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演奏家礼賛 [短歌]

先日、短歌関係の友人の日記を読んでいると吉川宏志さんの『風景と実感』のことがちらっと出てきた。
そう言えば、完璧に積読状態になっていたなあ、と先ほど引っ張り出して、読みだした。

まだ、1章しか読んでいないのだけれど、その中で、ものすごく気になったことがある。
論の本筋とは関係のないことなのだろうが、(楽器の)演奏家の扱いがあまりにもひどいんじゃないかと思うんですよ。

1か所引くと
>バッハの曲の演奏者は、楽譜上の記号に合わせて指を動かしたり止めたりしながら、実際の音に変えていく。そのとき演奏者は、バッハの身体の動きをなぞっていることになる。死者であるバッハの生命のリズムは、演奏者の身体を通して、まざまざと蘇るのである。

なんだか、演奏者が楽譜の自動再生装置のように思える。
実際のところ、一つの曲は、作曲家がいて、演奏者がそれを演奏して(両者がイコールのこともあるが)初めて作品となるわけで、作曲者も重要だが、表現者としての演奏家がいることを無視しちゃいけないだろう、と思うのね。

私は常々、演奏家と歌人って、わりに共通項が多いのじゃないか、と思ってる。
まず、一見いくら自由に見える表現方法にしても、結局のところ実はかなりの限定を受けているのだけれど、その限定の範囲をつねに意識しして表現するということにおいて。
歌人が定型を完全に離れてしまってはもはや歌人ではなく、ほかのジャンルの表現者となるように演奏者は楽譜から離れられない。
しかし表現者であるからには、楽譜を読み込み読み解いて、その演奏者の表現を作り上げていかないとならない。

また、ここが限界だと思われていたところが動く場合がある。
短歌で言えば、たとえば句割れや句跨り。演奏者にとっては例えば音律。一時はピアノといえば平均律で調律されるもの、というのが常識だったのだろうと思うが、今は演奏者がそれ以外の音律を選ぶという選択もわりに行われることが多くなっている。行われてみれば何のことはない表現の可能性の広がりは、それが行われるまでは目に見えない。

そして、その表現を味わうためには、自覚的であるかないかはともあれ、ある程度の訓練が必要だということ。音楽は多くの演奏を聴き込まないと、短歌は多くの歌を読み込まないとまるで見えてこないという点において。たまたま聴いただけでは、たまたま読んだだけでは気づかない所に本質にかかわる面白さが存在するのである。

まあ、そんなことを思っているせいで、本論とは関係のないことといえ、演奏者を軽視することが自分たちにも戻ってきそうな刃のようで、ちょっと気になった。
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