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詩と短歌 [短歌]

大辻隆弘さんの『時の基底』のⅠ部を読んだ。
1999年から2003年の「未来」に連載された時評。
自分が属していない結社の結社誌はあまり目にすることがないだけに、こういう形で読めるのはうれしい。
この1999年から2003年というのは、ちょうどわたしが短歌を知る少し前から、始めたばかりのころだ。
そういうことがあったな、と思ったり、その時分にはよく分かっていなかったことが、ああそういうことだったのか、と思えたり、とおもしろかった。
短い文で問題を鋭くとらえられていて、読みやすいのに、深く考えさせられる。
また、ほかのところで話題になっていたことがこれを読んで、少し理解出来たように思えた部分もあった。

「やまとことばの基底」という章で取り上げられているのは「短歌人」の時評の吉浦玲子氏の記事に対して書かれた「Es」という同人誌に掲載された加藤英彦氏の記事に対するもので、このこと自体は初めて目にするものだったのだけれど、ネットで以前目にしたものの、よくわからなかったことの原因が少しわかったような気がした。

記録しているわけではないのであやふやな記憶なのだが、「短歌は詩である/ない」といったやり取りがネットでもあったと思うのだが、わたしには短歌が詩ではない、というのがどうしてだか、よく分からなかったのだ。議論自体、どこかかみ合ってない気がしたものだった。
私自身は初めて短歌に触れたときに、そうか、詩とはこういうものだったのだな、と感動とともに思ったということもあり、とても不思議だった。

大辻さんのこの本に戻り、そういうことだったのか、と思ったのが

>短歌は決して「一行の詩」などではない。「詩」などといった、さかしらな概念をはるかに深く貫く「うた」であり、やまとことばの基底なのだ。

の「さかしらな概念」という部分。
この文は加藤氏の論への反論と書かれているのだが、加藤氏の原文自体は入手できないので、大辻氏の引用のみに頼って理解するしかないのだが、

>短歌の読みに必要なのは、①「掛詞」などの和歌的修辞の理解ではない、②一首の背後に「われ」の存在を透視する「一人称神話」に基づく読みではない、③「てには」の機能に注目した読みではない、④「韻律」を重視した読みではない、

>「詩人や作家にも通用する水準にまでわれわれの言葉を鍛え上げる」

といった加藤氏の論はまったくもって同調できないものであり、大辻氏の言っていることはもっともだと思う。

>それ(=短歌)は西洋の詩学から直輸入された「喩性」や「イマジネーション」といった名詞中心の言語間では論じることができない。

これも確かにその通りだと思う。
だが、ここで言われている詩とは西洋の詩のそれも近代詩以降の、ほんの一握りのものではないだろうか。それをもって

>「詩」などといった、さかしらな概念

と断じ、詩全体へと敷衍するのはいかがなものか。

また、日本の場合、長らく詩=漢詩とされ、和歌に対比されるものとされてきたため、混乱が起きているという部分もあるのではないか。
詩をやまとうたの対立概念としてとらえている人たちと、詩を古今東西の韻文すべて、ととらえている人が混在しておりながら、互いがその違った概念のままに論争がなされており、噛み合っていないことがあるように感じられる。

私自身としては、詩は各々の言語の中でその歴史を培ってきたものだと思うし、短歌は日本の詩のきわめてすぐれた一形態だと思っている。

そして、もう一つ気になったこと。
ここは大辻氏の文章に対して、というよりも加藤氏の詩に対する考えに対してちょっと疑問に思ったということなのだが。
西洋詩について、私は暗いのでよくは知らないが、加藤氏の言うような「韻律」を無視する詩など全体からすれば少数派なんじゃないのだろうか?
西洋においても詩の成立はまず、吟ずることに始まったのではなかったのか。
それに、やはり「短歌は一行の詩である。」と言っている人の中に石井辰彦氏がいるが、それに続けて「詩は朗読されるべきものであり、短歌もまた朗読されるべきである。」とも書かれていて、
 http://yowatari.exblog.jp/m2007-04-01/
たぶん、加藤氏とは180度違う詩観なんだろうと思う。



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