香はチューリップのことなのだが、この歌では、チューリップが鬱金香という言葉に置き換えられたときに生じる、イメージのギャップがうまく生かされていると思う。
鬱金香は「うこんこう」と読むのだとばかり思っていたが「うっこんこう」という読みもあるということを初めて知った。

続いて日常の一場面の中で使われた「理由」の歌から。

白辺いづみ (Iduming☆World)
「その理由」から始まった会議での新緑みたいな謝罪あいさつ
簡潔に会議の内容を推測させるのに適切な「その理由」。
「新緑みたいな」と、シニカルな目でとらえられているのが面白い。

比喩的に用いられた歌からは次の2首をピックアップした。

佐原みつる (あるいは歌をうたうのだろう)
まだ硬い冬のキャベツを剥くうちに理由のようなものが残った
何となく納得させられてしまうのは「まだ堅い冬の」キャベツだからだろう。


原 梓 (題詠blog百首を走る。)
後付けの理由のような味のするワインであった晩春であった
こういう味のワイン、あるなあと思う。
あまりよい春ではなかった様子だ。

最後に「理由」の本質的なところを考察した歌。


鳴井有葉 (そのための日記)
理由にも家系図がある君がいま得たのは理由の妹のほう
ユーモラスに描かれているが、納得できる。発見の歌といってもいいだろう。
一つの理由の背後には、いくつかの近似形の理由があるのだ。

鑑賞002「次」 [百題百日2008]

今日の題は「次」。単独で歌の中に入れたときには目立ちすぎす、熟語にすれば個性の際立つ言葉にもなる、取り組みやすい題だったのではないでしょうか。いいな、と思った歌の数も多かったです。

まずは単独で使われた歌から。

湯山昌樹(短歌 富士山麓より)
次の問いが今日の授業の決めどころ 生徒の心が向くのを待って
先生の歌。「決めどころ」というのが面白い。先生をやったこともないし、先生の心理を想像しながら授業を聞いたこともなかったので、こういう場面はとても新鮮に感じる。指揮者が指揮棒を振る直前の緊張感のようなものが、教室の中にもあったとは、知らなかった。

村上きわみ (北緯43度)
次に来る波をむかえにゆきなさい尾を高くしてわたしのけもの
この歌を読んで、男性と女性とでは自分の中にある獣性のとらえ方が違うのではないか、ということを思った。
女性の場合はまず何よりも本能であり、どちらかといえば他の自然と親和的な力なのではないか。

ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
唐突に海がひらけて次の駅までのつかのま息をひそめる
列車に乗って知らない路線を行くとき、このような経験をすることがたまにある。
あっと思って、一瞬息が詰まるのね。そのあと、その感動を逃さないようにしようという思惑が働くのか、理由はよく分からないのだけれど、私もこの歌のように「息をひそめ」る。作中の人物の息遣いが伝わってくる歌だと思った。

岩井聡 (あと100年の道草)
この次の彗星まではとっておくカラシニコフは庭師の名前
実は、この歌はうまく読み解けなくて、取り上げるのをやめようかとも思ったのだが、あまりにも魅力的だったので落とすわけにはいかなかった。
この歌を散文的に説明しようとすると、カラシニコフ銃を彗星(ハレー彗星だとか、何年かごとにやってくる彗星ね)が次に地球に近づく時まで手元に置いておくことにする。ところで、カラシニコフの名前は実は庭師の名前からとられているのだよ、ということになるかと一応は思うのですが。
最大の分からない部分は「カラシニコフは庭師の名前」のところなのね。検索もしてみたのだけど、銃のカラシニコフはやはり銃を作った人の名前のようだ。また、彼が銃を作った後、庭師に転じたという事実もどうやらなさそうだし。案外私が知らないだけで、そういう事実があったのかもしれないし、それならば全く問題ないわけだけど、事実と違うということになると、ちょっとどうなのかな、と思ってしまうのですよ。
だけど、「カラシニコフは庭師の名前」は抗いがたい魅力的なフレーズで、カラシニコフは庭師にこそ似合う名前、という気がしてしまう。

小林ミイ (題詠マラソン2008)
ウォーリーが見つからないのに次へ行くあの子を昔は軽蔑してた
少し成長した目で振り返ってみると、軽蔑していたあの子より、自分の方が数段こどもでバカでした、ということに気付くほろ苦さ。誰でも知っているようなことだけど、言われてみないとなかなか気付かない部分を歌にした、という点がいいが、それ以上にいいのは「ウォーリー」の具体性。いつまでも、ウォーリーのいる絵本のページの雑踏の中で迷っている作中人物が見えるようだ。

続いて、次々と続いていくものの歌2首。

水須ゆき子 (ぽっぽぶろぐ)
やわらかく押しても痛む夜の爪らっぱすいせん次々に鳴る
爪とらっぱすいせんの距離の取り方が絶妙だと思った。

本田あや (明晃晃)
次々とコーヒーを注ぐ 幸せは知らないほうがしあわせなので
ちょっと状況が分かりにくいが三句以降、作中人物の心理に触れる感じがあって魅力的。

続いて単語の一部として使われた「次」の歌から。

矢島かずのり (蟲短歌)
長男としての自覚がない俺をどうか次男にしてくれ 親父
兄弟は生まれた順番だけで、決めつけられたり、期待されたり。
そのあたりをユーモラスに表している歌。
ただ、現実の対処方法として、親父に言ってもだめです。弟がいるなら、弟を兄貴と呼ぶと解決します。
私は6歳下の妹を「お姉ちゃん」と呼ぶことによって、長女の重圧から逃げることに成功しました。今ではその妹を家族中が長女だと認めるようになっています。

002:次(末松さくや) (旅人の空(待ち人の雪別館))
文体に二次性徴があらわれて彼女はいつか何を孕むの
「文体」の「二次性徴」になるほど、と思った。そういえば、あらわれるような気がする。
下句はもう少し推敲できそうな気がしますが。

002:次(紺乃卓海) (作品小箱)
えんぴつの線で消された目次とかこの本はところどころ涼しい
寂しいでも、冷たいでもなく、「涼しい」と思うところが現代の人の心のありようなんだろうな、と思う。
(今後急激に変化しそうな感じもあるが)
「えんぴつの線」というのもいい。

002:次(あおゆき) (メソトリウム)
あの頃は一次関数 坂道を自転車で駆け上がったりした
一次関数のグラフから坂道を行く自転車への展開が人生の特定の時期を表現しており見事。
一次関数で、しばらく抛物線を思い浮かべていた私にはそんな時代は無かったのかもしれないと思うと、ちょっとさびしい気もする。その頃は自転車にも乗れなかったし。

002:次(寒竹茄子夫) (Sing Me Back Home Before I Die)
晩冬の三次(みよし)の街に牡蠣啖ふ 咽喉(のみど)墜ちゆく死をはらむ海
県でいえば広島県にあるのだけれど、中国山地の山中の盆地の町である、三次という土地の選択がいい。しかも晩冬となればより閉塞感がある。
生牡蠣はそれだけでも「死をはらむ海」という感じがあるが、それが一層強められているように思う。


~~~~~~~~~
余談ですが、「次はない」という場面が頻繁に見られました。
けっこうあるんですかねえ。なかなかハードだ。
たらたらと生きていると、あんまりお目にかかることがない言葉のような気がしました。

鑑賞001「おはよう」 [百題百日2008]

今年も五十嵐きよみさんの開催された題詠blogに参加された方々の歌をピックアップして、鑑賞いたします。
同じ題でも人によって使い方はさまざま。いろいろに展開される歌の数々を楽しみたいと思います。
どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。

~~~~~~~

今年の題詠blogは「おはよう」からスタート。この題へのトラックバックが342、ラストの「おやすみ」へのトラックバックが167でした。再投稿はたぶん、最初の題の方が多いだろう、とは思いますが、それでも完走者は半分以下だったのではないでしょうか。参加者の方の個々の事情はあるでしょうが、やはり、少しさびしい気もします。来年の予定はまだ発表されていませんが、来年も開催されるのであれば、今年、途中棄権された方も、ぜひ、再チャレンジを。

では、個々の歌について、ひとことコメントを。
まずは暮らしの中で「おはよう」の挨拶の交わされる時、交わされない時を歌った歌から。

藤野唯 (Sugarmint) 「お」が聞こえないおはようを聞きたくて今日もこっちの廊下から行く
片思いの相手とのあいさつ、というシチュエーションを詠んだ歌は多かったけれど、お決まりのパターンにはまった感じの歌が多くみられた。そのなかで、この歌は対象となる人物の細部に注目して詠まれているため、具体的な人物像がくっきりと浮かぶ。

秋月祐一 (カピバラ温泉日記) ぎこちない「おはやう」交はし合つたあと牛乳パックを「ん」と差しだす
こちらは初めて一緒に朝を迎えたカップルだろうか。ぎこちない挨拶と牛乳パックを差し出すという行動が二人の親密度を表している。みずみずしい様子が心地いい。

西中眞二郎 (しなやかに、したたかに、無責任に・・・西中眞二郎雑記帳)
おはようの代わりのセリフ見当たらずモゴモゴと言う午後の出勤
朝は「おはよう」、昼からは「こんにちは」、ということに一応はなっているのだけれど、全ての「おはよう」が「今日は」に置き換わるわけではない。特に仕事に取り掛かる時の挨拶に「こんにちは」では何とも締まらない。午後出勤が日常化している職場ならば時間によらず「おはよう」というところもあるようだが、そうでないところではこの歌のように、口ごもるしかない場合が多い。
余計な説明や感情を語らず、情景だけで作中の人物の気持ちが納得できる歌。

伴風花 (風日記*花日記)
二人分春の匂いを吸いこんで おはよう空だよ これが空だよ
胎児に語りかける母親の歌ということが「二人分」から推測できる。子に一つ一つ教えることで母親は世界を学びなおすという側面もあるのだ。

野良ゆうき (野良犬的)
昨日から言おうと決めてたおはようを明日に持ち越す まあいいじゃない
よくあることだし、同想の歌もあったと思うが、「まあいいじゃない」に不思議と味がある。気分が伝わってくるのかな。

伊藤なつと (やわらかいと納豆2008)
おはようとただそれだけの君からのメールが来ない はじまったんだ
これも五句が面白い歌。
何が始まったかが書かれていないために、変な想像を誘い込むのね。
常識的には欝な気分とか、そんなものだろうと思うけれど、わたしは「羽化?」なんて思ってしまった。

花夢 (花夢)
すこしだけ傾く地球 おはようの意味は毎日わずかに変わる
変化が「傾く地球」と関連付けられているので、どちらかというとマイナスの方へと変わる感じだろう。
ただの挨拶にそのような兆しを受け取ってしまう息苦しさを感じる。

こはく (プラシーボ)
まっすぐな朝日はきらい口パクのおはようだから邪魔をしないで
皆がいつでもさわやかに朝を迎えるわけではない。いや、現代社会では、多くの人が不機嫌な朝を迎えているのだろう。
考えてみると私も、目覚ましで起こされて行動してた頃は、誰も私に話しかけるな、と思う朝が普通だった。
そんな気分を詠んだ歌だが「口パク」が効いている。

我妻俊樹 (vaccine sale)
ガス管でジャングルジムを。首を出す顔におはようと言い返す
こちらは不気味な「おはよう」。ジャングルジムのパイプって、そういえば、ガス管に似ているかもしれない。
「ガス管」「首」という言葉から、この顔が単なる子供の顔に思えないのね。だけど、どこかユーモラスな感じもあって、ろくろっ首だとか、のっぺらぼうの顔だとか、そんなお化けが楽しく遊んでいる感じを私は受けた。

~~~~~
去年も思ったのですが、初めのいくつかの題は意味が分からない歌が多く見られました。もちろん、私の読解力不足からというケースもたくさんあると思うのですが、作者の側の独りよがりではないか、と思われる場合もありました。
作者にはどうやら大きな思い入れがあるようなのだけれど、思い入れが強い分だけ自分だけでわかってしまっている歌という感じでしょうか。作者はその歌の背景を全部わかっているのですが、読者は歌からしかわかりません。一度立ち止まって、自分以外の人の立場に立って歌を読み直してみるということも必要なのではないかと思います。


メッセージを送る

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。