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アプリオリ [短歌]

「短歌研究2月号」の穂村さんと吉川さんの対談を読んだ。
そこでちょっと気になったことをひとつ。
穂村さんの話なのだが、人間の認識のうち、アプリオリに持っている価値基準をあまりにも、過大に見ているように思えるのね。
たとえば、複数の演奏家による同じ曲の聴き比べをした時の話を出して、「自分がこれが好きであるとかこれがすごいんじゃないかという判断は直感的につくという気がしたけれど」という風に言っているが、その直感はアプリオリに持っている能力なのか、ということに疑問は持たないのだろうか、などと思うのね。
意識的に学ぶことの外側には膨大な、無意識のうちに学んでいることがあると思うんだが。

昔、学生時代、ゼミが始まってすぐに、先生が「《音楽は世界共通の言語》なんて言うのは大ウソである」ということをおっしゃったのだが、これは私にとって、目から鱗だった。
要するに、それは、西洋音楽を知った耳を持つ者同士の間では、ということになるわけ。
日本の昔の(明治ぐらいまでの)宴会を思い浮かべてほしい。芸者呼んでばか騒ぎいているような場だ。
三味線を鳴らして奏でられる音楽は日本の伝統的な音楽で、どちらかといえば、短調に近いメロディになるのね。
そういう場に居合わせた、短調長調で作られた耳を持っている西洋人は、なんてもの悲しい音楽だ、と思うのだけれど、その場の日本人にとっては、めちゃくちゃ陽気な音楽だったわけですよ。
では、同じ日本人である現代の私たちは、といえば、やはり、もの悲しいものを読みとってしまうのね。というのも、かなしいことに、わたし達は西洋音楽の《文法》にしたがって音楽を読み解くことが普通になっているからだ。

話は絵画に飛ぶが、私は東洋絵画の見方が分からない。
もちろん、この絵はすごい!というような絵はたくさんあるのだが、それは、西洋の絵画経由で見た面白さのような気がしているのだ。
それで、何冊か本を読んでいるうちに思ったのが、あんがい、わたしが見ている視点そのものも、西洋絵画の見方の影響を受けたあとのものではないのだろうか、というようなこと。
それまでは、疑問も持たず、透視画法によって書かれた西洋の伝統的な絵のように、あるいは写真のように見えているのが当たり前だと思ってたのだが、果たしてそうなんだろうか。
人間の目はカメラではない。人間の眼球は対象を前にした時、細かく動いて、対象をとらえるのだそうだ。
その、個々の情報を統合して一枚の絵のように理解しているのだが、その方式はアプリオリに持っているものなのだろうか。
いくつかの可能性のうちのひとつにすぎないのではないのか。
西洋の絵画の方式は、その後発明されたカメラによってとられた写真が西洋の透視画法の延長線上にあるようなものだったので、より、それは強固に信じられてしまっているのではないか、などと思うのだ。
西洋の絵画を目にしたことのない人がはたして、今の私たちと同じように目の前のものを見ていた、と断言できるものではないような気がしている。

そんなふうに、人間の感覚は好む、好まざるにかかわらず、その生きている場所と時代に大きく依存しているものなんじゃないかなあ


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